4月14日(月) 12:35
ネコミミくんがいなくなってから、もう2ヶ月が経とうとしてる。
学校に植わってる桜の木は鮮やかな緑の葉を揺らして、吹く風はすっかり暖かい。私はそれまで通りの毎日を、小野寺くんと一緒に過ごしてる。
そういえば新学期初日、小野寺くんのミステリーサークルみたいな坊主頭は、そりゃあもう、あらゆる人の目を引いた。
生徒は遠巻きに見てみたり、こそこそ何かを喋ってみたり。そのあたりは茶髪にピアスが3つだった頃とあんまり変わらないような気もするけど……先生達は、どういうわけか私に小言をくれた。何かが間違ってると思う。
ちなみに彼の髪型が最近テレビで見たモデルさん達と同じだったので、やけくそで髪を切ったわけじゃなさそうで安心した。
新しいクラスで小野寺くんの席は、廊下側の壁際。前から3番目だ。まだ3年生は始まったばかりだけど、彼は毎時間きちんと教科書を開いてノートをとって、提出物もしっかり管理してて。あまりの変わり様に正直、生まれ変わったのか中身が別の人になったのかと疑ってしまった。ぽろっと言ったら、笑いながら怒られた。あれは怖かった。
一緒のクラスになれた親友のなっちゃんは、私の前に座ってる。
その私の席は真ん中の列の、一番後ろだ。ここからは頑張ってる小野寺くんの後ろ姿がよく見える。だから私も頑張らないと、と思ってて。
思ってるんだけど……。
3時間目、英語がずらりと並ぶ黒板を必死に写していた私の視界に、小さく折り畳まれた紙切れが映り込んだ。
……あんまり関わりたくないなぁ。
そんなことを思いつつも、もともと気の小さい私はそっと手を伸ばした。無視してあとで絡まれたらと思うと、適当に構っておいた方がよさそうだ。紙切れを摘まんで広げて、そこに書かれた文字にさらっと目を通す。
“小野寺くんと付き合ってるって、ほんと?”
可愛くまるまった字の割に、ものすごく遠慮のない言葉。差し出し人の名前すらない。何の用なのか、なんとなく予想はついてたけど。実際目にすると憂鬱な気分になる。
誰にも分からないように溜息をついて、私は斜め前に座っている小野寺くんの背中を見つめた。相変わらず真面目に授業を受けてるみたいだ。気づけ気づけ……なんて、念を送ってみたりもする。とはいえ、いつまでも彼に頼るばかりじゃダメなのも分かってるんだ。
なんやかんやと考えて、私はその紙に“はい”とだけ書いて机の端に戻したのだった。
……ほんとにもう、私も勉強頑張りたいんだけどな。
4時間目は、体育館でバレーボール。
もともと運動は好きじゃないし、もちろん得意じゃない。チームプレーの足を引っ張らないように頑張ることで精一杯の私は、授業が終わって重くなった足を動かしていた。向かうのは、更衣室だ。
「あー、楽しかったー」
体育に全力を注ぐなっちゃんは、ずいぶんスッキリしたカオをしてる。バレーボールがよほど楽しかったんだろう、鼻唄混じりだ。羨ましい限りです。
「ふぅ……」
「綾乃、もうちょい体力つけた方がいいかもね。
……いろいろ、身がもたないだろうし」
溜息をついた私を見て、肩を回していた彼女が小さく笑う。
「え?」
その笑みの意味が分からなくて小首を傾げたら、彼女はあさっての方を向いた。「やっぱまだかー……」なんて聴こえてくるけど、全くもって意味不明。最近、急に私には分からないことを話し始めるから、ちょっと困ってたりする。
そんなやり取りをしながら更衣室に戻った私は、頭の中が真っ白になった。
「――――なっちゃん」
思わず、隣のロッカーで着替えていた彼女に手を伸ばす。
ぺちぺち、と素肌を叩かれた彼女は、「ん?」と何気ない声を返した。私の視線は自分が開けたロッカーに釘付けで、振り返る余裕もなくて。だから、もぞもぞと着替え続ける彼女に向かって、小さな声で言った。
「私のカーディガン、ない……」
「……は?!」
顔面蒼白になっているであろう私は、慌てた様子でロッカーの中を覗き込んできた彼女の肩を、ぎゅっと掴んだ。
「どうしよう、あれ、小野寺くんの……!」
ロッカーの中には、クリーニング屋さんが付けてくれるようなワイヤー製のハンガーが何本かかかってる。私はスカートとYシャツとカーディガンを、それぞれハンガーにかけておいたんだけど……。
「ハンガーにかけたんだ……ったよね、あたし一緒に着替えてたし。
まじか、盗難か」
半ば呆然と、なっちゃんが呟く。
私はもう、軽いパニックだ。
「どうしよう?!
謝ったら許してくれるかな、小野寺くん……!」
「いや怒るでしょ。
綾乃のものが盗られたなんて聞いたら、ぶちギレるでしょ」
そのひと言に、私は慄いた。
ぶちギレだけは、どうにかならないものだろうか。
とりあえず服を着ろ、となっちゃんに言われた私は、スカートとYシャツで更衣室から出た。
ちょっとばかり、すーすーする。半分強制的に着てたカーディガンだったけど、脱いでしまうと物足りない。というか、寂しくて心細い。
これだけで大ダメージだっていうのに、これから小野寺くんに怒られなくちゃいけないんだと思うと、もう泣けてくる。
もうちょっと心の準備をしてから行きたいけど、体育のあとのお昼休みに待たせてるんだから、のんびりもしてられない。空腹のライオンが、にこにこ笑って許してくれるなんて全然思えないもの。
ジャージを抱えて教室に戻った私は、すぐに自分の席で文庫本を読んでいる彼の姿を見つけた。椅子の背もたれじゃなく、壁に背中を預けて足を通路に投げ出してる。
小野寺くんは、本が好きだ。小野寺家のリビングには本棚があって、いろんなジャンルの本が詰め込まれていたし。高橋古書堂で働いてるのも本好きが高じて、ってところだろう。
私はぐるぐる坊主で黒縁メガネの彼に駆け寄った。
ぱたぱたと足音が聴こえたのか、彼の視線が本から逸れる。そして彼は私を見つけるなり、無言で開いていた文庫本を閉じた。
「……お、お待たせしました」
空気が若干ぴりついてるような気がして、かけた声が震える。まだ何も言ってないのに、すでに怒られた気分だ。
びくびくしていたら、彼の手が閉じた本を机の上に置いた。そして、やっぱり無言で突っ立っていた私を手招きする。
私は頬を抓られるくらいのことを覚悟して、そっと一歩踏み出した。その時だ。
「――――わっ?!」
突然くいっ、と手を引かれて、私はバランスを崩した。たたらを踏んで、ぐらっと前につんのめる。それでも咄嗟に足の裏に力を入れて、小野寺くんにぶつからないように踏み止まる。
ところが、ほっと息をついた私の手を、小野寺くんが更に引っ張った。
「ちょっ、あっ」
もう今度こそダメだ。踏ん張りのきかない足が、勝手に床を離れようとしてる。
「……綾乃」
小野寺くんの低くて不機嫌そうな声が声が耳に届く頃には、私はすでに彼の膝に腰を下ろしてしまっていた。
途端に顔が熱くなって、抱えていたジャージに顔を突っ込む。
だって今、お昼休みなのだ。教室には体育のあとの気だるい雰囲気の中、お弁当を食べる生徒がたくさんいるのだ。クラス替えがあったばかりだから、他のクラスから友達が合流して……という具合に、その人口密度は結構なものだったりする。
小野寺くんの席は端の列だから、そこまで目立たないかも知れないけど。それでも、すぐ近くから「うわっ」とか「あーっ」とか、どういう意味なのか分からない声が聴こえてくる。下手に視界を塞いだからなのか、ものすごくよく聴こえる。
……は、恥ずかしい……!
「ひぁぁ……!」と肺の底から悲鳴じみた声を絞り出した私の腰が、巻き付いてきた小野寺くんの腕に絡め取られる。Yシャツ越しだからなのか、体温が頭の芯まで伝わって熱い。
「――――で……」
地獄の底から響くような声が、耳元で囁いた。目を開けたら、きっと魂を抜きとられるんだ。そうに決まってる。怖いもの。
思わず肩をびくつかせた私のそばで、大きな溜息が聴こえた。
「なんでそんな格好してんの」
小野寺くんの手のひらが私の背中に触れて、じわぁぁ、と熱が沁み込む。
「あの……っ」
咄嗟に口を開いた私は、言葉に詰まった。どうしてこういう時、すらすらと思ってることを伝えられないんだろう。自分にガッカリだ。
私がひと声上げたきり黙り込んだのが癇に障ったんだろう、彼が言った。
ぼそっと、耳元で。
「綾乃、今日ピンクの下着つけてんだろ」
そのひと言の破壊力ったらない。
私は思わず、がばっと顔を上げた。手のひらの汗が、ものすごいことになってる。
「なっ、なな……?!」
何てことを言うんだ、と罵倒してやりたいのに言葉が出てこない。自分のへたれっぷりに、もう絶句してしまう。
慌てふためいた私の視線を捕まえて、小野寺くんが不機嫌そうに溜息をついた。
「だからカーディガン着てろ、って言っただろうが。
よく見るとそのYシャツ、薄いから透けてんだよ」
彼氏になった人からセクハラを受けるなんて、と憤慨しかけた気持ちが、呆気なく落ち着く。代わりに、私は小首を傾げた。
「そうなの?」
小野寺くんが、沈痛な面持ちで頷く。
「……そーなの」
彼は、小さく息を吐き出して「ちょっと下りて」と囁いた。
その言葉に頷いて、私は立ち上がる。
すると彼が眼鏡を机の上に置いて、おもむろに着ていたベストを脱ぎだした。そして、そのベストを私の頭に被せてくる。
「それ着てろ」
「……でも、小野寺くんは?」
「俺はブレザー羽織るから平気。
そんなことより、自分の彼女がそんな格好してる方が不快」
ありがたく彼の匂いがするベストに腕を通しながら尋ねれば、ぶっきらぼうな声が返ってきた。
小野寺くんは長いこと家事をこなしてきたから、袖周りがごわごわしてるのが嫌いらしい。だからブレザーは学校に着いたら帰るまで、椅子にかけっぱなしのことが多いんだ。
そんな彼は、ブレザーを7分袖くらいまでクルクル折って。私が小さく息を吐き出したのを見計らったのか、口を開いた。
「……で、なんでカーディガン着てないの?」
そこから私が、お叱り覚悟で事の次第を報告し始めたんだけど。案の定、事情を知るや否や目の色が変わってきた小野寺くんに周囲がひやっとした頃、なっちゃんが帰ってきて。
更衣室の鍵当番だった生徒に、それとなく話を聞いてくれた彼女が言うには、“今日は最後まで着替えてた子が、授業の開始間際にトイレに行ったから鍵を預けた”らしく。
「じゃあその子に話、聞いてきます!」と立ち上がったら、2人に怖いカオで怒られた。どうしてですか。
結局、お弁当を食べた小野寺くんが、その子に話を聞きに行って。
そして小野寺くんがそういう事情で教室から出ている間に、どういう経緯なのか分からないけど、まつげの大野さんがカーディガンを持って教室に現れた。
「“大野さんて小野寺くんの彼女だよね、これ、落ちてたよ”……って、
私のところに届けに来た子がいたんだけど。
……小野寺くん、いる?」
「ありがとう大野さん!
探してたんだ、それ。
よかったぁ、これでベスト返せるよー」
一緒にいたなっちゃんがガルガル唸ってるのを見ない振りで、私は手を叩いてにっこり微笑んで。ありがたくカーディガンを受け取った。
大野さんの口元が引き攣ってたけど、そんなのは知らない。もしかしたら、本当のことなのかも知れないけど、彼女には持久走で足をかけられたこともあったし。事情とか、どうでもよかった。心の中でぐるぐるしてたのは、ひとつだけだ。
――――小野寺くんのカノジョは私ですから!
何か言いたそうな大野さんが踵を返すのを見届けた私は、ふん、と鼻息荒く自分の席に戻ったのだった。
こうして、うやむやな感じで盗難の件は落ち着いたんだけど。
どうしても気になるから、私は小野寺くんに訊いてみた。
「カーディガンの袖、折っちゃダメなの?」と。
私が自分のいいように袖を折ると、彼が必ず戻しにかかってくるのだ。自分はブレザーの袖、折って着てるくせに。
すると彼は、こう答えた。
「袖余ってる方が可愛いじゃん」と。
……おのでらくん……。
それから余談だけど。
お昼休みに計らずともイチャイチャすることになったのが良かったのか、授業中に小さな質問状を見ることは、その日以来なくなったのでした。
もちろん、まつげの大野さんもおとなしくしてる。噂では、新入生に告白されて付き合っているとかいないとか。




