第26話 朝食会
『――カス、ルーカス』
どこからともなく俺を呼ぶ声がする。これは夢だと思った。たまに見る、わけが分からない夢。
混戦したテレビの画面みたいに、ザザッ、ザザッと脳裏に砂嵐が走る。
『ルーカス・アエリウス……』
誰かが俺の名前を呼ぶ。何かを伝えたいみたいに。壊れた機械音のようなその声は掠れていて、男のものか女性のものかも分からない。
真っ暗な空間に、その闇よりも黒い人型の影が浮かんでいる。
そいつは誰かを探すように腕を伸ばしてくる……俺を探すように?
『ココニ……イ……ナイ。ハヤク……タビ……』
ガーッピーッといかれたスピーカーみたいに頭を埋め尽くす声。
「あーもう、うるさい!!」
俺は頭の上まで布団を引っ張り上げて、その中で丸まった。それすらも夢なのかも知れなかったが。
疲れてるから俺はゆっくり眠りたいんだ。
放っておいてくれ!
頭の中で強く拒絶したからか、急速に音が遠ざかっていく。後に残ったのは静寂と、ぬくぬくとした布団の温かさだけだ。
ぎゅっと腕で足を抱き寄せると、貧乏性だと思うが大きなベッドの隅っこで猫みたいに丸まって眠る。
穏やかなまどろみは、すぐに奇妙な夢の記憶を忘れさせた。
◇
翌朝。俺はあくびを漏らしながらベッドに起き上った。悪夢にうなされたような気がするが、どんな内容だったのかまったく覚えていない。
昨日、あんな出来事があったからだろうか。
着せ替えで疲れたからか、心労からか分からないが絶対、あの人たちのせいだ!
「ルーカス様、おはようございます」
ベッド脇にはいつも通り、俺つきの侍女エレナが立っていた。もうすでに顔を洗うためのタライには水が張ってあり、腕にタオルをかけている。
まだ日も明けやらぬ早朝だと言うのにエレナはポツポツとそばかすの残る顔に爽やかな笑みを浮かべていた。
「ルーカス様がお寝坊されるなんて珍しいですね」
「あのおばさ……お姉さんたちのせいだよ。エレナだってもう聞いてるんでしょ、昨日の騒動!」
俺はまだベッドの上でプンスカと憤慨して、枕をポカポカと叩いた。
「私も見てみたかったですわー。あちらのそうそうたる御つきの方々に遠慮して部屋に下がるのではありませんでした」
右手を頬に当てて、エレナがほぅっと悩まし気なため息をつく。
エレナは消えないそばかすを気にしている、もうすぐ二十歳の明るいお姉さんだ。いつもルーカス様のせいで嫁ぎ遅れたなんて軽口を叩いてくる。
そのくせ、この旅について来たのは誰か騎士団に気になる人がいるからじゃないかと俺は考えていた。
年上だっていいんじゃないと俺がアイリーンの事を語ると、そうですよね!と、なぜかやたら鼻息荒く同意したりするからだ。
俺は扉の外へチラリと視線を走らせた。
非常時でもない限りプライベートルームである寝室に騎士たちが入ってくる事はまずないが、今も部屋の外には誰かが待機しているはずだ。
「その事、あいつらには絶対、言わないでよね」
一瞬、きょとんと動きを止めて、それからエレナはフフッと秘密めいた笑みを浮かべた。
「あら。なんの事でしょう?」
さすが田舎国であるマーナガルムとは言え、王宮づきの侍女を務める人物だ。そのすっとぼけ方は堂に入っていた。
この調子なら侍女たちからバレる心配はないか。
安心してベッドから飛び降りる。
「あら。ルーカス様。まだ起きてらっしゃらなかったんですか」
ちょうどローズが腕に俺の着替えを抱えて、部屋に入って来た。
俺は昨日、ローズが助け舟を出してくれなかった事を思い出して、プイと横を向いた。
お小言が聞こえなかった振りをして、パシャパシャとタライの水で顔を洗う。
しかし服を着替え終わる頃にはすっかり腹を立てた事も忘れて、俺はローズやエレナを伴って元気良く部屋を出た。
昨日のセインとアレクと入れ替わりなのだろう。そこにはユーリとルッツが控えていた。
屋敷にお客人がいる影響なんだろうか。大仰な仕草で胸に腕を置き、片膝を折って挨拶してくる。
「おはようございます、ルーカス様」
「うん、おはよ!」
ニヤッと口の端を上げて答えると、ユーリは軽くウィンクして、ルッツも大きな口を広く開けて笑った。やっぱりやってみたかっただけだな、こいつら。
ローズとエレナは寝室の片づけに戻るので、ここで騎士たちにバトンタッチ。
いつもだったら食事は一人で取るのだが、客人がいるので今日は二人につき添われて食堂へ向かう。
食堂の前にはすでにワルターたちがピシリと背を伸ばして任務に当たっていた。
分隊長の姿を見かけてユーリとルッツの態度が改まる。
ワルターたちにも声をかけようとして、いつも厳つい分隊長の顔がわずかに脱力していると言うか、疲れているように見えた。
これは……もしかして面白いシーンを見逃しちゃったのかな?
クククッと含み笑いしそうになる口元を強いて引き締める。
ワルターは顔を動かさず冷淡な視線だけを俺に向けた。
「ワルターもみんなもおはようっ!」
俺の挨拶にもワルターは仏頂面で会釈してくるだけだった。もー、一緒に風呂にまで入った仲じゃんかー。そんなに警戒すんなよ?
「どうしたの、ワルター? 寝不足?」
無邪気な子供を装って聞いてみるが、周囲の反応を見るにあまり上手くいったとは思えない。それほど俺の表情は下世話にニマニマしていたのだろう。
ワルターはさすがに大人だったね。
苦々し気ながらも声を絞り出した。
「寝ずの番をしておりました」
それはどっちの意味だったんだろう? メルチェリーダさんを警戒していたのか、それとも期待していたのか。
これ以上、聞いてくださるなとばかりにワルターが威圧してくるものだから俺もそれ以上、からかえなかった。
「なんにせよおばさ……お姉様方は今朝、帰るしね。それまでの辛抱だよ」
ワルターの逞しい腕をポンポンと叩いて慰める。
それでやっと少しだけだけど、ワルターも愁眉を開いてくれた。
「お気遣い感謝いたします」
朝食の場面では特に何も問題は起こらず、和やかに会食が続いた。
母様はあまり朝早く起きる事がないせいか顔色が悪かった。食事にもほとんど手をつけていない。
それでも友人たちと少しでも長く語らいたいからだろう。微笑みを顔に張りつけて、なんでもない振りをしていた。
母様の様子を窺うオレイン先生はいささか物言いたげだったが、今日だけは見逃してくれたようだ。
「神医とまで謳われる名医を我がレートに迎える事ができて光栄に思うよ、オレイン師。この間、打診した話は考えてくれたかな?」
メルチェリーダさんが一緒に食卓を囲んでいるオレイン先生に話題を振る。
「レートの首都で行われる学会に招いていただけると言うお話は有難いのですが~……」
先生が気づかわしげに俺と母様に視線を投げる。
温泉保有国であるレートは、観光業の他に療養の地としても名高い。自然、高名な医師が集まる。
オレイン先生はその医師たちが集まる学会に特別講師として招待されているのだった。
もし出向くとなると二、三日は屋敷を空ける事になる。
「あら。わたくしでしたら平気ですわ。なにしろシアーズに戻ってからはびっくりするほど身体が軽いんですの」
母様が先生の気持ちを後押しするように微笑む。なにせ先生は、俺が知っている限り、一度も休暇を取った事がない。
遠く、マーナガルムに越してきた上に、こんな南方に旅をするはめになっても一言も愚痴すら零さないくらいだ。
何年も離れている故郷を思う気持ちがないはずないのに。
自らが神医として名を馳せていても、オレイン先生はいつも低姿勢で他の人から少しでも多く知識を教わろうと言う気持ちが強い。そんな先生が学会に行きたくないわけがないだろう。
「そうですよ。前に先生ご自身が言ってたじゃないですか。少しばかり目を離したくらいで病が悪化するわけないでしょう。それにお弟子さんたちに任せるいい機会でもありますよ」
「我が国にも心臓を専門にしている医師たちがいる。ソフィアのためにも、ぜひ意見交換していただきたいものだな」
俺たちやメルチェリーダさんに熱心に勧められて、先生はやっとの事で首を縦に振った。
「そこまで仰るなら、よろしくお願いいたします~」
ほんわかと、はにかむような笑顔を見せてくれる。三十歳にもなってその顔は反則ですね、先生。思わずお姉様方も毒気を抜かれて自然な笑顔になった。
メルチェリーダさんもほくほく顔だ。レート国王の肝入りで行われる学会だ。神子のオレイン先生が出席するとなると、かつてないほどの人を集めるだろう。嫁として内助の功を示せると言ったところか。
ひとつ貸しですよ、と言うように視線を向けると、メルチェリーダさんは出会ってから初めて苦笑を見せた。
やっと優位に立てたような気がするな。
それからしばらく歓談した後、母様の身体に障らない内にと三人は早々に帰途につく事になった。
メルチェリーダさんが侍女から受け取った手袋をキュッと嵌めながら、母様に聞かれない程度の小声で俺に囁く。
「君たちならすでに耳に挟んでいると思うが、最近、この別荘地も物騒でね。まだ盗賊の一人も捕らえていないのは当事国として情けない限りだが、気をつけておくれよ?」
これは俺と、その背後のワルターに言ってんのか。メルチェリーダさんの視線がチラリと、他の二人と別れを惜しんでいる母様の方へ向く。
何があっても母様だけは守り抜けと言う意味だろう。
もちろん、そんな事、言われるまでもない。それに何かなんて起こさせないさ。
マーナガルムの騎士たちは一人ひとりが一騎当千。そこらの盗賊に後れを取るわけがない。
俺たちが力強く頷くのを見て、メルチェリーダさんは満足そうに口元に笑みを浮かべた。
「メルチェリーダ、またすぐ来て頂戴ね?」
何を話しているかなんて気づいていない母様が少女のような微笑みを浮かべて両手を広げる。メルチェリーダさんは心底、愛しげに母様と抱擁し合った。
ほんとに絵になるよな、この二人は。
「もちろんだとも、あの憎っき赤き狼に一言、物申してやらないといけないからね」
「まぁ、ほんとにメルったら」
クスクスと女性陣の笑い声が玄関ホールを満たす。
去って行く馬車に大きく手を振って、母様はいつまでもいつまでも名残惜し気に門の向こうを眩しそうに眺めていた。
カウント3




