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5月10日(土) 17:00









「そんな気を遣うことないんじゃね」

しれっと、けろっと、思いっきり他人事で小野寺くんが呟いた。私が手に提げた紙袋を、ちらりと一瞥して。

それに気づいた私は、むぅ、と頬を膨らませた。そのまま、エレベーターの動きに合わせて光る表示を目で追いかけながら言い返す。

「でも、手ぶらでなんて行けないよ」


紙袋の中身は、電車に乗る前に寄ったデパ地下で買った贈答用の梅干し。

売り場のおばちゃん曰く、ハチミツで漬けてあるから、酸っぱいのが苦手な人でも食べられるらしい。“大手通販サイトで1位いただきました!”とも書いてあったし、きっと美味しいはず。

梅の花が描かれた個包装のパッケージも、可愛くて目を引いたんだ。

ちょっとお高かったけど、小野寺くんのお母さんは週明けに海外に行ってしまうみたいだし。海外に行くと、お味噌汁とお漬物が恋しくなる、って言うし。


……でも、息子である小野寺くんは、どうやら私が手土産を持って行くのが腑に落ちないみたいで。というか、大袈裟なんだって。私にとっては一大事なんだけどなぁ……。

この気持ちは、今度ウチにご招待したら理解してもらえるんだろうか。




どうして私みたいな高校3年生の女子が、デパ地下のちょっといい梅干しを手土産に購入したかというと。


パスタ屋さんで、割り勘の攻防……買い物に付き合ってくれたから奢ると言って聞かない彼と、そういうつもりで来たんじゃないと主張する私……を繰り広げていたところで、彼の携帯が鳴ったんだ。

小首を傾げた私の前で、携帯の画面を確認した彼が顔をしかめて。それから私に断って、電話に出たんだけど……。

私は、彼が適当に相槌を打ってるのを片方の耳で聞き流しながら伝票を確認して、自分の食べた分のお金をテーブルに置いたんだけど。

それが良くなかった。今なら分かる。

電話の相手に向かって相槌を打っていた彼が私の顔を見て、すっと目を細めて。そして、言ったんだ。「分かった、連れてく」……って。


なんと相手は、小野寺くんのお母さん。

しかも用件は、“今日、カノジョちゃんも夕飯一緒にどう?”


電話を切ったあとにお金を出すべきだったのかも知れません……。





そんなことがあって、あれよあれよという間に私達はエレベーターホールに辿り着いてしまったわけなんだけど。


ぐちぐちしてる私に小野寺くんが肩を竦めていると、目の前のドアが開いた。エレベーターから降りてくる人はいないみたいだ。

「どーせ思いつきで綾乃を呼んだだけだって。

 今朝なんて、“母さん、今日1日ゴロゴロしてる~”って言ってたし」

そう言った小野寺くんが、エレベーターに乗り込む。

私はそのあとに続いて、「そうかなぁ……」なんて相槌を打った。

彼はそう言うけど、海外出張に戻る前に可愛い息子の彼女を見ておこう、とか。可愛い息子を取った彼女が気に入らない、なんてこともあるかも知れないし。いや、ないと思いたいけど。

「……そ。だから緊張するだけ損。

 てか、ウチ散らかってんじゃねーかな……」

彼の手が、気だるげに階数ボタンを押す。

ややあって上昇し始めた狭い空間は、私の心臓をふわりと押し上げた。



しばらく聴こえていた無機質で単調な機械の音が止んで、再びふわりと体が浮く感覚が。もう小野寺くんの家がある階に着いたみたいだ。

小野寺くんの斜め後ろに立っていた私は、階数ボタンから光が消えるのを見て、なんとなく足が重くなってしまった。

情けないけど心臓がばくばく鳴ってる。

緊張でガチガチになった私は、先にエレベーターを降りようとした彼の服の裾を思いっきり掴んでしまった。

その途端に彼の体が背中から、ぐらっと後ろに倒れそうになって。息を飲む気配がしたかと思ったら、次の瞬間、彼が驚いたカオをしてこっちを向いた。

だけどすぐに、ものすごく怪訝そうに私を見下ろしてくる。

「なに、どしたの。

 ――――お……っと」

言葉の途中でドアが閉まりかけたのに気づいた彼は、手を伸ばして“開”のボタンを押した。


何か言わなくちゃ、と考えを巡らせながら小野寺くんの顔を見つめていると、彼は空いてる方の手で私の頬を、むにっと摘まんだ。

ちょっと痛くて、思わず眉根を寄せる。

でも、それくらいがちょうどいいかも知れない。気が紛れて、自分の鼓動が嘘みたいに速くなってるのを忘れられるかも……。

そんなふうに投げやりに考えていたら、彼が溜息混じりに口を開いた。

「……綾乃」

私の肩が無意識に、ぴくりと揺れる。

脱力しながら呼ばれると、なんだかガッカリされてるように聴こえる。

萎縮してるみたいに見えたのかな。小野寺くん、そういうのすごく傷つくのに。

でも心細いのは本当なんだよ、小野寺くん……。

「はぃ……」

ちゃんと心の中には言葉があるのに、大事なとこで出てこない。こんな蚊の鳴くような声を出したのは、ネコミミくんが取り憑いてた頃以来かも知れない。

あの件で、多少なりとも度胸がついたと思ってたけど。自信喪失だ。


小野寺くんは何を思ったのか、弱気な声を零した私の頬を撫で始めた。「あー、ちょっと赤くなっちゃったなー」なんて呟きながら。

溜息をついた割に飄々としてるから、私もこっそり小首を傾げてしまう。

すると彼が口の端をそっと持ち上げて、私の顔を覗き込んできた。

「綾乃は、ウチの母親が怖いの?」

「え、と……」

「……エレベーターから出られないくらい緊張してんだろ?

 いいから、正直に答える」

口調が先生みたいだ。

それなのに、大きな手は私の髪を梳いて頭を撫でる。くるくる、と毛先で遊びながら。


甘やかされてるのを薄っすら自覚しつつも、私は意を決して口を開いた。

「怖くはない……と思う」

ほんとに、そう思う。そうじゃなければ、怖いと思う相手に贈るものを選ぶ手助けなんて、絶対に出来ないもの。

だから、小野寺くんのお母さんが怖くて足が動かないわけじゃないんだ。

むしろ逆。会ったこともないのに、心のどこかで尊敬してる。海外で働いてるなんて、格好いいと思うし。


ゆるゆると首を振った私を見て、小野寺くんは頷いた。

「……ん。

 まあ、身内の贔屓目が入ってるかも知れないけど。

 綾乃が怖がるような人じゃないと思うから、安心して」

「……うん」

言葉の最後につられて、私も頷く。

すると彼は少し唸ってから、次の質問を投げてきた。

「んー……あとは、何が不安?」

「不安……」

無意識に唇から声が零れ出る。彼にそう言われて、何かが腑に落ちた気がして。

そっか、と心の中で呟いてから、私は口を開いた。

「どう思われるか、心配なのかも……」

言いながら、私は手を握りしめた。持っている手土産の入った紙袋の持ち手が、くに、と折れる。

すると彼が小首を傾げて私の顔を覗き込んだ。

「誰が、誰に?」

「わ、私が、小野寺くんのお母さんに……」

ちょっと言いづらくて、ごにょごにょと小さな声で答える。

彼は、小さく噴き出した。


困ったように笑いながら、小野寺くんが私の鼻を軽く摘まんだ。

息が。息がしづらいよ小野寺くん。

一瞬息を詰まらせた私が咄嗟に口を開いたら、彼が目を細めて囁いた。

「綾乃が付き合ってんの、誰だっけ?」

「お、おにょでらくんれす」

付き合ってる、なんて甘みのある言葉とは裏腹に、彼の姿からは威圧的な雰囲気が漂っていて。私は思わず早口で答える。

そんな私の答えを聞いた彼は、ようやく鼻を解放してくれた。ただし、溜息混じりに。

「……だろ?

 別に、ウチの母さんと付き合うわけじゃないんだから」

「えぇ?」

戸惑いの声を漏らしながら、私は彼の顔を覗き込んだ。どういう意味ですか、と言葉にして問う代わりに。


視線がぶつかって、そのまま少しだけ見つめ合って。

苦笑を浮かべた彼の手が、私の後頭部を、くいっと引き寄せた。

「ちょっ……」

咄嗟に足の裏が踏ん張ったけど、彼の絶妙な力加減の前には無駄だったらしい。

いつの間にか私は、彼の胸に額がくっ付きそうな距離に飛び込んでいた。

「あ、あぶな……っ」

ぶつからなかったのが不思議なくらい、彼が近くて。それでも、ぶつかるかと息を詰めていた私は、思わず彼の顔を見上げた。

だけど視界いっぱいに彼が映ったのは、ほんの一瞬で。

「――――綾乃、うるさい」

そう言い放たれた私は驚いて声を上げる間も、急なことに抗議する間もなく、唇を塞がれてしまった。


んむ、と唇の隙間から吐息が零れる。

緊張のあまり綺麗に忘れ去っていたけど、私達がいるのはエレベーターの中なんだ。彼が“開”ボタンを押してるから、誰に見られるかも分からない。

万が一、小野寺くんのお母さんの目に触れたり耳に入ったりしたら……。


慌てた私に気づいたのか、小野寺くんの舌が私の唇をなぞっていった。思わず零した吐息ごと、舐めとるみたいに。

何度も角度を変えては啄ばんだり穿るようにされて、息が上がって、頭の芯がじんじんしてくる。薄い唇で繋がってる小野寺くんのことしか、考えられなくなってしまう。

ふわふわ宙に浮いたような感覚に酔った私に分かるのは、小野寺くんの息も上がってきてる、ってことくらい。

そうなる頃にはもう、完全に翻弄されてた。

いつだって小野寺くんは、私より一枚も二枚もうわてだ。


そして濃密な時間は、何の前触れもなく終わった。

ようやく小野寺くんから解放された唇が、酸素を求めてるのが分かる。

「――――っ、はぁ……っ」

無意識に深呼吸をして荒くなった息を整えていると、ふいに小野寺くんが私の顔を覗き込んだ。

そんな彼の胸も、まだ大きく上下してる。

「これで緊張もどっか行ったよな?」

私は、かくかく首を縦に振った。

今の砂糖を煮詰めたような甘くて濃いキスが緊張を振り払うためのものだったなら、ここは激しく肯定しておいた方がよさそうだ。

すると彼は、口の端をわずかに持ち上げた。そして、その指先で私の唇をなぞる。

じんじんする自分の唇と小野寺くんの唇意識した途端に、顔がぼわっと熱くなった。発火するんじゃないか、ってくらいに。


「ウチの母さんが、どう思ったとしても。

 俺は、綾乃が彼女になってくれて、すげー嬉しいの。

 だから胸張って、おどおどすんなよ。俺が一緒なんだからさ」


その囁きは、エレベーターの機械音に紛れて消えそうなほどの小ささで。だけど、ものすごく大きくて重いひと言だった。少なくとも、私にとっては。

思わず涙目になって、こくん、と頷いてしまったくらい。





ずいぶん待たされたエレベーターのドアが、心なしか開いた時よりも速く閉まった気がする。

その気配を背中で感じ取りながら、私は隣を歩く小野寺くんの横顔を見上げて言った。

「あのね、小野寺くん。

 わた、私もね、小野寺くんの彼女になれて嬉しいよ」

必死すぎる自分が恥ずかしいけど、頑張って告げた。褒めてほしい。

彼は少し頬を赤くして私を一瞥すると、曖昧に頷いた。照れてるらしい。

私は恥ずかしいついでに、思い切ってお願いしてみることにした。

「ねぇ、小野寺くん。さっきの、もう一回言って」

「調子のんな。ばーか」


言い放たれた言葉は、どういうわけか甘くて。全然嫌な気持ちになれなかった。











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