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2月15日(土) 17:55








インターホンで志乃さんが「こんにちは」と言った瞬間にひと声吠えたリクは、小野寺くんから「ハウス!」と言われて、残念そうなカオをして別の部屋に置いてあるケージに入っていった。

私は、その様子を見ていたネコミミくんが、ほっとしたように力を抜いたのが分かって、ちょっと可笑しくて。

甘え鳴きが聴こえてくる部屋のドアを閉めた小野寺くんは、心配そうに見ていた私に、「明日ドッグランに連れてくからへーき」とか言ってたけど……。なんだか仲間外れにした気分で、ちょっと後味が悪かったりしてる。





窓の外には、住宅街の明かりが見える。温かい光だ。

まだ夜だとは言い切れない暗さの空には月が昇っていて、うっすらと輝いてる。この満月が、化け猫の一族である志乃さんに力をくれるそうだ。

「そろそろ、いいかしら」

志乃さんに言われて、私は窓を背に振り返った。

「はい。お願いします」

彼女に言われて部屋の明かりを消してまわっていた小野寺くんは今、キッチンで何かをしてるらしい。さっきから、カチャカチャと音が漏れ聴こえてくる。そこだけ小さな明かりもついてるみたいだ。

「……ちょっとだけ、窓を開けさせてもらうわね」

私の横をすり抜けた志乃さんが、ベランダに続く大きな窓を少し開けた。途端に、冷たい風がすーっと流れ込んでくる。

ネコミミくんが、きゅぅっと縮まって、私は腕を擦った。


「さむー……」

キッチンの明かりが消えて、小野寺くんがやって来た。その手には、もこもこした何かを持ってる。よく見たら彼も、なんだかもこもこしてる。

彼は持っていたものを私の肩にかけた。

「これ着てろ」

もこっとした感触と一緒に、肩が暖かくなる。どうやら、フリースのカーディガンを持って来てくれたらしい。

「え、いいの?」

暖かさに頬を緩めて袖を通せば、予想通りに大きくて。袖を少し折った私は、ファスナーを上げる。なんか雪だるまみたいになったけど。いいか、暖かいから。

「ありがと」

小野寺くんの顔を見たら、ぷいっと逸らされた。口元を手で押さえてるけど、それは噴き出すのを我慢してるってことでいいのかな。

なんだか釈然としない気持ちになった私だけど、志乃さんの前でむくれるのも恥ずかしいから、ぽす、と彼の腕を叩くだけにしておいた。

咳払いが聴こえて、私達は志乃さんに目を遣る。すると、生暖かい眼差しでこちらを見ていたらしい彼女が口を開いた。

「……始めましょうか」



彼女の言葉が合図になったみたいに、窓から冷たい風が吹き込んでくる。

志乃さんが、おもむろに両手を伸ばした。

柔らかくて白い、爪の先まで綺麗に手入れされた手だな……そんなことを思った刹那、私の体が勝手に仰け反った。

「――――あ、つ……っ!」

ひんやり冷たい彼女の手から、熱い何かが流れ込んでくるのが分かる。ぽかぽかを通り越して熱い。血液の流れに乗っているのか、勢いよく体中に沁み渡っていく。

息を飲んだ気配がしたのと同時に、小野寺くんの手が私の肩を掴んで支えてくれる。

「志乃さん?!」

彼の非難するような声が、後ろから私の頭を飛び越して響いた。

熱いのか痛いのかよく分からなくなってきた。何かを逃がすように、私は頭を振る。

いつの間にか、彼女の頭には白っぽい獣の耳が生えている。瞳も赤くなってるし、木曜日に体育倉庫で見た化け猫の彼女だ。

あの時はネコミミくんが危険に晒されてて怒り心頭だったみたいだけど、今日は外見の割に声が冷静さを含んでる気がする。


「……大丈夫。うまくいくわ」

高熱が出た時みたいに、くわんくわん耳鳴りがする。

志乃さんの言葉に無意識に頷きながら、私はかくかくと支える力のなくなりつつある足でなんとか立っていた。

「綾乃……!」

彼が心配そうに、耳元で囁く。

小野寺くんがそばにいてくれることに安心してしまったのか、私の膝から力が抜けた。がくん、と視界が低くなって、ぼてぼてぼて、と体のあちこちが何かにぶつかる。

ものすごく瞼が重い。ぶつかったところが痛い。

「うわ、ちょっ……!」

小野寺くんの慌てたような声が響いた。

「――――頑張って!」

ぼやけたり霞んだりする視界に、志乃さんの赤い瞳が割り込んでくる。

何を頑張ればいいんだか分からないままに頷いた私の瞼が、とうとう重みに耐えられなくなって落ちてきた。

すると真っ暗闇の中で揺れていた頭が、何かにぶつかって止まる。ぎゅっと何かに絡め取られて、体のいろんな場所が思い通りに動かない。どくん、と心臓が嫌な音を立てて暴れた。思わず息を詰めた口から、呻くような掠れた声が零れる。

志乃さんが、私の手をぎゅっと握りしめた。

「田部さん、力抜いて……!」

「綾乃。息、吐いてごらん」

すぐそばで、小野寺くんの声がした。

私はその言葉の通り何を疑うこともなく、ゆっくりと体の中に溜まっていたものを吐き出す。ほぅ、と全部を出し切ったのと同時に、彼が囁いた。

「ゆっくり吸って、吐いて……」

言われるままに息を吸い込んで、そのまま肺が空っぽになるまで吐き出す。もう一度、と彼が言うから、その通りにもう一度。

「ん、よく出来た」

言葉と一緒に、大きな手が私の頭をぽふぽふ叩いた。

ちょっと癪だけど、悪い気はしない。自然と口元が綻んだ私は、深呼吸を繰り返す。

意識がくっきりしたり、濁ったりしてる。目を開けているのがしんどくて、自分に何が起きてるのかも確かめられない。ただ、志乃さんが「あと少し」だと言って手を握り締めたのだけは分かった。

その時だ。急に、体の内側が風船のように膨らむような感覚が襲ってきて、私は思わず握られた手に力を込めた。


何かくる……!


限界まで膨らんだ風船が割れるような音がどこかでしたのと同時に、そう思った時にはもう、私の体は弾かれるようにして後ろに仰け反っていた。


「あ――――」

半開きの唇から零れた声が、自分の耳にこだました。

気づけば白く濁りつつあった視界の片隅に、両手を広げた小さな子どもの後ろ姿がある。それを受け止めようとする両腕も見える。

小野寺くんの溜息と、子どもの声が一緒くたになって耳の奥で響く。


思考がぶつ切りになって、だんだんとワケが分からなくなって……。そして、考えることを投げ出した瞬間に、私の意識は何かに溶けて消えた。








ころころと鈴を転がしたような笑い声が、瞼の奥をちくちく刺激する。首もなんだか変なふうに曲がってて、居心地が悪い。

「んー……」

不快感を覚えた私は眉をひそめて、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「だいじょぶか?」

黒縁メガネの小野寺くんが、心配そうに私の顔を覗き込んでる。

……ん? 覗き込んでる……?

自分の置かれた状況がよく分からなくて、私は内心首を捻った。

小野寺くんが、そんな私を見て苦笑混じりに目を細める。何を思っているのか分かってる、と言わんばかりに。

「おのでらくん……?」

ぼんやりと呟いたら、彼の手が上から下りてきて私の頭を撫でた。何かを確かめるみたいに、頭のてっぺんから耳の横を通っていく。

「痛いとこは?」

「……首が、ちょっと」

問いかけに、私は小さな声で答えた。自分が横になってるのは理解出来たから、ちょうどいい頭の置き場所を探して身を捩る。

小野寺くんは私の言葉に笑みを浮かべた。

……なんかすごく嬉しそうだけど。どうしてだろう。私、首が痛いって言ったんだけどな。聴こえてないのかな。

「そっか、ごめん」

そう言うなり、彼の腕が私の首の下に潜り込んできた。

「え……?」

そこで初めて、私は自分の頭が小野寺くんの膝の上にあったことに気がついて。思わず勢いよく起き上がったのだった。


ぐわんぐわん、と頭の中で鐘が鳴る。

いきなり起き上がったのがよくなかったみたいだ。恥ずかしいやら痛いやら、いろんなものが一気に押し寄せて、私はその場にうずくまった。顔に熱が集まってくるのが分かる。

まさか小野寺くんに膝枕される日がくるなんて……。

「うー……」

思わず頭を抱えていたら、彼は噴き出しながら背中を擦ってくれた。

「なにそれ、傷つくんですけどー」

ふざけた口調だけど、その手はとっても優しい。背中も肩も、項垂れた頭も労わるように撫でていく。

「……ん、触って痛いとこはなさそうだな」

頷いたらしい彼の手が、恥ずかしさに小さくなっていた私の両手を取った。そして、そのまま私の手を持ち上げて。

ぽふん、と頭に着地させた。

……なんだこれ。

とっても間抜けな格好をさせられた私は、思わず半目になる。

すると小野寺くんはそんな私の反応が面白かったのか、にこにこして言った。

「あれ、まだ分かんない?」

「はい?」

小馬鹿にされたみたいで、なんだか嫌だ。むっとした私は、可笑しな格好をさせられたまま彼の顔をじっと見つめる。

分からないんだから、ちゃんと教えて欲しいんですが。小野寺さん。もう、恥ずかしさなんか吹き飛んでいっちゃったよ。

むくれていたら、小野寺くんが私の耳に唇を寄せる。そして彼は、そっと囁いた。


「――――な?」

「ほんとだ……」

小首を傾げる彼に、私はこくんと頷く。

頭の上でぴるぴる動くものが、なくなってる。

嬉しいけど、寂しい。あったものが抜き取られた感じに、何かが込み上げそう。どうしてだろう。これを望んでたのに、手放しで喜べない自分がいる。

呆然と視線を返すだけの私の手を下ろさせた小野寺くんが、ふいに後ろを振り返った。その頬が緩んでる。どうしてだろう。

その時だ。


「あっ!」

元気いっぱいな子どもの声が響いて、ぱたぱたと足音が近づいてきた。

「え……?」

私がそう言って小首を傾げても、小野寺くんは笑みしか返してくれない。その笑みがなんだか意地悪で、問い詰めようと咄嗟に口を開いた刹那。

「おねーちゃん、だいじょーぶ?!」

目の前に、小さな男の子が現れた。


「ケーキ、どうだった?」

唖然として言葉が出ない私をよそに、小野寺くんが男の子に声をかける。すると男の子の方は、瞳をキラキラさせて頷いた。

「おいしかった!」

「そっか」

満足そうに相槌を打った小野寺くんを見て、男の子がぴょんぴょん跳ねる。さっきまで膝枕でダウンしてた私とは、えらい違いだ。そもそも彼が怖くないんだろうか。

だいたい小野寺くんはどうして、そんなにほのぼのしてるの。

「元気出たか?」

「でたー!」

男の子の元気の良さに、クラクラする。私は息を吐き出してから、ゆっくりと呼吸を整えた。そして、思い切って口を開く。


「あの……」

控えめにかけた声に、ケーキのおかわりをリクエストしてた男の子の視線がこちらに向いた。かと思えば、何かを思い出したようにソファの上にいる私ににじり寄ってくる。

「えっと……」

私が何を尋ねたらいいんだろうかと考えを巡らせている間に、男の子が私の膝に小さな手のひらを乗せた。彼は身を乗り出して、私の顔を覗き込む。

「お、小野寺くん」

何が起きてるのか理解出来なくて、私は思わず小野寺くんを仰ぎ見た。だけど彼は、ただ口の端を持ち上げただけで。

「え、おの――――」

「あのね、ごめんなさい」

もう一度彼を呼ぼうとした私を遮って、男の子が言った。

「は?」

ぽかん、と口を開けた私の膝に小さな手のひらの熱が、じんわりと伝わってくる。たしか、こんなことが前にもあったような気が……。

記憶を手繰り寄せながら、目の前で申し訳なさそうに眉根を寄せる男の子を見つめる。黒い髪はつやつやで、くりっとした目が可愛らしくて。

……会ったことがあるような、ないような。

混乱を通り越した不思議な気持ちで男の子を見つめていたら、そのつやつやした黒髪の小さな頭が、こてんと横に傾いた。そして、その口が大きく開く。

「おかあさーん!」

……お母さん?

飛び出した言葉に首を捻る。するとその横で、小野寺くんが噴き出して。

それを見て私が眉根を寄せていたら、くすくす笑いながら志乃さんがやって来た。小さな男の子は、志乃さんに駆け寄って飛びついてる。

その場面を目にした途端に、頭の中で映像が再生された。両手を広げた小さな子どもの後ろ姿と、それを受け止めようとする両腕……気を失う間際に見た光景だ。

もしかして、この子……。

ぐちゃぐちゃした記憶を手繰り寄せ整頓し直した私は、導き出した結論を口にするべく息を吸い込んだ。

「ネコミミくんなの……?」





「体は大丈夫?」

「はい」

心配そうなカオの志乃さんに、私は静かに頷いた。

しゃがみ込んで靴を履いていた男の子が、彼女の手を取る。


ネコミミくんは、私が気を失うのと同時に体から剥がれるようにして出てきたそうだ。その時はぐったりしていたけど、志乃さんの介抱とケーキで元気になったらしい。

そういうところは、どこにでもいる子どもだな、と思う。小野寺くんと遊んでる姿なんか、とっても微笑ましくて可愛かった。

だけど、いつだったか夢の中で会ったネコミミくんと目の前の男の子、外見や口調が違っているのは何故なんだろうか。

ふと感じた疑問を口にしてみたら、志乃さん曰く「わたし達は憑いている間は姿を持たないから、それは器になった田部さんの意識が作ったもの」だそうで。

もしかしたら、夢の中で私が会ったのはネコミミくんが化けた時の姿だったのかも知れない……なんて、そんなことを思ったのだった。

正直、まだ夢見心地で仕方ない。順応してる小野寺くんが羨ましいくらいだ。


小野寺くんが、男の子の手に小さな紙袋を持たせた。中身はもちろん、彼がおかわりをリクエストしていたガトーショコラ。

「ありがとー」

にっこり笑って嬉しそうにお礼を言った男の子は、頷いた小野寺くんに手を振ってから、私に視線を移した。

「おねーちゃんも、ばいばい」

可愛い小さな手のひらが、目の前で揺れる。

私は振り返すことはせずに、自分の手を差し出した。数えたらたいして多くない時間だったけど、離れずにずっと一緒に過ごしたのに、その手に触れたことがないのは、やっぱりちょっと寂しい。

「……元気でね」

“ありがとう”も“さよなら”も何か違う気がして。いろんな気持ちが一周して、唇から零れたのはそんな言葉だった。

差し出された手を見つめて一瞬ぽかんとした男の子は、ややあってから私の手を掴んだ。握手というには幼くて、少し乱暴だけど。

「うん!」

元気のいい頷きが返ってきた瞬間、男の子の頭に灰色の小さなネコミミが、ぴるん、と何かを弾くように動いたのが見えた。……気がしたんだ。






ぱたん、と玄関のドアが閉まる。その音と一緒に、別れ際の志乃さんの「お世話になりました」というひと言の余韻がぷつりと途絶える。

静まり返った空間に立ち尽くして何回か瞬きをするうちに、激動の約2週間のことが走馬灯のように蘇っては消えていく。

取り残されたような気持ちになった私は、無意識のうちに隣に立つ小野寺くんの袖を、ぎゅっと摘まんでいた。

「……どした?」

上手く言葉にならなくて首を振れば、力を入れていた指がゆっくり剥がされる。

小野寺くんは、苦笑混じりにひとつ息を吐いた。

「腹減ったな。

 なんか作るか!」

言って、勢いよく私の髪をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。

「ちょ……っ! おのでらー!」

思わず大きな声を上げた私を笑って、小野寺くんはくるりと背を向けた。「うっわ、呼び捨てかよー」なんて笑いながら。

せっかく人がしおらしく感傷に浸ってたのに。もう。もうもうもう。

心の中で地団太を踏んだ私は髪を直しながら、彼の後を追う。

「……あ、リク」

どうやらケージ待機にした弟のことを思い出したらしい。リビングに戻った小野寺くんが方向転換しようと、キッチンとは別の方に足を向けようとしてるのが見えた。

茶色い頭を見つめていた私は、その時咄嗟に動いていた。


どんっ、という衝撃と、「うわっ」と動揺した声色。

文字通り体ごとぶつかっていった私は、小野寺くんのお腹に腕を回した。こつん、とおでこを背中に当ててて。

ぶつかった衝撃で前につんのめった彼は動揺してるのか何なのか、わたわたと手を動かして落ち着かない。何か言ってるけど、よく聞こえないからちょっと無視してみよう。自分でも、思い切ったことをしたと思ってるんだから。


思い切ったついでに、と息を吸い込む。

「ありがと、小野寺くん……」

言ってやりたいことは、たくさんあったはずなのに。私の口は自分が思っているよりも、ずっと素直みたいだ。

そんなことを考えていたら、小野寺くんの落ち着かなかった手が私のそれに重なった。少し遠慮がちに。

「……おう」

返ってきた言葉はいつも通り、優しかった。








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