2月6日(木) 16:00
「――――あれ、田部さん?」
小野寺くんが、自転車を押しながら目だけで私を振り返る。
ぼんやりしていた私は、はっと我に返った。
慌てて焦点を彼に合わせれば、自分と結構な距離が空いてしまってることに気づく。
歩幅が広いからなのか急いでるからなのか、ちょっと気を抜いたらあっという間に小野寺くんの背中が遠くなってしまうのだ。
私は自転車を押して、彼に駆け寄った。
こうなったのには、事情がある。
ニット帽の上からとはいえ、小野寺くんにネコミミを触られた私は、咄嗟に脱兎の勢いでその場から逃げ出した。彼が怖いカオで追いかけてきたから、こっちも必死で。
でも、2人は隣の席同士なのだ。逃げようにも、どちらかが授業を休まない限り顔を合わせることになるわけで……。
トイレの個室に逃げ込んで唸っていた私は、結局すごすごと自分の席についた。
だって、私は小野寺くんみたいにホイホイ授業を休んだり出来ないもん。
そして、6時間目。
私は教科書に、先生が口頭で大事だと言ったことを書き留めていって。そうしたら横でそれを見ていた彼が、おもむろにシャーペンを手に取った。
4時間目までは筆記用具すら机の上に出さなかった小野寺くんが、なんてことだ!……と、私はものすごい衝撃を受けて。
だから、彼が何を書くのか興味津々で様子をみていたんだけど――――――。
“付き合って”という、全然授業に関係ないひと言が。あろうことか、私の教科書に。
思わず固まってしまった私を見た小野寺くんが、溜息をつきながらまたペンを走らせた。重ねて言うけど、私の教科書に。
“放課後”と言葉を付け足して、彼は私をちらりと一瞥した。
“放課後、付き合って”
言葉の意味は分かる。
でも、と私はシャーペンを遊ばせた。ゆらゆらと、ペン先が紙の上を行ったり来たりして。
……だいじょぶかな……猫っぽいことしてる姿、たくさん見られちゃってるし……また頭触られたらどうしよう。
不安要素がありすぎる。なっちゃんに言われるのとは、全然重みが違う。
シャーペンを握る手が、じんわり汗ばんでくる。
小野寺くんの書いた文字を見つめたまま動かなくなった私を見て、彼はさらにペンを走らせた。
「……あの、」
私は彼の背中に向かって声をかけた。
追いついたけど、やっぱり小野寺くんの歩くペースは速くて。
「どこ、行くの……?」
途切れがちになった言葉が引っかかったのか、彼は足を止めて私を振り返った。
ようやく休憩出来た私は、深呼吸して少し上がった息を整える。
「田部さんに、見せたいものがあって」
「見せたいもの?」
小首を傾げれば、小野寺くんが頷いた。
「ん」
近くで見ると、彼の鼻先が少し赤い。
寒いのかな。コート着てるけど、男子って制服に重ね着出来るものが少ないみたいだし。
まじまじと見つめて考えていたら、彼の口から「あ」と声が零れた。
「俺、歩くの速い?」
「え?……あ、ああ」
唐突な質問に、すぐに答えられなかった私は一拍置いてから頷く。
すると小野寺くんは、眉根を寄せた。
「待て、って言えばいいだろ。そういう時は」
言えるかそんなことー!……とは言えず、私は口を噤む。
こう言っちゃアレですが、茶髪でピアスが3つの小野寺くんに「歩くの速いよ、待って!」なんて言える度胸、私には備わってないんですよ。
ネコミミがニット帽の中で、へにゃん、と倒れる。
そんなことを考えて黙り込んだ私の前で、彼が溜息をついた。
「ごめん、もうちょいゆっくり歩くよ」
「ふぇ?」
……小野寺くんが気遣ってる。
イライラしてるとばかり思っていたから、拍子抜けした声が零れる。
そして、そんな自分の声を聞いた私は、はっと我に返った。
……お、怒られる。これは絶対怒られる。
ところが、そう思って息を飲んだ瞬間、小野寺くんが失笑した。
「言えるわけないか。
田部さん、小心者っぽいもんな」
「しょ……?!」
なんだか小馬鹿にされた気がした私は、言葉を失って瞬きを繰り返す。
すると彼は、最後にひとつ笑みを零してから、前を向いて歩きだした。固まったままの私に、「ほら行くよ」とだけ言って。
さっきよりもゆっくり、私が重いカバンごと自転車を押しても、余裕を持ってついて行けるくらいの速さ。
宣言した通りに歩いてくれた小野寺くんは、ちらりと目だけで私を振り返った。
「田部さんて、俺のことどう思ってんの?」
爆弾みたいな台詞に、私は戸惑って口ごもる。
「ど、どう……?」
こんなに困る質問はないと思う。
よりによって、相手は小野寺くんだ。
当たり障りのない回答を用意しようと、私は懸命に頭を働かせた。
けど、私がそれを口にするより早く、小野寺くんの溜息が聴こえてくる。
「どうせ、あんまり学校に来ない怖い人、とか思ってんだろ?」
「ぐ」
……図星です。
一生懸命隠そうとした本音を当てられて、思わず呻く。
すると彼は、何も言えなくなった私を笑った。
「いやもう、分かってたけど。田部さんウケる」
「う、うけ……?」
もう私、たじたじだ。
小野寺くん、意外過ぎます。
今どこかに連行されてるのだって、教科書に「救急車呼んでもらえて良かったねー」なんて書かれて、断るに断れなくて。そのくせ、ゆっくり歩いてくれたり、私をからかって笑ってみたり。
だからって、避けようとも思えない。
ちょっと怖いけど優しくて、振り回されちゃう。
なにこれ。なんなの小野寺くん。
「ま、そのうち“ぎゃふん”と言わせてやるけどー」
絶句した私を見て、彼はそう言ったのだった。
次は何する気なの、小野寺くん……。
自転車を押して、やって来たのは一軒の古い民家の前だった。
いや、民家じゃないらしい。引き戸の脇に立てかけた板に、“高橋古書堂”と書かれてる。
……なんか、ミスマッチですけど。小野寺くんと古書店。
「ここに、見せたいものがあるの?」
2台の自転車を並べて置いてくれた小野寺くんが、私の問いかけに頷いた。
「ん、とりあえず中に入って」
言いながら彼の手が、引き戸に伸びる。
カラカラ、という音に時代を感じながら、私は彼の後に続いて店の中に入った。
そこは薄暗くて、外の世界と遮断されたような雰囲気がしていた。
むわっ、とした古い紙の匂いが、纏わりついてくる。
古めかしい雰囲気に言葉を失いつつ、私は奥へと進む小野寺くんの背中を追いかけた。
「――――いらっしゃい」
ふいに響いた低い声に、咄嗟に振り返る。
するとそこには、何冊かの本を抱えた人が。
学生さんではなさそうだから、店長さんあたりだろうか。真面目そうな、こう言っちゃアレだけど小野寺くんとは正反対の印象を受ける。
その人は、小野寺くんを見つけて肩を落とした。
「なんだ、誠か」
「どうもー。
お疲れさまです」
……あれ。2人は知り合いなんだろうか。
思わず小首を傾げた私に気づいたのか、低い声の人が微笑んだ。
その柔らかい雰囲気に、私はやっと緊張していた頬を緩めた。
「めずらしいね、誠の友だち?」
「や、その……」
でもその質問は、ちょっと困る。
何と答えたものかと言葉を濁した瞬間、小野寺くんが私の肩を掴んだ。
う、これは……。
ぎりり、と力のこもる気配に息を飲んで、私はかくかく頷いた。
「ひゃい!」
……ああ、やっちゃった。
2人はひとしきり噛んだ私を笑ってから、いくつか会話をして。
そして、小野寺くんは私を残して奥の部屋に消えてしまった。
「すぐ戻るから、その辺の本適当に見てて」なんて言ってたけど……。
私はこっそり溜息をついて、手近な本棚に収まっていた古書を取り出した。
なんとなくページを捲れば、古い紙がしっとりと指に吸いついてくる。
ネコミミは、ひくひくと周囲を窺うように動いて、まるで小野寺くんが消えていった先の様子を窺ってるみたいだ。
そんなつもり、全然ないのに。
ぼんやりそんなことを考えていたら、ふいに、声をかけられた。
「お名前は?」
「えっと……田部です」
我に返って答えた私に、店員さんが微笑んだ。
「僕は、高橋諒介」
「あ、それで“高橋古書堂”……」
立てかけられていた板を思い出して言えば、高橋さんが頷く。
「そう。一応店主。
まだまだ半人前だから、誠にはいつも助けて貰ってばかりで」
苦笑した彼は、小野寺くんが消えていった方を見て呟いた。
なんとなく、それだけで彼らがよく知る仲だってことが伺える。
思わず頬を緩めて視線を投げた私は、ふと疑問に思ったことを口にした。
「助けて、って……?」
「ん?
……ああ、なんだ」
問いかけに、高橋さんはわずかに目を見開く。
そして、ちょっとだけ笑って言った。
「誠は、ここでバイトしてるんだよ。
すっごく有能でね、頼もしい限り」
そのひと言に私が反応するより早く、奥に続く襖が開いた。
「お待たせ」
がらっ、という音にネコミミがびっくりしてる。
でも、そんな音よりも何よりも、私は小野寺くんの姿に驚いていた。
……言葉が出ない。
「おかえり有能くん」
茶化した高橋さんに仏頂面を見せた小野寺くんが、私を見遣る。
そして、にやりと笑んだ。
とっても楽しそうに、してやったり顔で。
「ふふん。
ぎゃふん、て言うなら今ですよ田部さん」
現れた彼は、黒いエプロンに黒縁メガネをかけてて。
……誰、これ。ほんとに小野寺くん?
どうしよう、惚れたかも知れない。




