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4月7日(月) 8:00









スカートを2回折って、紺色のカーディガンを羽織る。小野寺くんは「いいからこれ着とけ」なんて言ってたけど、やっぱり私には大きい。袖口を折らないと、手も洗えない。

姿見に映った、ネコミミのない私。元に戻っただけなのに、今でもニット帽を被らないで人の前に出ると、ちょっとドキドキしちゃったり。


自転車に乗って、風を切る。

始業式とLHRだけの今日は、鞄もそんなに重くない。鞄の中身は、何冊かの参考書とノートと筆記用具、あとはタンブラーが入ってるだけ。学校が終わったら、小野寺くんとハンバーガーか何かを食べに行って、そのまま夕方まで一緒に勉強デートの約束がある。彼は「全然楽しくない……」とかなんとか不満そうにしてても、結局最後は付き合ってくれるんだ。


咲き始めの八重桜を横目に、私はペダルを思い切り漕いだ。






学校に着いた私はスカートの裾を直して、昇降口の前の掲示板を見に向かう。今日から3年生……そう、新しいクラスの名簿が貼り出されているのだ。


私が辿りついた頃にはすでに、掲示板の前に人だかりが出来ていて、悲喜こもごもが繰り広げられていた。泣いたり笑ったり、賑わっている。

掲示板に貼ってある名簿の中から自分の名前を探し出すには、もうちょっと前の方に行かないと難しそうだ。目を細めてみたけど、よく見えなかった。

やっぱり、もう15分くらい早く来ないとダメだったか……。

そんなことを思っていたら、突然肩を叩かれた。


「――――綾乃~!」

びっくりして振り返れば、そこにはお花見に行って以来顔を合わせてなかった親友の姿が。ちなみにお花見には4人で行った。高橋古書堂をお休みにした2人と、なっちゃんと私で。

もちろん、小野寺くんと2人でのお花見もした。夜桜だったけど。

「なっちゃん……。おはよ」

ドキっと跳ねた心臓のあたりを擦りつつ、朝から元気な彼女を見て息をつく。すると、肩を小突かれた。実に楽しそうなカオで。

「ちょっとー、小野寺はどうしたのよ」

「どうした、って……」

初日から上機嫌ななっちゃんに困惑しつつ、私は鞄の中から取り出した携帯で時間を確認する。7時55分。

「ちゃんと待ち合わせしてるよ?

 えっと8時の約束だから……もう来るんじゃないかな」

自分ではそんなに急いだつもりはなかったけど、少し早く着いたみたいだ。もしかしたら無意識に、そわそわしてるのかも知れない。

「そっか、もう来るんだ……」

なっちゃんが声を弾ませた。なんかアヤシイ。

気になった私は、鼻唄混じりの彼女の顔を覗き込んだ。

「どうかしたの?」

「んー……ま、名簿見てみなよ」

そう言った彼女が掲示板を指差した時、ちょうど人だかりの中からいくつかのグループが移動していくところで。

「ほら、ほらほらっ」

勢いづいたなっちゃんが私のカーディガンを引っ張って、人だかりに突っ込んでいく。これ、小野寺くんからの借りものなんだけどな……。

まごつきながら掲示板の前に出た私は、4つのクラスに分かれた153人の3年生の中から自分の名前を見つけようと、目を凝らす。字は小さいけど、じっくり見れば大丈夫そうだ。

「あ、あたしはもう見たから端っこにいるね!」

「ん、わかったー……」

ぽむ、と肩を叩かれたけど、もう神経を集中してるから返事も上の空だ。ちょっとだけ申し訳ないけど、なっちゃんは何も思わなかったらしく、さっと人の間を縫うようにいなくなった。

そして私が小野寺くんの名前も一緒に探すべく、1組の上から順番に目を通し始めた時――――唐突に、何の前触れもなく、周りから人の気配が消えた。


「ん……?」

肩がぶつかるほどの距離に何人もの人がいたはずなのに、その人達がいつの間にか少し離れた所に移動している。心なしか、遠巻きに見る感じで。もしかして足元に何か落っこちてきたのかと視線を走らせるけど、特に変わったことはなさそうだ。

理由はよく分からないけど、私もこの場からどいた方がいいんじゃなかろうか。そう思って、そろりと足を別の方向へと向けてみた。

ところが方向転換をはかった瞬間に、隣に誰かが立つ気配がして。条件反射的に、私は視線を上げて。そして、絶句した。


ずれかけの黒縁メガネを指先で直した彼は、不満そうに呟く。

「……んだよ、ちっさい字だな」

……私もそう思ってました。


開いた口が塞がらないまま心の中で相槌を打った私に気づいているのかいないのか、彼の目はレンズ越しに名簿を辿っていく。

3月末まではテスト前だろうが鞄の中身は筆記用具だけで、変なポリシーでも持ってるんじゃないかと思ってたけど。今日は、ちゃんと放課後の勉強道具を持ってきたみたいでよかった。まず無事に3年生になれたことにも安心したけど、卒業することも視野に入れて始業式を迎えてくれたみたいで何よりだ。

そんなことを考えていたら、彼の視線がある一点で止まった。

「――――綾乃! 俺ら同じクラスじゃん!

 ……げ、谷村もいる」

素晴らしく嬉しいお知らせだけど、残念ながら私の視線は、もう名簿の紙には向けられなさそうだ。目の前の彼の姿に釘付けで、どうしても剥がせない。

……どうしてなの、小野寺くん。一体何があったんだ。


心の中で語りかけた私が、黒縁メガネのレンズに映る。

「あれ、もしかして同じクラスになったの嬉しくない?」

無反応な私に何を思ったのか、小野寺くんが小首を傾げた。

私は思いっきり、頭が飛んでいってしまうのかと思うくらいに首を振る。先週切ってボブくらいの長さになった髪がひと房、リップクリームを塗った唇に貼りつく。

……違う、違うんだよ小野寺くん。なんかもう違い過ぎる。


そんな私を見た小野寺くんは手を伸ばして、苦笑を浮かべながら指先で邪魔になってる髪をどけてくれたけど。絶対に爪で私の肌を引っ掻いたりしない気遣いは、いつも通りだけど。

「じゃあ、どした」

今にも溜息をつきそうなカオで、彼が言う。

私はぷるぷる震える指で、彼の頭を指差した。


「その頭、どうしたの……?!」

やっとの思いで告げた私のひと言に、小野寺くんは何も思わなかったんだろうか。小首を傾げて、自分の頭をぽんぽん叩いてる。

「えー、似合ってない?

 美容師さんは、“バッチリ”って言ってくれたけど」

「や、あの……」

ダメだ。次元が違う。

その“バッチリ”は高校生向けじゃない。舎弟向けだ。

心が折れそうなのを叱咤して、私は思い切って息を吸い込んだ。

「――――なんで坊主なの……?!」


そう、あろうことか小野寺くんは坊主になっていた。

それもお坊さんや野球部員にありがちな、ただの坊主じゃない。すごく短くカットしたところと、坊主にしては長めにカットした部分がある。ミステリーサークルよろしく、何かの模様が描かれてるのが分かる。

そんな呪いがかかってるような頭に、ピアスが3つ、黒縁メガネ。そりゃあ周りの人達も、そそくさと離れるわけだ。怖いもの。

「染め直すより簡単じゃんか。

 一応3年生になったしな。もう茶髪は卒業することにした」

私の慄きに気づかない小野寺くんは、キリっと表情を引き締めた。

たしかに、髪は黒くなったけど。ついでに眼鏡が似合うと褒めたこともあったけど。だけど小野寺くん、これじゃ悪目立ちしまくり……。ああほら、記憶のない春日先生が小野寺くん見て逃げてったし……。

なんかもう、そのやる気と見た目が噛み合ってないよ。小野寺くん。


言ってやりたいことは次から次へと思い浮かぶけど、唇がわなわな震えて言葉にならない。

すると小野寺くんが、私が祈るように握りしめていた両手に目を遣った。途端に、彼の口から溜息が漏れる。

「……ちょっと手、貸せ」

言いながら伸びてきた手が、私の返事も待たずに折った袖口を元に戻していく。

「え、だって……」

あっという間に隠れてしまった手の甲を見て、「それじゃ不便だし、袖口が汚れる」と私が言うよりも早く、小野寺くんの声が飛んできた。

「うっせぇ。

 不満なら髪伸ばしてやるから、その袖ちょっと伸ばしとけ」

……伸ばしてやる、ってなんだろう。

よく分からないけど掘り下げると彼の機嫌が急降下しそうだ。とりあえず頷いてみた私は、なっちゃんを探して視線を走らせる。

もしかしたら、先に教室に行っちゃったのかも……。


すると手が、真横に引っ張られた。小野寺くんだ。

目が合ったそのカオが、なんだかにやにやしてる。

「学校終わったら、勉強の前に買い物行くぞ」

「……買い物? 何かの特売?」

おひとり様1つ限り、なんてフレーズが頭に浮かんだ私に、小野寺くんは沈痛な面持ちで溜息をついた。

「そういうのは、しばらく母さん任せ。

 やっぱりゴールデンウィークあたりまでは、こっちにいられるってさ。

 平日は定時で帰って来るし、土日も家にいるしで……」

「そっか、良かったね!」

思わず手を叩いたら、小野寺くんは私の手を引いて歩き出した。

「……だから、綾乃をうちに呼びづらいって話なんですけどー」

聴こえた言葉に、私は首を捻るばかりだ。

「うん?

 ……別に家じゃなくても。勉強なら、図書館ですればいいよね?」

私の反応に、小野寺くんは一瞬きょとんとして。それからすぐに地面に向かって、ものすごく低い声で呟いた。

「くっそ全然思い通りに進まねー……!」

……そんなに世の中甘くないってことだよ、小野寺くん。




階段をのぼりながら、私は小野寺くんの手をぎゅっと握り返した。

ぶつくさ言っていた彼の目が、不機嫌そうな色を灯したまま私を見つめる。

もう見慣れた彼の仏頂面に笑みを返した私は、そっと囁いた。

「……小野寺くんと同じクラスでよかった。

 高校最後の年だし、思い出たくさん作って一緒に卒業しようね」

言い終わって、ちらりと彼を見上げる。

すると彼は耳を赤くして、私から視線を逸らした。

「お、おう……」



小野寺くんも、なっちゃんも一緒のクラスだなんて嬉しい。

平穏な1年になりそうな予感に、私の頬は緩みっぱなしだ。


田部綾乃、17歳。

初めての彼氏としてみたいことが、たくさんあるんです。


まず手始めに、明日はぶち猫に鰹節を持って来ようと思う。

それからちょっとだけ勇気を出して、小野寺くんに“あーん”してみるんだ。

あとその、坊主にピアスで眼鏡でも好き、って言おう。実際格好いいし。



……でも、うん。小野寺くんは耳を赤くして怒りそうだけどね。







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