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2月4日(火) 15:15








昼休みの終わりを告げる鐘が鳴って、なっちゃんは意味深な笑顔で私の背中を思いっきりどついて、自分のクラスに戻っていった。

力が強すぎるよ、なっちゃん……。





私の席は廊下側から2列目の、前から3番目“だった”。

そう、それは過去の話だ。

なんと私が欠席した昨日、席替えがあったそうな。

新しい席は窓際の、最後尾。日当たりが良いそこは、暖房から遠いけど日差しがあって十分暖かい特等席だ。

だから不戦勝というか、ラッキーだったと思う。きっと、この席に座りたいと思っているクラスメイトが何人かはいるだろうから。

そうなんだけど、ちょっと困ったことが。



隣の人が、私の書き込み満載な教科書を物珍しそうに眺めてる。「へー」なんて、感心したふうな声を零しながら。

どういうわけか、その人は教科書を忘れたらしくて。

先生がよく考えもしないで「誰かに見せてもらえ」なんて言うもんだから、お鉢が私に回ってきてしまった。

普段だったら喜んで協力するんだけど、今回はなんというか、教科書を忘れた隣の席の人があろうことか小野寺くんで。

なんだこの偶然。ほんとは皆で、田部は休みだから小野寺の隣にしちゃおうぜ的な密談があったんじゃないかと勘繰ってしまう。

あれか。私は実はイジメられっ子だったのか。

……いや、その考えは小野寺くんの何かを傷つけているような気がするから、ひとまずクラスでの私の立ち位置については横に置いておこう。私だって、別に小野寺くんが嫌いなわけじゃないし。

そもそも、だ。1時間目の時点で適当に理由をつけて、席を変えてもらえば今こんなに困ることもなかったはずだ。

午前中は秘密のことで頭がいっぱいだったから、隣が小野寺くんだなんてこと全然気にもしなかったし、別に何とも思ってなかった。

だから、まあ、仕方ない。


じゃあどうして今になって居心地が悪い思いをしてるのか……それは、昼休みの小野寺くんの視線のせいだったりする。

勝手に私が気にしてるだけ、と言われればそれまでなんだけど。

ともかくこの、他人の教科書をぺらぺら捲って「へー」とか言ってる隣の人のおかげで、私は大事な英語の授業に身が入らないわけだ。

……てゆうか。彼にとっても、春休みの補習がかかった大事な授業なんじゃなかったか。もっとちゃんと、せめて筆記用具くらいは机に出したらどうだろう。小野寺くん。


というわけなので、ノートだけはしっかり、と思う私はシャーペンをはしらせる。

顔を上げれば、ひとしきりバレンタインの話題で盛り上がった男子達が、授業開始と同時に食後の睡魔に襲われて、撃沈しているのが見える。

ちらほらと頭が上下したり、完全に寝入っていたり……あ、1番前で寝てる男子が先生に叩かれた。

黒板の文字をひとしきり書き写した私は、手を止めて小さく息をついた。

することがなくなると、途端に右隣が気になって仕方なくなってしまう。

ネコミミがひくひく動いて、なんだかそわそわする。私の頭にくっついてるクセに、全然思った通りになってくれない。なんか理不尽だ。


私はなるべく無心になろうと、窓の外に目を遣った。

ぽかぽか、小春日和だ。

白状すると、実はさっきから日差しの暖かさが気持ちよくて……。

「……あ、ふ……」

つい欠伸が抑えられなくなって、涙の滲んだ目じりを拭う。

どうしてこんなに眠いんだろう。授業中に眠くなったことなんか、今までなかったのに。

信じられない。日向でお昼寝だなんて、これじゃまるで猫だ。

私は、だんだん重くなる瞼を必死に持ち上げながら、シャーペンを握った。

そうして欠伸を噛み殺して黒板を睨みつけていると、ふと、見られているような気が。

咄嗟に振り返れば、そこには頬杖をついて私を見つめる小野寺くんがいた。

思っていたよりも近くて、ちょっと怖気づく。とてもじゃないけど、「私の顔に何かついてますか」なんて言える雰囲気じゃない。授業中だし。

かといって目を逸らすことも出来ない私は、数ミリ分だけ体を仰け反らせた。

そんな私を見た小野寺くんの目が、すっと細められる。

……そんな怖いカオ、することないよね。教科書見せてあげてるのに。

言いたいことは、もちろん口から出てこない。

私は縫い付けられたようになった視線をなんとか剥がして、黒板に向けた。

小野寺くんのおかげで睡魔も怖気づいて消えたことには、感謝してあげてもいい。




試練に満ちた英語の授業が終わると、小野寺くんはふらりと教室を出て行ってしまった。

トイレにでも行ったのかと思っていたら、そのまま帰って来なかった。どうやら早退することにしたらしい。

なんというか、まあ、小野寺くんらしいといえば、らしいけど……。



「ふぅーん……。

 なんていうかさ、噂通りだね、カレ」

昼休みの後に私の身に起こったことを話したら、なっちゃんが呆れ混じりの声で言った。

彼女は話題のカレと同じクラスになったことはない。だから余計に、イメージが膨らんでいるんだろう。

なっちゃんは手袋を嵌めた手をぽふぽふ叩いて、肩を竦めた。

「もう高2の冬だ、ってのに、未だに来たり来なかったりでしょ?

 進級出来るがどうかも、なんだかアヤシイねぇ」


学校からの帰り道は、今の私達にとって大事なお喋りの時間だ。

なっちゃんはほとんど毎日予備校通いだし、私は図書館でテスト勉強。推薦をもらうために、今度の学年末テストで点数を下げるわけにはいかないから。

だから、せっかくの時間を小野寺くんのことで埋めてしまうのは、なんだかもったいない気がした。

なっちゃんの口調は世間話のそれだけど、どういうわけか聞きたくない自分もいる。


私は曖昧に頷いて、口を開いた。

何よりも、今はなっちゃんにネコミミの相談を……。

「あのね、なっちゃん」

「ん?」

2人分の鞄を積んだ自転車は、ちょっと重い。

「あのね……」

自分1人で抱えるには重たいから、なっちゃんに聞いてほしいのに。舌が鉛になったみたいに、喉の奥で言葉を塞いでる。

「なに、どしたの?」

ちょっと躊躇っただけなのに、なっちゃんのカオが曇った。

そして、はっ、と息を飲んだ気配がして。

「もしかして、好きな人出来た?!」

勢いこんで口走った台詞に、私はあやうくハンドルから手を放しそうになった。

参考書が詰まった鞄は重いから、あっという間に重心がおかしなことになって……。

「やっ、あっ」

慌てて体勢を立て直した私は、あんぐり口を開けてるなっちゃんに声を上げた。

「ちーがーうっ。

 そんなんじゃなくて!」

「じゃなくて?」

聞き返したなっちゃんは、期待に満ちて目がキラキラしちゃってる。

もっと大事な、そう、私の一大事なのに!

びっくりしたのと否定したいので、一気に感情が膨れ上がって大きな声を出した割に、私には意気地がなかった。

「う、」

なっちゃんに食いつかれても、言葉が出てこなくなってしまう。

そのうちに、いつも別れるコンビニが見えてきて、私は話を引っ込めた。

「やっぱいいや……とりあえずテスト終わってからで。

 もうすぐコンビニだし」

「えぇぇ……」

ものすごくガッカリした顔をされたけど、なっちゃんはそれ以上詮索してこなかった。

私達は仲良しだけど、お互いに触っちゃいけないものを持ってる、ってことはちゃんと分かってる者同士だから。

……うん。感謝の気持ちで、バレンタインには特別手をかけよう。







それからいくつか話をしたら、なっちゃんは手を振ってコンビニに入っていった。

予備校の授業の前には、おやつを買っておくのが彼女の習慣なのだ。

私はそんななっちゃんの後ろ姿を見送ってから、路地に入った。


視線を落として、小さく息を吐く。

……なんか、気持ちが勉強どころじゃないな。

賑やかだった学校から離れて、自分1人になった気分がどん底まで落ちてきてしまったらしい。


ぼんやり思いながら歩いていたら、少し先にある自販機が目についた。

自転車をその前に止めて、なんとなくお財布を取り出す。

図書館でテスト勉強をしなくちゃ、と思うのに、足が向かない。“誰にも知られちゃいけない”と思いながら過ごして、すごく疲れてしまった。

まだ、たった1日なのに……。

小銭を入れて、温かい飲み物のボタンを適当に押す。

ガコン、と硬い音と一緒に、カフェオレが出てきた。

私はそれをコートのポケットにしまって、すぐ近くの公園を目指してハンドルの向きを変える。

西日が眩しい公園には、あまり遊具がない。キャッチボールや大縄跳びが出来そうなグラウンドと、桜の木があるだけだ。

押してきた自転車を止めて、隅っこにあるベンチの砂をはたく。

そしてポケットにしまっておいたカフェオレと、自転車のカゴから取り出した携帯を持って、ベンチに腰掛けた。

「どうなっちゃうんだろ……これ……」

なんとなく触れたニット帽の下で、ネコミミが、ぴくく、と動く。

「はぁぁ……」

溜息をついて、投げやりな気持ちでカフェオレのプルタブに指をかける。

その時だ。


『ママーっ』

突然、どこかから子どもの声が聴こえてきた。

驚いた私は、咄嗟に顔を上げて声の主を探す。

「え?

 ……えっ?」

でも、いくら視線を走らせても誰もいない。

少なくとも、普通に会話をして私に声が届く範囲には、誰も見当たらない。

「気のせい……かな」

なんだか薄気味悪い。

私は、声が聴こえた“気がした”ことにして、もう一度カフェオレを開けようとして。

『ママ、どこー?』

再び響いた声に、とうとうカフェオレの缶を取り落とした。

ゴロン、と重い音がして、缶が転がっていく。

「あっ、と……」

慌てて立ち上がって缶を拾い上げた私は、視界の隅に一匹の猫が佇んでいることに気がついた。


この感じを、私は知ってる。

落雷で気を失った時も、こんな状況だった。

なんとなく気味が悪くて、目の前に猫がいて……。


「ん?」

そこまで考えて、思い出した。

あの時、私の目の前には灰色の毛をした仔猫がいたんだ。

「あの仔は……」

口にしかけて、はっとする。

一気に、血の気が引いていく。

「もしかして、あの仔の耳なの……?!」

結びつけるには、ちょっと強引だろうか。

でも、それ以外に思い当たることはない。


私は落としたカフェオレの砂をはらって、ゆらゆらとベンチに戻る。

「まさか……でも……」

ありえない、けど実際にネコミミは頭にある。

答えの出ないことを延々と考えながら、私は震える手を擦り合わせた。

すると、また声が。

『ママ、どこ!

 ……ねえ、』

話しかけられた気がした私は、思わず顔を上げる。

そして、声のした方に目を遣った。

でも、目が合ったのは黒い猫だ。

夕暮れの公園で、私は一体誰の声を聴いてるっていうんだろう。

「……そんなこと、あるわけ、」

『ママは?』

“ない”と言おうとしたところで、また声が響く。

それも、黒猫とばっちり目が合った状態で……。

「嘘でしょ?

 お前なの……?!」

頭についたネコミミが、帽子の下でひくひく動いてる。

反応してるんだと思えば、なんとなく納得出来るような気がしなくもないけど……。

踏み入ってはいけない場所に、足を突っ込もうとしてる気がしてならない。

背中が寒くなった私を見つめたまま、黒猫は口を小さく開けた。

『ママいないの。

 どこー?』

同時に聴こえてきた台詞に、私は目を見開いた。

心臓がばくばく騒いで、息が途切れ途切れになる。

震える声で、私は黒猫に言った。

「……ごめんね、知らないんだ。

 見かけたら、言っておくから……」

これで、伝わるんだろうか。

何の工夫もない、普通の会話のつもりで返事をしたけど。

いや、伝わらないのが普通だ。そして、それを私は望んでる。

もうこれ以上、普通から道を外れていくのは嫌だ。超常現象なんか、のし紙つけて突き返してやりたいくらいなのに。


すると、いくらか早口になった私の言葉に、黒猫は少し黙ってから口を開いた。

『えーと……ありがとー』


……まさか、私の平凡な人生にこんな日が来ようとは。








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