2015年 1月某日
手を2回叩くと、小気味良い音が寒空に響く。
白い息をぴたりと止めて、私は静かに祈った。
小野寺くんと同じ大学に通えますように。あ、その前に無事に一緒に卒業出来ますように。家族がみんな健康でいられますように。今年もいいことありますように……あと、今年こそはお腹のぷにぷにを少し減らせますように……。
100円ぽっちのお賽銭で図々しいのは承知だけど、新しい年に望むことは尽きそうにない。神様が器の大きいことを祈るばかりだ。
「――――綾乃、綾乃」
必死に祈っていると不意に腕を突かれて、私は我に返った。弾かれたように隣を見上げれば、呆れ顔の小野寺くんがいる。
彼は身を屈めると、小声で耳打ちした。
「後ろ、並んでる」
「あっ、はいっ」
慌てて一礼するのも待ち切れなかったらしい彼に手を引かれ、私は賽銭箱の前をあとにしたのだった。
“一緒に初詣に行こう”ということで、私たちは地元の小さな神社にやって来た。クリスマスは素通りしてきたことだし、今日くらいはいいよね、ってことで。
年の明けたばかりの真夜中に家まで迎えに来てくれた小野寺くんは、珍しくメガネをかけてなくて。壊してしまったのかと思って尋ねてみたら、仏頂面で「ちげーし」と。言葉の割に勢いがないのは、きっと疲れてるから。
最近の小野寺くんは、脇目も振らずに勉強に没頭してる。それこそ、彼女である私とも学校とその行き帰りの道すがらでしか顔を合わせないくらい。これまでの彼の学校生活を見ている私にとっては、その姿が頼もしくもあり、ちょっと寂しくもある。
授業中に机をくっつけて教科書を見せてあげてた頃が懐かしいなぁ……。でも小野寺くんは、やれば出来る子だもん。ちゃんと勉強したら、きっと結果がついてくるはず。だから今は、せめて邪魔にならないように受験が終わるのを待つしかないんだ。
田部綾乃、頑張って待ちます。せっかくだから神様、見ていていただきたい。そして願掛けに応答していただきたい。
そんなことを考えて握りこぶしを作っていたら、小野寺くんがふいに足を止めた。そして、真夜中の寒さに備えて被ってきたニット帽の上から、私の頭をわしわし。
「初詣、終わったな」
「……うん」
無意識のうちに、視線が落ちていくのが分かった。もう帰らなきゃいけないのかと思った途端に、言いようのない気持ちがこみ上げてくる。新年早々だっていうのに、情けない限りだ。どこかで見ているであろう神様に向けた気合いで膨らんだ心がみるみる萎んだ私は、気の抜けた笑みを彼のつま先へと向けた。喧嘩したわけじゃないのに、目を見ることが出来ない。
すると小野寺くんが、小さく息を吐いて。なんだか笑われたような気がした私は、ちらりと彼を見上げた。
目が合った彼は、予想した通りにちょっと笑っていた。久しぶりに見たレンズ越しでない瞳は、1年前に比べてずいぶん柔らかくなったような気もする。これって恋愛フィルターのせいなんだろうか。
まじまじ見つめたら、彼は少し視線をずらして呟いた。
「あー……ちょっと焚き火にあたってくか」
「え、いいの……?」
咄嗟に出た言葉は、あんまり可愛くなかった。ふさふさ睫毛の大野さんだったら、きっと“うん!”と元気な声でハートマークをたくさん添付して頷いただろう。自慢じゃないけど、私のモテ偏差値はとことん低い。なんかもう申し訳ないくらいに。
ところが彼は、窺うように見上げる私に頷いた。
「ま、ちょっとくらい大丈夫だろ。
やれば出来る子だし、俺」
……その言葉、自分で言った途端に胡散臭い響きになるね。
そう思ったら、なんだか可笑しくて。私は笑うのを堪えられなかった。
目の前で焚き火がごうごうと燃えている。舞い上がる火の粉が綺麗だ。
私は、もこもこリュックをお腹に抱えて息を深く吐き出した。再び私の手を引いた小野寺くんは、境内の隅っこにあるベンチに私を座らせると、出店に甘酒を買いに行ってくれた。
彼の受験の邪魔だけはするまい、と出来る限り自分からは連絡しない冬休みにする予定だったけど、やっぱり声を聞きたくなるし、声を聞いたら会いたくなる。会ったら今度は離れたくなくなる。
ここにきて意志の弱い自分にガッカリだ。自分の受験が終わってるだけに、余計に自己嫌悪……。
真っ白な息が、ふわっと溶ける。
小野寺くんが歩いて行った方を眺めても、彼が戻ってくる気配はない。きっと出店が混んでるんだろう。普段は寂しい神社だけど、この時期だけは賑わうから。
携帯で時間を確認して、周囲を見回す。彼と別れて、まだそれほど時間は経ってない。
私は心の中で頷くと、勢いよく立ち上がった。
「あ、ありがとう」
「おう」
お礼を言って受け取った紙コップが、じんわり温かかった。ぶっきらぼうに頷いた小野寺くんが、隣に腰を下ろす。
急いで戻ってきたのを隠しながら甘酒を啜れば、ちょっとクセのある香りが鼻から抜けた。甘くて、ほっとする。
「あーあ」
私がほんわかしていると、ふいに彼が空を仰いだ。ぼやいた口から、白い息が浮かんでいる。
もしかして、勉強の愚痴かな。
「……どうしたの?」
何気なさを装った私の問いかけに、小野寺くんは思いっきり顔をしかめた。そして、すごく投げやりな感じで言い放った。
「受験、だるい。すっげーだるい」
「う、うん」
直球な言葉に思わず頷く。だけどそれ以上何を言えばいいのか分からなくなって、私は紙コップの中を覗き込んだ。
慰めたらいいのか、励ましたらいいのか。それとも熱血テニスコーチ並みの口調で受験生の心構えでも説けばいいんだろうか。
すると、そんなことを考えながら甘い香りを吸い込んだ私の肩に、ずしっとした重みが圧し掛かってきた。バランスを崩して体が傾きかけた私は、落としそうになった紙コップを慌てて捕まえる。
そして、甘酒を零してしまうかと一瞬詰めた息を吐き出したところで、私は我に返った。紙コップに気を取られていたけど、この肩の重み……。
耳たぶに、小野寺くんの髪が触れてる。
意識を向けた途端に、心臓がきゅっと縮こまる。その瞬間、口から飛び出したのは上ずった声だった。
「おおぉおおにょでらくん」
「んー……?」
ところが返ってきたのは、伸びた麺みたいに緩々な声。いつも私がこんな風に噛むと、からかってくるんだけど……もしかして、ちょっと弱ってるんだろうか。
久しぶりの至近距離にドキドキして取り乱しそうになったけど、この肩の重みは小野寺くんが私に向けた信頼の重みなのかも。そう考えると嬉しいやら、くすぐったいやら。
一度はバクバクと音を立てた心臓を宥めつつ、私はそっと囁いた。
「大丈夫……?
何かあった?」
すると彼は大きな溜息をついて頭を起こすと、今度は私の肩に顎を乗せて口を開いた。もぞもぞ動く気配がこそばゆい。
「――――何もねーし」
ぶっきらぼうな口調だけど、不機嫌そうではない。怒ってるわけじゃなくて、ただ、投げやりなだけみたいだ。受験勉強に根詰めすぎて疲れちゃったのかも知れないな。
私、なんて弱いんだろう。毎日気を張って勉強して、追い込まれてるはずの彼よりも先に音を上げそうになってたなんて。
そう思ったら不思議と、隣に座る彼がいつもより小さく感じられた。そんなわけないのに。触れ合ってる部分から伝わる体温は、こんなに大きくて頼もしいのに。なんだか今の小野寺くんは、ちぐはぐな感じがする……。
そんなことを考えていたら、突然何かがこみ上げた。
どうしよう、今、ものすごく“よしよし”してあげたい。頭を撫でようものなら、きっと口の端を引き攣らせながら低い声で威嚇してくるに決まってる。だから出来ない。分かってるけど。
小野寺くんが可愛い! きゅんきゅんする!
突然湧きあがった母性に突き動かされた私は、無意識のうちに伸びていきそうな自分の手を握りしめた。そして、そっと頭を傾ける。
こつん、と小野寺くんの頭と私の頭がくっついた。ぱちぱち爆ぜる焚き火に照らされて、ちょっとだけ顔が熱い。
「あ、3月に入ったら入学式に着るスーツを買わなくちゃ。
その、小野寺くん、一緒に下見してくれますか……?」
「……おう」
少しの間を空けた返事は、やっぱりぶっきらぼうだ。
だけど私は、そんなことは気に留めずに続けた。コートのポケットに忍ばせておいたお守りを取り出し、手のひらに乗せて。
「今年もよろしくね、小野寺くん」
返事はなかった。でも、代わりに頬に触れる何かが。
その正体に気づいた私は、思い切って小野寺くんの胸倉を掴んで身を乗り出した。どうしてそんな思い切った行動に出たのかなんて、全く分からない。
そして唇が触れた次の瞬間、彼が息を飲んだ。その顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
そんな小野寺くんがまた可愛く思えた私は、調子に乗って今度こそ頭をひと撫でしてしまって。案の定、低い声で凄まれた。
だけど、まあ、結果的には元気になったみたいなので良しとしよう。




