第21話 温泉ですよ! サービス回ですか? 違います!
レートだ! 温泉だ!
と言うわけで俺たちはさっそく、荷ほどきもそこそこに近くの温泉地に来ていた。
深い森を有する風光明美なこの地方の温泉の泉質は炭酸。別名、心臓の湯。
炭酸泉は血圧を下げるので心臓への負担が少ないと言われている。母様も昔、来た事があるらしい。
日本と違って、この世界で温泉と言うと療養で訪れる場所だ。どの温泉地にも医師が常駐している。
それに一度で治るものではないので、短くて一週間、長いと数週間から数ヶ月は滞在するのが普通だ。
母様もしばらくしたら、ここで湯治する事になるだろう。
だが俺は、いてもたってもいられず一足先に温泉にやって来ていた。だってお風呂だぜ、お風呂!
この世界、衛生観念ってのがなくて、平民だと平気で数週間とか身体を洗わない。よくてタオルで身体を拭いたり、夏なら川とか井戸で水浴びするくらいだ。
身体を洗うのも風呂とは言い難い、ただお湯を張っただけの大きなタライだ。
俺でも足を伸ばせないくらいの大きさのタライの中に入って、タオルをお湯につけながら身体をゴシゴシ擦るのだ。大人はもっと面倒臭いだろうなと思う。
俺は綺麗好きだと思われているので、昔から俺の周りにいる侍女や召使いたちは気を使って身綺麗にしてくれている。
セインなんか元から身なりには気を使っていて髪はサラサラだし、髭を生やしているところも見た事がない。他の騎士たちも、シアーズに来て身体を洗う回数は増えたようだ。
そんな衛生事情だからお風呂なんて諦めてたのに、温泉だぜ、温泉!
足が伸ばせる広いお風呂!
感激だ!
前世ではいつも手早くシャワーで済ませて、狭いユニットバスにお湯を張る事は少なかった俺だが、転生して初めて温泉に来て分かった。
日本人にお風呂は必要不可欠だ!
「ふー……」
お湯の中で手足を伸ばし、満足感に深いため息をつく。
湯気の向こう、差し向かいにいるのはワルター分隊長だ。誰もおっさんの裸なんか見たくないが、これは槍の試合で優勝したワルターへの慰安でもあるのだ。
シアーズから旅立った後、久しぶりに会ったワルター分隊長はグチグチと煩かった。
「殿下は応援に来て下さらなかった……せっかく優勝したのに……」
ほんとにごめんって。
そんなこんなと、日頃の護衛のお礼も兼ねてワルターを温泉に誘ったのだ。
四人は脱衣所の外で待機。分隊長だけずるいと言う視線で見られたが、お前らまで入ったらご褒美感がなくなるだろ。
心配しなくてもレートにいる間、嫌ってほど来る事になるよ。その時に交代で入ればいいだろう。
ワルターは温泉に入り慣れていないので、早々にお湯から出ていた。今は風呂の縁に腰かけて足だけお湯に浸けている。
ここらの温泉は水着で入るタイプなので、安心してくれ。見えてない。
もし見たら自信を失いそうなので見たくない。
ワルターのガッシリと鍛え上げられた身体には幾筋か、裂傷や矢傷の跡が走っていた。
マーナガルムの軍人たちは大抵、誰でもひとつやふたつは傷跡を持っている。
正式に配属される前に、必ず最低一度は戦場に出るからだ。初陣を経験していない騎士や兵士はいない。セインたちも体験済みのはずだ。
そうでなくてもワルターは十数年前、俺の父方のおじいちゃんである先王が急死した際の動乱の頃も騎士だったはずだ。
恐らくその時、二十歳前後。そのくらいの年齢で幾多の戦場を駆け抜けてきたのか。
そう思うと古傷も恰好いい。
ワルターの傍らの桶には冷えたワインが入っていた。俺がお小遣いをはたいて取り寄せた、かなり高価なものだ。
シアーズへの旅の最初の頃、俺とセインたちの仲を取り持って貰った時、ワルターは南国にも旨い酒はあると言っていた。
慰労のついでに、あの時の約束を果たそうと思ったのだ。
元日本人の俺としては、温泉には日本酒だろーって思うのだが、ないものは仕方ない。
俺の身体はまだ六歳だから味見できないし、前からワインは苦手なので味の良し悪しが分からなかったのが不安だ。
ちゃんと美味しいといいんだけど。
俺は湯の中を分隊長に近寄ると、お風呂の縁に手をかけて見上げる。
「ワルター、飲んでる? ちゃんと美味しい?」
いつになく寛いだ顔でグラスを掲げたワルターが笑顔を見せる。
「ありがたくいただいておりますよ。昼間っから飲むただ酒より旨いものはありませんが、それを置いてもかなり上等な酒ですな?」
俺はニヒヒッと笑顔を返して誤魔化しておいた。美味しいなら良かった。張り込んだ甲斐があったってもんだ。
実は秋祭りの時におじいさまから貰った例のお小遣いをつぎ込んだってのは内緒だ。値段を聞いたら遠慮しかねない。
あんなものいつまでも持ってても仕方ないから、使い道があって良かった。
「注いであげよっか?」
「滅相もない。手酌で十分ですよ」
ワルターは俺を手で制して、自分で瓶を持ち上げて中身をグラスに注いだ。もう半分くらい飲んでいるのに表情が変わる気配もない。酒には強そうだ。
ちぇーっ、飲み会で鍛えられた俺のお酌の技術を見せるいい機会だったのにな。
「僕がつき合えなくて悪いね」
「それなら殿下が成人されたあかつきには、お相手仕りましょうかな」
「ハハ、楽しみにしてるよ」
俺は姿勢を変えて、温泉の縁に頭を乗せたまま、湯の中に大の字に手足を伸ばした。
あー、生き返るぅ。いつまでも出たくないわぁ。
ワインを口にしたワルターは、俺を見下ろして目を細めた。
「そう言えば、ユリアンの顔は見違えましたぞ。セインの方の憑き物も何とかなりそうで安堵致しました。さすが殿下としか言いようがないですな、この短期間で」
「ワルター、お前ねー。ああ言うのは言っといてくれないと」
顎をクイと上げて見上げても、ワルターは人を食ったような笑いを浮かべるのみ。
「アレクセイとルートヴィヒは今後に期待と言うところでしょうかな」
「アレクとルッツは別にいーよ、あのままで」
「殿下のお心のままに」
ワルターが俺に向かってグラスを掲げ、茶目っ気を見せてその向こうで片目を瞑る。
狸の掌で踊らされたのは気に食わないが、今日は慰労だからこれ以上、文句は言わないでいてやるよ。
「そっちの様子はどう? しばらく見に行けなかったけど」
「妃殿下は外出される事も少ないので、あまりやる事もなく暇ですな。最近、弛んでるようなので出立前にしごいてやりましたよ」
向こうの隊員さんたちにはご愁傷さまとしか言いようがない。
俺たちも騒動が多かったから、同じようなもんかな。
ここは露天風呂ではないが、完全な屋内でもなく、屋根の下は柱のみという東屋みたいな作りのお風呂だ。
どこからともなく小鳥の鳴き声なんか聞こえて、時折、初冬の涼しい風が吹き込んで気持ちがいい。
立て続けに起こっていた騒動も忘れるほどののどかさだ。
レートへの短い旅の間も、何事もなくて良かった。
「ひとつ、お耳に入れておきたい事が」
ワルターが組んでいた足を外して、身を屈めてくる。なんだよ、せっかくいい気分だったのに。騒動が起こる前触れとかじゃないといいけど。
「レートでは今、盗賊団が現れているようです」
ワルターの報告に、顔を曇らす。
「まーた、盗賊? 退治しに行きたいとか言わないよね」
「まさか。こちらの盗賊は多くても数名程度で、主に使用されていない別荘を狙う小物のようです。我らには関係ないでしょうが、一応、警戒はしませんとな。あいつらにも伝えておいて下さい」
「りょーかい」
大した事じゃなくて良かったけど、なんだか物騒だな。いわゆる空き巣か。
レートは春夏秋冬、それなりに観光客が絶えない国だが、今はちょうど冬の避寒客がやってくる直前。空きの別荘も多いんだろう。
俺たちは人数も多いし、夜も見張りを立てているのでちょっと見れば狙うのは無理そうだと分かる。心配ないか。
「それより、おじいさまが来たら狩りに行かないといけないんだけど」
「殿下、弓の腕前は?」
聞かなくていい事を聞いてくるなよ、この悪狸め。
「今からユーリに習います」
「それなら、こんなところでのんびりされている場合ではないのでは?」
「うっさいな、分かってるよ」
放っとけよ。たまには俺だってゆっくりしたっていいだろ。
その日は特に騒動も起こらず、俺は前世ぶりのお風呂をたっぷりと満喫して、最後にはかなりのぼせてしまった。
湯上りの火照った身体に、用意して貰っていた冷たい牛乳が気持ちいい。
腰に手を当てて満足気に牛乳を飲み干す俺を周りの人は、なぜ風呂上りに牛乳?と言う疑問の表情で眺めていた。




