2月6日(木) 13:10
小野寺くんのまさかの発言に、頭の中が真っ白になる。
そして次の瞬間、大きく目を見開いた私は、思い切り息を吸い込んだ。
「え、」
「ちょっ」
「えぇぇ、むぐぅぅぅーっ?!」
絶叫しかけた私の口を、慌てた小野寺くんが手で塞いだ。
大きい手から、若干煮干しの匂いがする。
……美味しそう、なんて思っちゃったのは、きっとネコミミのせい。きっと。
「声でかい」
舌打ちした彼が低い声で囁いて、私は息を止めた。
ぴた、と声が止んだのを見計らったのか、小野寺くんの手がゆっくりと離れていく。
煮干しの匂いが遠くなって、私は息を吐きだした。
小野寺くんは、私の口を押さえてた手をポケットに手を突っ込んだ。
なんかもう、その立ち姿が……わざとじゃないんだろうけど威圧感に満ちてる……!
慄いていたら、彼がむすっとした顔で口を開いた。
「……叫ぶ前に、何か言うことあるんじゃねーの。俺に」
「え、っと……?」
ぼそっと言われた言葉に、小首を傾げる。
すると彼は、大きな溜息をついた。
「ありがとう、とかさぁ……」
心底悲しげに、頭の先から脱力したような格好に、私はびっくりして声が出なかった。
だって、こんな表情豊かな小野寺くん、初めて見る。
呆気に取られて言葉が出ない私を見て、彼は口元をひくつかせた。
その顔が目に飛び込んだ瞬間、はっと我に返る。
そして慌てて口を開いた。
「あっ、ああああありがとごじゃいました!」
……なんかもう、全然上手く喋れない自分に腹が立つ。
恥ずかし過ぎて、勢いで下げた頭を上げられないでいると、彼が小さく噴き出した。
私はこわごわ顔を上げて、上目遣いに彼の顔をちらりと見る。
茶髪が風で揺れて、日差しでキラキラしてて。
ぶち猫はいつの間にか煮干しを綺麗に平らげて、規則正しい呼吸を繰り返してる。時折、短いしっぽがピクピク動く。
……のん気なもんだなぁ……。
わりかし綺麗な顔をしてる彼は、にやにやと人の悪い笑みを浮かべて言った。
「えー、そこ噛んだらダメじゃん」
「うぅぅ……」
唸った私を見て、小野寺くんは満足したのか頷いてる。
他人の失敗をにまにま見てるなんて、悪趣味だと思いますけどー。
……とは思うものの、助けてもらった身でそんなこと言えない、と私は口を噤んだ。
すると小野寺くんがポケットから手を出して、ぶち猫の隣に座る。
「まあ、いっか」
ぶち猫は、気持ち良さそうに眠ってる。
私も同じネコミミが生えたんなら、いっそあれくらい図太くなりたい……。
おもむろに猫を撫でて、彼が言った。
「どうせ、覚えてないだろうと思ってたし」
「覚えてない……?」
半分オウム返しに呟いたら、彼が頷いた。
「救急車待ってる間の話だけど。
……田部さん、俺が呼んだら目開けたんだよ」
「そ、なの……?」
全然覚えてない。
呆然と声を漏らした私を見て、小野寺くんは真剣な眼差しになる。
「うわ言みたいに何か言ってたけど、全然聞き取れなくてさ。
もしかしたら、俺が田部さんの最後の言葉を聞いたのかも、と思って。
……めちゃくちゃ怖かった……」
ぶち猫を撫でながら遠くを見つめる瞳が、苦しそうに歪む。
……こんな小野寺くん、見たことない。
私は思わず、彼に向き直っていた。
「あ、あの、ごめんなさい。
巻き込んじゃって……」
小春日和の中庭で、こんなに真剣なカオをした小野寺くんと向き合ってる私は、一体何をしてるんだろう。
さっき猫と喋ってたのは、ギリギリセーフで聞かれてなかったのかな。
頭の隅の方で、そんな疑問が浮かんでは消えていった。
茶髪にピアス3つ、授業をものすごい率でサボる小野寺くん。
ひとの教科書を、勝手にぺらぺら捲って感心してる小野寺くん。
……もしかしたら私、あなたのこと誤解してるかも知れない。
小野寺くんの手が、ぶち猫から離れる。
ぶち猫は何かを感じ取ったのか、片方の目をうっすら開けて私を見た。でも目が合って、それっきり。何も見なかったかのように、また目を閉じてうつらうつらし始める。
「でも、」
視線を戻した私は、まっすぐに小野寺くんの目を見た。
……2時間目の前、知らんぷりしようとしてゴメンなさい。
彼の瞳が、私の視線を受けてゆらゆら揺れる。
私は初めて彼のことをちゃんと見ている気がして、不思議な気分になった。
そして、言わなくちゃ、と口を開く。
「小野寺くんに見つけてもらえて、よかった。
ほんとに、ありがとう」
そう言ったら、小野寺くんは珍しく動揺して。
「や、別に……、うん……」
なんて、言葉を濁した。
……あれ? もしかして小野寺くん、照れてる?
「あのぉ~……」
私は、隣に座る小野寺くんと携帯を交互に見た。
13時7分……あと3分で、5時間目の予鈴が鳴ってしまう。
「んー」
小野寺くんは、ぶち猫と並んで日向ぼっこ中。
さっき声をかけた時には、「おー」とかなんとか返事をしてたけど……どうする気なんですか、5時間目。
まあでも、校内でも有名なサボり魔の小野寺くんだから、そういうこともあるのか。登校したけど気が変わって帰っちゃうことなんて、今までも良くあるみたいだし。
……よし。
考えを巡らせて、心の中で頷いた私は思い切って口を開いた。
「もうすぐ授業始まるし、私、そろそろ教室戻るね」
「あー……」
ベンチでふにゃふにゃと光合成に勤しむ彼の口からは、よく分からない返事しかない。
私は小さな溜息をついて、小野寺くんに言った。
「もしかして、午後は休む?
それなら机、離しといてもいい?」
ネコミミも痒いし、授業の前にトイレに行っておきたい。あんまり、ここでゆっくりしてるわけにもいかないんだ。
少し早口で告げた私の言葉に、突然小野寺くんの目が開いた。
そして、結構な勢いで立ち上がる。
『にゃっ?!
……なあに、どうしたのー?』
隣のぶち猫が、びくっと体を震わせて飛び起きた。
私も驚いて、無意識に体が強張る。
……すみません、ちょっと馴れ馴れしかったでしょうか。勝手に親近感持ったりして、ほんとは不快でしたか。
3つのピアス穴、中学の時に根性見せるために自分で安全ピンで開けたとかいう逸話は、やっぱり本当だったりするんですか。
今でも売られた喧嘩は率先して買っちゃうんですか。
「あ、あの?」
ぐるぐるといろんなことが脳裏を駆け巡った末に、こわごわ声をかける。
そんな私を振り返って、小野寺くんは言った。
「行くよ、田部さん」
「え?
行く?」
脈絡もなく言い放たれて、呆然としてしまう。
すると口が開いたままの私に、彼はイラっとしたのか口元をひくつかせた。
……しまった。
「あ、」
小野寺くんがお怒りになった気配を瞬時に察して、私は我に返る。
そして勢いよく頷いた。
「はははははいっ、行くんですよね!
――――――あっ」
がらん、がらん
立ち上がろうとした刹那、膝の上にあったタンブラーが転がる。
蓋はしてあったから中身が零れる心配はないけど、トロくさいことしてると、また小野寺くんのイライラ指数が上がるかも知れない。
「ごめ……っ」
私はお気に入りのタンブラーを追いかけるべく、慌てて腰を上げて――――。
「いいよ、座ってな」
それより早く、目の前に立っていた小野寺くんの手が私の頭に伸びる。
ふに。
「――――んにゃぅっ?!」
その手が触れた瞬間、私の口から恐ろしく猫っぽい悲鳴が飛び出した。
だって、ものすごい衝撃だったのだ。
背中がぞくぞくして、わき腹をくすぐられた時みたいな。身を捩って逃げたくなるような……感じたことのない、衝撃的な感覚で。
とてもじゃないけど、言葉で表現出来ないような感覚だった。
なんだこれ、なんだこれなんだこれ……?!
「え?」
小野寺くんが、悲鳴を上げた私を見て固まってる。なんか変な格好で。
きっと、すぐにタンブラーを拾い上げるつもりだったんだろう。
自分で自分に戸惑う私は、もうどうしたらいいのか分からなくて泣けてきた。
……せっかく小野寺くんが親切にしてくれようとしてたのに。なんか変な声出ちゃったし。恥ずかし過ぎて消えたい……!
じわ、と瞼に涙が溜まっていく。
恥ずかしさもあるけど、生理的なものもあるんだと思う。くすぐられた時や笑い転げた時に涙が出ること、あるから。
「うぅ……」
「え?!」
思わずネコミミの部分を押さえてぷるぷるしてる私を見て、小野寺くんが声を上げる。
その時、5時間目の予鈴が鳴った。
そして間延びした、のんびりした予鈴が鳴り終わるまで、私と小野寺くんはお互い動くことが出来なかった……。




