2月6日(木) 13:00
今日も私は、黒いニット帽を被って登校した。
ひらひらリボン事件の直後は、レジで会計を済ませる小野寺くんを見て「明日は絶対休む」と心に誓ったはずなんだけど……。
現実はそうもいかなかった。
「学校行きたくない」なんて言ったら、病院に行け、って両親に言われるに決まってる。病院の先生にも、頭のこと聞かれるかも知れないし。
危ない橋を渡ってまで学校を休むくらいなら、“小野寺くんが学校をサボる”方に賭けた方がよっぽど現実的だ。バイト中にあんな寿命の縮まるようなことが起きたからって、彼の方はきっと気にしてないだろうし。
そういうわけで、半ば祈りに似た気持ちで、私はニット帽を被ったんだけど。
「せんせー」
――――――なんてこった。
「教科書忘れました」
サボると思っていた小野寺くんは2時間目の直前にやって来て、当然だけど私の隣の席に座ってる。しかも、手まで上げてる。
……知らんぷりしちゃえ。
絶対に振り返らないぞ、と私は口元を引き締めた。
また目の前で何かひらひらされたら、きっと掴んじゃう……。
ペンケースからシャーペンやペンを取り出して、とにかく手を動かす振りをしてみる。
「お前なぁ……」
黒板に向かってた生物の春日先生が呆れたように頭を掻いて、小野寺くんを見た。
「誰かに見せてもらえ。
……ったく、いっそのこと教科書全部、置きっぱなしにしとけよ」
なかなか教師らしからぬ台詞を吐いて、先生は再び黒板に向き直る。
「はーい」
かったるそうな小野寺くんの返事を横で聞きつつ、私は黒板に文字が書き込まれるのを察してシャーペンを握った。
すると、がこん、という衝撃が手に。
「わっ」
うにょにょー、とミミズが走ったような線がノートに刻まれて、私は思わず振り返る。
そして、見てしまった。
机をくっつけた小野寺くんが、おもむろに手を伸ばして教科書を広げて。書き込みを見て「へー」なんて呟いたりして……。
……ってそれ、私の教科書!
「あれ、なんでそこに」
「なっちゃん、今日は中庭で食べよう!」
教室の外で彼女を待っていた私は、食い気味にそう言った。
「い、いいけど……」
案の定、なっちゃんは戸惑いながら頷いてる。
そろりと教室の中を覗いた私は、溜息をついた。
小野寺くんは、くっつけていた机をそのままにして、男子の輪の中でお弁当を食べている。
……今日はずーっと私の教科書を見る気ですかー。
今日も小春日和で、日差しが気持ちいい。
私は、いくつかあるベンチの1つに荷物を下ろして深呼吸する。
すると、なっちゃんが小さく笑って言った。
「綾乃、楽しそうだねぇ」
なっちゃんは、私が中庭に来る途中で話した午前中のいろいろが面白かったんだろう。
でもそのひと言に、私は顔をしかめる。
「ぜんっぜん!」
無視を決め込んだ私を無視した小野寺くんは、結局2時間目からずっと机をくっつけたまま隣に居座った。教科書や資料集や、前回の授業で配られたプリントがないから、なんて言って。
私が彼のことを無視出来たのは、ノートに走ったミミズみたいな線を消すところ、まで。あとは、なんやかんやと訊かれれば答え、見せてと言われれば見せて、である。
……なし崩し、ってこういうことをいうのか。
「見せてあげる、って言うんだから、お願いすればいいのにー……」
私と反対側の席の女子が、休み時間に小野寺くんに言ったのだ。3時間目の直前、小野寺くんが居眠りから復活した時に。
鞄からタンブラーを取り出す。
開けると、お茶の香りが湯気と一緒に立ち昇った。
それを吸い込んだ私は、憂鬱な気持ちで息をつく。
「小野寺くんが、綾乃のを見るからいい、って断ったんでしょ?」
ぱか、とお弁当箱の蓋を開けたなっちゃんが、鼻唄混じりに言う。
……何か大好物でも入ってましたか。なっちゃん。
お茶を啜っていた私もお弁当箱の蓋を開けて、口を尖らせた。
「うん。なんか、書き込みが気に入ったみたい。
教科書とかプリントに、先生が言ったこととか書きこんでるんだけど。
……それ見て、ふーん、とか、へー、って言ってる、けど。
んなことに感心するくらいなら、教科書持って来い、っての」
「お、綾乃ちゃんのお口が悪くなった」
「ふん!」
鼻息荒くサンドイッチにかぶりついた私を見て、なっちゃんが苦笑する。
「まあまあ。
嫌われてイジメられてるわけじゃないんだし、いいじゃん」
そう言って手を合わせた彼女は、卵焼きを口に入れた。
良くないし。
―――――なんて、言えるわけないか。
私は、胸の中で溜息をついた。
なっちゃんの言う通りなんだ。別に小野寺くんは、私に嫌がらせをしてるわけじゃない。昨日のひらひらリボンだって、何気なくしたことだったんだろうし。
それなのに、どうして彼に関わりたくないと思ってしまうんだろう。
……もやもやする。
そんなことを考えながら一心不乱に咀嚼していたら、突然音楽が流れた。
ネコミミが、ぴくっ、と震える。
「あ、あたし。
ごめん、マナーにするの忘れてた」
「ん」
咀嚼中の私は、ただ頷いた。
なっちゃんが鞄の中に手を突っ込んで、ごそごそし始めた。
すぐに携帯を取り出した彼女は、私にひと言断ってから通話ボタンを押した。
「もしもしー。
……うん、え?」
元気な声が飛び出したのに、話し始めてすぐ表情が曇る。
どうしたんだろう、と横目に見ながらサンドイッチにぱくついていると、なっちゃんが大きく目を見開いた。
「……うわごめん!
すぐ行くわ、えっと、3分で!」
早口で一気に捲し立てた彼女は、電話を切って私を振り返る。
私が「どうしたの?」と言う間もなかった。
「借りてるノート、鞄に入ってるの忘れてた。
5時間目で使うみたいだから、すぐ返さなきゃ」
「ああ、その電話か」
貸した人から催促の電話だったんだろう。
慌てて残りのお弁当をかき込む彼女に、私は言った。
「私、お昼休みが終わるまでここで時間つぶすね。
気にしないで行ってて~」
「ほぉ?」
頬張り過ぎて喋ることの出来ない彼女に、私は苦笑を浮かべて頷いた。
「じゃ、またあとでね!」
「はいはーい」
お弁当を瞬殺して立ち上がったなっちゃんは、すぐさま駆けて行った。
振り返った口元に食べカスがついてた気がしなくもないけど、私は笑顔で手を振る。
そして彼女の背中が校舎に消えていくのを見届けて、飲み物をひとくち。
今日はバニラ風味の紅茶だ。
お弁当は母親に頼んで作ってもらってるけど、飲み物だけは自分で用意することにしてて。そんなに多くないバイト代で、好みの茶葉を揃えたりしているのだ。
洗濯機をまわしたことのない家事オンチの私でも、お茶を淹れることだけは得意だったりする。ちゃんと勉強したことはないけど。
砂糖とは違う甘みを感じて、ふにゃりと笑みが零れる。
私は膝の上に広げていたものを片付けて、足を投げ出した。
日差しも心地いいし、お腹もいっぱいだし。
「あ、ふ……」
近くに人がいないから、油断して欠伸も出ちゃう。
「このまま、ここで寝ちゃいたいなぁ……」
そう呟いて思い切り伸びをした、刹那。
『寝ちゃえば~?』
聞き覚えのない声に、眠気が吹っ飛んだ。
そして、視線を巡らせてその正体に気づいた私は、思わず声を零した。
「……げ」
足元に、猫がいるのだ。ぶち模様の、尻尾の短い猫が。
「なんでまた」
素直な感想を漏らすと、その猫は小首を傾げた。
『なにー?』
「や、なにっていうか……」
私も私だ。咄嗟に受け答えしてしまうあたり、順応性が高過ぎる。
自分に呆れつつ、私は背もたれに体重を預けた。
『そこ、わたしの場所ー』
ぶち猫は、私を見つめて言う。
『わたし、ここでお昼寝するの』
「え?
……あ、このベンチのこと?」
思い至って自分が座っている場所を指させば、ぶち猫が頷いた。
『ん。
おとなり、いいー?』
なんて礼儀正しい。
半ば感心しながら、私は少し荷物をずらした。
こんなふうにお願いされたら、快く場所を空けてあげたくなってしまうじゃないか。
するとぶち猫は、音もなく飛び上がる。
そして綺麗な着地をきめると、隣にいる私を見上げた。
『ありがとー』
その純粋そうな目に、思わず私も「いえいえ」なんて返事をしてしまう。
もう、自分に猫の言葉が解る理由なんて、どうでも良くなってしまっていた。疑問には思うけど、邪魔だとは思えなくなってしまってるのだ。
私はそっと手を伸ばして、声をかける。
「ね、撫でても怒らない?」
『いいよー。
でも、しっぽはイヤなの』
ぶち猫はもう丸まっていて、自分の毛に埋めた口からくぐもった返事が返ってきた。
「ん、分かった」
触る前に、猫本人に許可をもらうなんて初めてだ。
変にドキドキしながら、私はぶち猫の額を指でそっと撫でる。目を閉じて、ちょっとだけしわが寄ってる部分が可愛くて、何度も何度も。
すると、ぶち猫が言った。
『あのひとと、おんなじねー。
きもちいい……』
なんだか、うっとりしてるみたいだ。
夢の中に半分入ってるような声色に、私は小首を傾げる。
「あの人って?
飼い主さんのこと?」
見た感じでは、首輪がないから飼い猫じゃなさそうだけど……。
思いながら囁けば、ぶち猫は片方の目を開けて私を見た。
『たまに、おいしいものくれるの。
耳に、なにかついてるひと。やさしいよ』
……えっと、何か今、聞き捨てならないワードが出たような。
私は頬が引き攣りそうなのを堪えて、ぶち猫を撫で続けた。
誰のことなのか猫の記憶と観察力だけで決めつけるのは良くない、なんて思いながら。
『さっきもね、おいしいのくれたの。
だから、おなかいっぱい。
……ふぁぁ、ねむー……』
欠伸をして、ぶち猫は目を閉じた。
そしてすぐに、お腹のあたりが規則正しく上下し始める。
「ねえ、」
私は、ぶち猫の耳がひくひく動くのを見ながら囁いた。
「お前なら何か知ってる?
あの灰色の仔のこと……」
『んー……?』
丸まったぶち猫の前足が、ぴくくっ、と何かを蹴る。
夢でも見てるんだろうか。
微笑ましくて、思わず笑みを漏らした私は呟いた。
答えなんか貰えなくても、聞いてくれる者が欲しかったんだと思う。
「このネコミミ、あの灰色の仔の耳なのかな……」
次の瞬間。
「やっぱりここだった」
最近よく聞くようになった声が響いた。
もちろん、小野寺くんである。
「あ……?!」
絶句した私は、咄嗟にぶち猫から手を離す。
すると、目を開けたぶち猫は彼を見上げてひと声。
『んにゃ?』
「にゃ、って……猫じゃないんだから」
言葉でなく、ただ声を発しただけのぶち猫に思わずツッコミを入れて、私は息を飲んだ。
いやいやいや、これが正しい反応なのだ。猫として。さっきまで普通に会話してたから、急に『にゃー』なんて言われて、反応してしまったじゃないか……!
やっちまった、と心の中で自分を罵倒し尽くしていると、彼が体を屈めて手を伸ばしてきた。
「煮干し、まだあったから持ってきたんだぞ」
『にぼしー!』
一気にテンションの上がったぶち猫が、飛び上がって小野寺くんに擦り寄っていく。
……なんか、すごい敗北感だ。お腹いっぱい、って言ってたじゃん。
呆気にとられて見つめていたら、小野寺くんがポケットから袋に入った煮干しを取り出して、ぱらぱらとベンチに置いた。
いくつか散らばったそれを、ぶち猫が鼻唄混じりで口に運ぶ。
「よく噛めよ」
優しいカオでぶち猫を撫でながら囁いた彼を見て、私は思わず呟いた。
「小野寺くんが“おいしいもの”の人だったのか……」
すると、彼の視線が私に向けられる。
――――――あ。
失言に気づいた私は、慌てて口を噤んだ。
でも分かってる。もう、いろいろと手遅れだってことくらい。
小野寺くんが、にっこり微笑んで口を開いた。
「そういえば、田部さん」
「は、はい」
無意識に背筋が伸びる。
ピアス穴が3つもある小野寺くんは、間近で見ると意外と幼い顔立ちをしてるんだ。
なのに顔を強張らせた私に向ける微笑みが、なんか怖い。
ここは学校のはず、学び舎のはずなのに。猫だっているのに。
どうして、私はこんなに追い詰められてるんでしょうか……。
一瞬の空白が、緊張に拍車をかけた。
刹那、彼の唇が動く。
ネコミミの力なのか、ものすごくスローモーションになって私の目に映った。
「灰色の仔猫、探してるでしょ」
「え……?」
何を言われたのか瞬時に理解出来なかった私は、思わず声を零す。
すると彼は、すっと目を細める。
そして紡ぎだされた台詞は、私を絶叫させるには十分すぎる破壊力を孕んでいた。
「俺、知ってる。
あの時救急車呼んだの、俺だから……」




