表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
48/53

5月10日(土) 18:00









「あのなぁ、綾乃……」

「――――わわわわ、分かってます!

 分かってるけど……っ」

ものすごく、これ以上ないくらいの呆れ顔をした小野寺くんが目を細めて。泣きたくなるほど情けない声で、私が口ごもる。


……このやり取り、何回目だろう……。


エレベーターの中で勇気をもらった私は、足取りも軽く小野寺家のドアの前に立った。そこまでは大丈夫だった。

だけど、いざ彼がドアノブを掴もうとすると体が勝手に動いてしまう。がばっ、とドアノブを彼の手ごと押さえてしまうんだ。ネコミミくんの耳が、勝手に動いてたみたいに。

ついでに白状してしまうと、おそろしく鼓動が速い。でもそんなこと口に出したら、きっと“さっきの言葉を返せ”って言われるに決まってる。



小野寺くんが溜息混じりに私の手を、べりっと剥がした。

「いい加減腹括れって。

 ……って、さっきも言ったよな?」

「う、うん……そうなんだけど。

 いざとなると、やっぱり緊張しちゃって……」

自分でも、ぐちぐちしてる自覚はあるんだ。

バレンタインの日だって、こんな感じだった気がするし。我ながら、よくまあ告白出来たものだと感心してしまう。


目を逸らして呟いた私を見てどう思ったのか、彼は大きく息を吐き出した。こめかみを指でぐりぐり揉んでる。

頭痛がするんだろうか、なんて思っていたら。彼はにっこり笑った。あの、日常的に不機嫌そうなカオばかりしてる小野寺くんが、にっこり。


……あ、まずい。


そう思って頬が引きつりそうになった時には、もう手遅れで。

彼は思いっきり豪快に、ドアを開け放った。

もともと動きが機敏でない私は、一歩遅れて頬を引きつらせたのだった。





「ただいまー」

「お、お邪魔します……!」

のんきな声の小野寺くんに続いて絞り出すように囁いた私は、家の中が静かなことに気づいて小首を傾げた。てっきり彼のお母さんが玄関に出てくるかと思っていたから、なんだか拍子抜けだ。

それにしても、いくら犬のリクがおとなしくて頭の良いコだとしても静かすぎる気がするんだけど……。


「……うん?」

私と同じように彼も違和感があったのか、首を捻りながらスリッパを出してくれる。

お礼を言いながら片足をつっかけたところで、私は可愛らしい花柄のスリッパが少し離れた所に置いてあるのを見つけた。たぶんこれは、履いていた人が脱いで置いた、ってことなんだろうけど。

「小野寺くん、あれ……」

指差した私に気づいた彼は、「げ」と短く分かりやすい声を漏らした。そして、またこめかみを指でぐりぐり。

「……嘘だろおい」

「うん?」

言葉の意味が分からなくて怪訝そうなカオをした私に、彼がぱたぱたと手招きする。

「まあいいや、とりあえず入ろう」

「あ、はい……じゃあ、お邪魔します」

私は内心首を捻りながらも脱いだ靴を揃えて、促されるまま彼に続いた。





リビングの惨状を前にした小野寺くんは、目を覆って呟いた。

「最悪……!」

私は肩を落とした彼の横に佇んで、そっと声をかけるしかない。

「ええと、その……」

ダメだ。全然言葉が浮かんでこないや。

何か言うのを諦めた私の口から言葉の代わりに突いて出たのは、乾いた笑み。どこを見たらいいのか分からなくて、ひたすら目が泳いでしまう。

「……あ、あはは」


小野寺家のリビングは、生活感に溢れ返っていた。

ソファにはクッションに混じってジャージがくしゃくしゃっと置かれてるし、その横には洗濯物らしい服がこんもりと山を作ってる。

ダイニングテーブルの上には読みかけの雑誌が開かれたまま。その横には飲みかけらしいマグカップと、開封済みのポテトチップス。髪の毛を纏めてたらしいクリップ。

床に放置されたものはなさそうだけど、キッチンの明かりがつけっ放しだ。

……あ、よく見たらゴミ箱に入り損ねたティッシュのゴミが転がってました。あっちにも、そっちにも。




「悪い、普段はもうちょいマシなんだけど」

小野寺くんが私に向かって、不本意そうに言った。

その気持ちは、なんとなく理解出来る。まだネコミミくんが私の中にいた頃にお邪魔した時は、おしゃれなカフェみたいだな、なんて思った記憶があるもの。

「……ったく。なんでこんなに家事力がないんだ……。

 ほんとに転勤先でちゃんと生活してんのかよー……」

「なんかその台詞、耳が痛いです」

ぶつぶつ呟いた彼の横で、私は耳を揉み擦る。

家事力なくてすみません、と謝った方が円満にことが進むんだろうか。


すると彼は一瞬きょとん、としたあとに目を細めて一瞥をくれた。なにやら意味ありげに。

そのカオにいい思い出がないんですが。

「そっか。

 母さんに育てられたおかげで、綾乃に目がいったのか」

「どういう意味?」

今度は私がきょとん、とする番だ。

何かが腑に落ちたらしい彼は、頭の中にハテナマークが増殖してる私に、肩を竦めて言った。

「育った環境って好みを左右するよな、って話」

「ふぅん……?」

私は首を捻って、なんとなく相槌を打ってみるけど。やっぱりよく分からない。

もう一回聞いたら怒られるかな、なんて考えていたら、彼が持っていた荷物をソファに置いた。

「まあいっか。

 ……とりあえず綾乃、テーブルの上の物を適当に片付けてくれる?

 俺、あっちの明かり消したら洗濯物畳む」

そのひと言に頷いた私は、キッチンに入っていく彼の背中を眺めながら雑誌を閉じたんだけど。

次の瞬間、彼が何かを喚く声が響いてきた。

……どうやらキッチンに何かあったらしい。


首を捻りながらテーブルに置いてあったマグカップをキッチンに運んだら、小野寺くんが喚いた理由が分かった。

どうやらお母さん、朝ごはんとお昼ごはんのお片づけをおサボリさなったらしい。

シンクの中も外も、食器や調理器具が散乱していて。まるで子どもが砂場で遊んだあとみたいになってる……。

「……まじか」

それまでぷるぷるしていた彼が、がっくり肩を落とした。どうやら渦巻いた感情が1周したらしい。

「でも小野寺くんも、こないだまでサボリ魔だったし!……ね!」

とりあえず思いつく限りのフォローを試みたけど、彼の頬は引き攣るばかりだった。

……おかしいな。








大きな溜息を吐きながら戻ってきた小野寺くんに、犬のリクが駆け寄る。たった今まで私にしっぽを振ってたというのに。ちょっと寂しい。

「よしよし」と真っ黒な毛を撫でる彼を横目に時計を見る。5時半だ。

私が時計を見たことに気づいたのか、彼が口を開いた。

その視線がうろうろしていて、なんだか挙動不審に見える。だけど、どうかしたのかと私が尋ねる前に、彼が言った。

「あー……まだ帰ってこないな、母さん。

 携帯持って行かなかったみたいだし、すぐ戻るつもりなんだろうけど」

「何かあったのかな。

 連絡取れないと、ちょっと心配だね」

「……ん」

リクが曖昧に頷いた彼の手をすり抜けて、犬用のクッションの上で丸くなる。彼の意識が自分から逸れたのが分かったんだろうか。

ソファに座っておとなしくしていた私は、彼が隣に座らないのを不思議に思って立ち上がった。

「どうしよう?

 夕飯作る?

 私もお手伝いしようか?」

私の言葉に、彼は小さく首を振る。

「母さんが帰って来るまで待ってみよう。

 ……とりあえず、何か飲むか?」




絶賛反抗期の弟の部屋になんて、かれこれ5年くらい立ち入ってない。だから小野寺くんの部屋に入った瞬間に感じた匂いに、なんだかドキドキしてしまう。

男の子の部屋なんだな、っていう感じの、香水でもないし汗でもない匂い。

……小野寺くんが私の部屋に入ったら、同じように戸惑うんだろうか。


「――――適当に座って」

飲み物の乗ったトレーを机の上に置いた小野寺くんは、部屋の入り口で固まっていた私に向かって言った。

……座れ、って言われても……。

彼の言葉に心の中で呟きながら、部屋の中を見回してみる。

勉強机と本棚と、その上には小さな観葉植物。というか、ほとんど本棚。座れるところといえば、ベッドの上しかない。困った。

もしもネコミミがまだくっ付いてたら、ぺたんと倒れてるに違いない。

「ええっと……」

そんなことを考えた私は、口ごもって視線を彷徨わせた。だって、ベッドに座るのはなんとなく躊躇われるんだ。

分かってます。意識しすぎです。だけど、そうなるな、っていう方が無理な話だと思うんです。



私は意を決して口を開いた。

「やっぱり、あっちの部屋にしない?

 お母さんが帰ってきたら、急いで片付ければ――――」

尻すぼみに言ってみれば、引き攣った笑みを浮かべた小野寺くんがやってくる。彼は、おもむろに腕を伸ばして私の手を引っ張った。

「いいから、とっとと入る」

低い声の彼は、手加減がない。もしかしたら手加減してくれてるのかも知れないけど、私は引っ張られたら足がもつれて、たたらを踏んでしまう。

声を上げる代わりに息を詰めていたら、ドアを閉める音が響いた。すると驚いたのか、寝ていたはずのリクが小さな声で遠慮がちに「わふ」と鳴く声が聴こえてくる。

彼は愛犬の反応なんて気にも留めなかったのか、振り返った私の手を引いた。そして結構な力で、まるで放り投げるみたいにして私をベッドに座らせた。

ばふんっ、とお尻が跳ねる。

「いいか田部綾乃」

なんだかもう、その声は地獄から響いてくるみたいで。私は肩をびくつかせて、彼の顔を仰ぎ見るしかなかった。この場合、口応えはしない方が賢い選択だと思うんだ。

そんなことを考えた私が、“怒らないで下さい”と目に思いを込めていたら、溜息混じりの彼が言った。

「そこで、じっとしてろ。

 俺はこれからカード書くから、絶対こっち見んなよ」

もちろん、私はかくかく頷いた。


紙袋からカードを取り出した小野寺くんは、机に向かってゴソゴソしてる。母の日のプレゼントに付けるカードを書くために、彼の部屋に来たんだけど……。

私は書かないんだから、向こうでリクと遊んでいても良かったのにな。今からでも、ひとりでゆっくり考えられるように、気を利かせて私は出ていった方がいいかな。

「ねえ、やっぱり私……」

「うっせぇ」

一刀両断。せっかく思い切って口に出したのに。

遮られた私は、口を尖らせて彼の部屋を見回した。

整った部屋だ。綺麗なんだけど、神経質にぴっちり整えた感じはしない。

私がお邪魔する予定なんてなかったから、きっと普段からちゃんとしてるんだろうな。相変わらずの家事力だ。料理に続いて、掃除と整頓の仕方も指導の対象になったらどうしよう。

恐ろしい想像が働いた私は、思わずふるふると首を振ってそれを打ち消した。


「――――何してんの」

小野寺くんの呆れたような声で、私は我に返った。

「あ、いやあの……」

別に何もやましいことはないのに、なんとなく口ごもってしまう。

そんな私を見た彼は、何を思ったのか机のライトを消してこっちにやって来た。その手には、グラスがふたつ。

「えっと、カードは?」

「もう書いた。

 プレゼントと一緒に紙袋に入れて、机の下に隠してきた」

溜息混じりの彼が、私の隣に座ってグラスを差し出した。

受け取った私は、お礼を言ってひと口。ふんわり広がったオレンジジュースの甘味と、ツンと残った酸味に目を細める。

「これで明日はバッチリ?」

柑橘系の香りが鼻から抜けるのを感じながら尋ねれば、彼が頷いた。


「綾乃」

ひょいっ、と私の手からグラスが抜き取られる。

不意のことに戸惑っていたら、小野寺くんがサイドテーブルを持ってきて、その上に空になったグラスをふたつ並べて置いてくれた。

1拍遅れてそのことに気づいた私が慌ててお礼を言うよりも早く、彼が口を開く。その顔に、笑みを浮かべて。

こんなに近くで優しいカオをされて思わず見入ってしまった私は、自分が言おうとしていた言葉を見失ってしまった。

「ありがとな、今日」

私が実は言葉を失っていたことなんて露ほども知らない彼は、やっぱり微笑んだまま。肩の荷が下りたように、自然に笑みを零してくれてる。

ほんの少しの間ぼーっとした私は、我に返って首を振った。

「うーん……たいしたお手伝いは出来なかったね。

 もうちょっと、彼女らしいこと出来たらいいんだけど」

「……彼女らしいこと……?」

一瞬きょとん、としながら呟いていた彼が、次の瞬間。口の端を持ち上げて、ニヤリと意地悪なカオをした。


「……小野寺くん?」

なんとなく嫌な予感がした私は、小野寺くんの顔を覗き込む。

すると目が合った彼が、おもむろに手を伸ばしてきた。

その手は私の頬を掠めて、髪を分け入って耳に触れる。ものすごく、くすぐったい。

「彼女らしいこと、してくれんの?」

私は彼に囁かれてようやく、ふたりの間に流れる空気が変わっていることに気がついた。

いつもの、図書館やハンバーガー屋さんで話す時の雰囲気じゃない。なんだかちょっと、彼の目が真剣すぎる気がする。


いろんなことが気になって問いかけに答えられない私に痺れを切らせたのか、小野寺くんがにじり寄ってきた。近い。

「……そ、それは、言葉のアヤだよね。

 彼女らしいことが何かなんて、私もよく分かってな……」

だんだんと近付いてくる彼の顔に視線が釘付けになってしまいながらも、私は舌をもつれさせながらも囁いた。

その時だ。

「――――ひゃわ?!」

私は思わず声を上げた。突然、腰に何かが触れたからだ。


咄嗟に手を回してみると、そこには大きな先客がいた。小野寺くんの手だ。

いつの間にか服の中に潜り込んで、腰を撫でてる。どんだけ器用なの小野寺くん。

「ちょっ、小野寺く」

「なにこれヤバイ。

 綾乃、肌柔らかすぎ」

いきなり何を、と非難しようとしたら、熱のこもった瞳をそのままにした彼が、遮るように囁いて。腰を撫でていた手が、今度は背骨をよじ登っていく。

そんなわけないのに、なんだか褒められた気がした私は口を閉じてしまって。それがいけなかったのか、閉じた唇は次の瞬間には彼の口で塞がれていた。


そろそろ18時になるだろうか。

薄暗い部屋の中に、どちらのものか分からない吐息が溶け出していく。それを痺れた耳で聴きながら、私は麻酔にかかったように瞼を閉じた。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ