9月8日(月) 17:45
9月8日、月曜日。立ち寄ったスーパーは、私の元アルバイト先。
だから私、足を踏ん張りました。どちらかというと、咄嗟に。条件反射で。
すると小野寺くんが、繋いでる手のせいで、ぐいんっ、と引っ張られた。
「――――あ?」
ぐるぐる模様のボウズ頭だったものは、もうずいぶん伸びて。ちくちくした感触を手のひらに感じることも少なくなって。
ちょっと柔らかくなったかな、と思ってたんだけど。思ってたんだけど、その目つきはやっぱりちょっと彼女の私でも怖いと思います……!
おおおお小野寺くん。今の「あ?」で、そこにいたお子さんが体を震わせてましたよ。お母さんがお子さんの手を引いて、足早に立ち去りましたけれども。お母さんの押してるカートが自動ドアに2回ぶつかって、ガンガン音を立ててましたけど!
言いたい台詞が頭の中でぐるぐるして、口だけがパクパク動く。
そんな私を見下ろした小野寺くんは、一瞬訝しげにして、すぐに我に返ったみたいだった。
「あー……悪い」
ものすごくバツが悪そうに頬を掻いた小野寺くんを前に、私は小さく首を振った。ちょっとだけ慌てて。
ふとした瞬間の言動や、ぱっと見の怖さは相変わらず。だけど、こうやって申し訳なさそうにするのは、ネコミミくんが憑いてた頃から変わらないんだ。
そう、私は本当の彼を知ってる。
我に返った私は、パッと離れた小野寺くんの人差し指に掴まった。
「私もごめんね、急に立ち止まったりして」
「そういえば」
野菜コーナーから鮮魚コーナーに移動して、精肉コーナーの角を曲がったところで小野寺くんが呟いた。
「今日って、月見の日だよな」
「あ、今朝のニュースで見たよ。
今夜と、それから明日も月が綺麗なんだって。
……でも、ウチからは見えなくて。お月見、したことないんだ」
「じゃ、ウチで見てけば?」
私がなんとなく頷いたら、彼が言った。
別に、そんなつもりで言ったんじゃないんだけどな。でも、ものすごく魅力的なお誘いだ。どうしよう。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
少し考えた私が頷けば、彼は口の端を持ち上げて。「月見団子でも買ってくか」なんて、目を細めて囁いた。
今日は先生達が研修会だったらしくて、午後の授業が1時間あっただけだし。月が昇る時間まで小野寺くんの家で勉強してれば、きっと問題ないよね。
もうすぐ試験だけど、ほんの少しの息抜きは大事なはずだし。
たまにはお家デートしたって、きっと許される。
母親に電話を入れた私は、脱いだ靴を揃えてドアを開けた。すると、すでに家族以外の人の気配を感じ取っていたらしい犬のリクが駆け寄ってきた。
ものすごい勢いで尻尾を振りまわす彼の頭をひと撫でした私は笑みを浮かべて、「あとで遊ぼうね」と声をかける。
彼はすごく賢い。なんていうか、デキた弟みたいで。
だから、ほんとは少し犬が恐い私に飛びかかってくることはないんだ。たとえ、それが嬉しさ余ってのことでも。
……そういうところ、小野寺くんもちょっと見習ってほしい……とか思ってることは、まだ内緒だ。
キッチンに立つ小野寺くんは、相変わらず格好良い。
いつの間にか着替えたみたいで、Tシャツ姿。ちょっと前まで履いてた、履き潰して裾がボロボロになったジーンズは捨てたんだろうか。濃紺が目に眩しいものに変わってる。
「それ、似合ってますね」
物陰から声をかけたら、ちょっと考えを巡らせる素振りを見せた小野寺くんが、ふっと笑った。
「……あざっす」
ぶっきらぼうな会釈。ちょっと照れてる。
それでも彼の手は止まらない。泡だて器をカシャカシャ動かして卵を溶いてる。私がリクエストしたホットケーキを作ってくれてるんだろう。
彼の手が話しながらでも動くのを知ってる私は、何気なく尋ねてみることにした。
「あの裾が破けたのは、捨てちゃったの?」
「あー……ん、あれは捨てた」
並んで見上げたら、彼が少し視線を逸らして呟いた。
「そのうち行かないとなぁ、と思ってたし」
「うん?
どこに?」
何の話をしてるんだろう。
そう思って尋ねた私から目を逸らしたまま、彼は口を開いた。
「……綾乃んち」
ふあぁあぁぁ……!
まさかの発言に私は硬直して、脳内で身悶えしてしまった。
……これはあれだ。部屋を片付けて断捨離しなくては。私の女子力が問われる気がしてならない。というか怖い。
メープルシロップの香りが鼻から抜けて、溶けたバターの塩気が生地の甘さを引き立てる。
ああ、なんて幸せなんだろう。
「しあわせー……」
「――――ぷ」
口に放り込むたびに広がる幸せを噛みしめていたら、小野寺くんが噴き出した。
笑われた私は、むすっとしながら彼のお皿を見遣る。
すると、もう空になってる手元のそれを持って、彼が立ち上がった。そしてキッチンに足を向けた彼は、姿を消す寸前に苦笑混じりに言った。
「綾乃を幸せにすんの、意外と簡単かもな」
簡単だなんて言われると、ちょっと腹が立つのもたしか。だけど、食べ物に罪はない。全然ない。
私は彼がキッチンに入って行くのを見届けてから、口を開いた。
「毎日小野寺くんのゴハンを食べられたら、私、毎日幸せかも……」
すると、刹那の間も置かずに何かの割れる音が響いた。
家事偏差値が赤門レベルの小野寺くんがいる、キッチンでだ。
……珍しく、手でも滑らせたんだろうか。
不思議に思った私は、それでもホットケーキに刺したフォークを置くことが出来なくて、そのままキッチンに駆けこんだ。後から犬のリクがついてくる。
「小野寺くん!
手、切ってない?!」
フォークを握りしめた私を見て、小野寺くんが言った。シンクの中で真っ二つに割れたらしいお皿の片方を持ったまま。
「……へ、平気……」
目を泳がせた彼を見て、私はあることに思い至った。
だって小野寺くん、顔が真っ赤だ。
「もしかして小野寺くん、勉強しすぎて知恵熱……?」
「うっせぇ!
いいから座ってホットケーキを食ってこい!」
小野寺くん、たまに怒鳴るんだ。その時はたいがい、顔が赤くて怖くないんだけど。
もしかしてカルシウムが足りてないんだろうか。それとも甘いもの?
首を捻りながら、私は言われた通り座ってホットケーキを完食した。やっぱり、すごく美味しかった。
それから勉強しているうちに日が暮れて、私達はベランダに並んでホットケーキみたいな月を眺めた。
――――そして、きっと生まれて初めてのお月見らしいお月見に満足した私は、受験生らしく帰って勉強することにした。したんだけど……。
「じゃ、そろそろ…」
「夕飯食ってけよ」
「でも小野寺くん、試験勉強が。あ、もしかして教えて欲しい?」
「ちげーし。もっと綾乃とイチャイチャした…あ」
「帰る。今すぐ帰ります。身の危険を感じる!」
「うっせぇ! 逃がすか!」
そういうわけで小野寺くんは私の家に電話をかけて、あっけないほど夕飯をいただくことで決着がついたのでした。
てゆうか、お母さん。
ちゃっかり小野寺くんに「だったら今度、うちにも夕飯食べに来てね! むしろ作りに来てくれてもいいくらい大歓迎よ!」なんて言い放つのはどうなんだろう。
……小野寺くん、手のひらが汗で光ってるけど大丈夫かな。




