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2月15日(土) 17:20










体を沈めて、お湯に口をつける。

ぴちょん、と天井から水滴が落ちてきて、ネコミミがぴるる、と震えた。


あのあと小野寺くんは、私が差し出したギフトボックスを、壊れモノを扱うようなぎこちない動作で受け取った。

「寄越せ!」なんて催促した割に、渡したら渡したで目を合わせてくれないし。バレンタインって、もっと甘い雰囲気になるイベントだと思い込んでたけど……もしかして私、夢、見過ぎなんだろうか。

第一、ガトーショコラを美味しく作れる彼に差し上げるのは、ものすごく気が引けた。それでも「ありがとう」とは言ってくれたから、ひとまず良しとしよう。

そんなことを思いながら、お湯の中で膝を抱えた私は息を吐き出す。ぶくぶくと水面が泡立って弾けて、ネコミミがひくひくした。



お風呂からあがって部屋に戻ったら、ベッドの上の携帯に小さな光が灯っていた。それは蛍みたいに、点いたり消えたりしてる。

思わず駆け寄って、ボタンを押す。瞬時にパッと明るくなった画面にはメッセージが。小野寺くんからだ。

そこには、絵文字や顔文字の入らない無愛想な言葉が並んでる。なんてことのない、ただの“おやすみ”の挨拶に、私は頬が緩むのを止められなかった。







よく晴れた、風の穏やかな土曜日。いよいよ、ネコミミくんとサヨナラする儀式をしてもらう日がやってきた。

鞄から携帯を取り出して、時間を確認する。まだ2時半だ。志乃さんとの約束は5時半なんだけど、小野寺くんが今朝になって「早く来い」とか言うから。

おかしいな。私、疑似彼女から本物彼女に昇格したはずなのに。子分か下僕みたいな扱い方をされてるような気が……。

首を捻りながら彼のマンションの下に自転車を停めた私は、エントランスのインターホンを押した。呼び出し音を聞き流しながら、髪を整える。

ややあって、音がプツンと切れたのを合図に、私は居住まいを正した。



「――――いらっしゃい」

ピンポーン、とありきたりな音が響いてすぐに、小野寺くんが顔を覗かせる。やっぱり黒縁メガネな彼は、口の端に笑みを浮かべていた。

「どーぞ」

彼がドアを開ければ、家の中からリクのひと吠えする声が聴こえてくる。挨拶のつもりだろうか。ネコミミがぴくぴくして、強張ってる。

その緊張が伝わったのか、私の鼓動が速くなっていくのが分かる。

目が合った小野寺くんが、小首を傾げた。

「どしたの、入んなよ」

「……あ、うんっ」

私は慌てて頷きながら、一歩踏み出した。


本がぎっしり詰まった棚と、観葉植物。小野寺家にお邪魔するのは、これで3回目だ。リビングの風景も、ちょっとだけ見慣れてきた気がするな。

私は手を伸ばして、尻尾をぶんぶん振りつつ纏わりついてくるリクの黒い頭を撫でる。心なしかネコミミを狙われてるような気がしないでもないけど……。

「カフェオレでいい?」

ふいに声をかけられて、小野寺くんの姿を探す。するとキッチンの壁がくり抜かれた部分から、彼のカオが覗いた。

「うん、ありがと」

「……ん」

返事をすれば、ひとつ頷いた彼がキッチンの奥に引っ込む。そして、そこから少し大きな声が聴こえてきた。

「ソファでもこっちのテーブルでも、好きなとこ座ってて」

「はーい」

彼と同じくらいの声を上げた私は、ソファに腰を下ろすことにした。キッチンからは、カチャカチャと食器のぶつかる音が響いてくる。

その音が心地よくて耳を澄ませていたら、視界の隅に黒くてもふもふしたものが。ぽて、とオモチャを私の足元に落としたリクだ。

「えっと……?」

真っ黒な瞳が、何かを期待してキラキラしてる。

リク限定だけど、やっと犬に対する恐怖心が消えたばかりの私に、この人形を一体どうしろというんだろう。彼の落としたオモチャは、手足が太いロープで出来たカエルの人形だ。この間のボールとは違って、遊び方が分からない。

「これで遊ぶの?」

私は恐る恐るカエルさんを拾い上げる。

その瞬間だ。リクが、勢いよくカエルさんに噛みついた。

「――――っ?!」

息を詰めた私が手を離すよりも早く、がぶり、と私の指の少し先を噛んだリクは、思いっきりカエルさんを引っ張る。

がくん、と腕ごと持っていかれそうな感覚に驚いた私は、咄嗟にカエルさんを握る手に力を入れた。すると今度はリクの方が、がくん、と頭を振る。

「え、ちょっ」

いきなり手を離したら、その瞬間力んでるリクが勢いよく後ろに吹っ飛んでしまいそうで怖い。どうしたものかと思いつつ、私はカエルさんを持っていかれないように力を入れた。

ネコミミもニット帽の中で、負けじと踏ん張ってる。

ほんとは離して欲しいのかも、と思って真っ黒でしなやかそうな尻尾を見るけど、最初と同じように元気に振れている。その様子を見て、こういう遊びなんだと思うことにした私は、気合いを入れてカエルさんを引っ張った。

「ん~、えいっ」

尻尾をぶんぶん振り回すリクが、時折『わふっ』とくぐもった声で吠えながらカエルさんを引っ張る。それを私が引き寄せ返して、の繰り返し。

そのエンドレスな予感に少々疲れを感じ始めた頃、ぱっとリクがカエルさんを口から離した。

「――――ひゃっ」

いきなり離された反動で、私の体が前につんのめる。足を踏ん張ってソファから落ちずに済んだ私は、何かに向かって駆けて行ってしまったリクの姿を目で追いかけた。


「お、遊んでもらってたのかー」

リクが駆け寄った相手は小野寺くんで。キッチンや玄関の前には柵が置かれているから、きっと彼が戻ってくるのを待っていたんだろう。

両手にカップを持ってこちらにやって来た小野寺くんが、纏わりつくリクに話しかけながら私の隣に腰を下ろす。

「……ん」

私は、ほぼ無言で差し出されたカップを受け取った。

「いただきます」

小野寺くんは、空いた手を伸ばしてリクを撫でる。リクはそれで満足したのか、彼の足元に伏せの姿勢で寝そべった。


カフェオレから、コーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。ほっと息を吐き出した私は、なんとなく小野寺くんを見つめた。

すると、私の視線に気づいたらしい彼が振り返る。

「どした?」

……どした、はこっちの台詞だと思うんだけど。

どこか機嫌の良さそうな雰囲気を纏っている小野寺くんに、私は小首を傾げた。

「約束の時間よりずいぶん早いけど……何かあった?」

「……別に」

あっという間に、彼の眉間にしわが集まってくる。もしかして機嫌、急転直下か。

「あ、ああ、そっか……」

さすがにもう、小野寺くんに対して“怖い”なんて思いはしないけど。それでもやっぱり、雲行きが怪しいのを肌で感じると心臓が縮みそうだ。

気もそぞろに相槌を打てば、彼の口から小さな溜息が。

思わず、ぴくりと肩を震わせてしまった私の手から、マグカップが抜き取られる。

「ああああの……?」

ご機嫌斜めの小野寺くんにいい思い出のない私は、彼の顔とテーブルに置かれたカフェオレを交互に見遣った。

「……なあ」

低い声だ。茶髪の頭の上に、暗雲が渦巻いてるのが見える。

コト、と静かな音を立てて、彼は自分のカップもテーブルに置いた。

「は、い……っ」

何を言われるんだろう、と私は背筋を伸ばす。がっちがちだ。

すると不機嫌そうな小野寺くんの手が、私に向かって伸びてきた。私ががちがちの体を、さらに強張らせた刹那。

「ふへぇぇ」

頬を抓られた。なんでだ。地味に痛い。

思ったことがカオに出てたんだろうか。上目遣いになった私を見た彼が、ソファを軋ませて距離を詰めてきた。

ぐいぐい近づいてきた小野寺くんのピアスが、きらりと光る。黒縁メガネのソフトさに誤魔化されてたけど、ピアスがドクロだ。何の宣戦布告だ。


心の中でぶつぶつ呟いていると、彼の手が溜息混じりに離れていく。

「何もなくても呼ぶだろ。フツー」

言葉の外に、“お前何言ってんだ”と言われてるような気がする。その肩の落とし方、溜息のつき方。残念そうなカオ。

「早く来い、なんて。

 何かあったかな、って思うでしょ。フツー」

思わず口を尖らせて、小野寺くんの口調を真似してみる。食ってかかる勇気のない私には、これくらいの反抗が関の山だ。

すると彼は、大きく息を吐き出した。


小野寺くんは何も言わず、おもむろに私に手を伸ばした。そして、すぽん、と私の頭からニット帽を取り上げると、そのままの勢いでニット帽を放り投げてしまった。

目を閉じて居眠りしていたリクが、ぱっと起き上がってニット帽を追いかける。

「ちょっ?!」

突然のことに驚いて声を上げた私にはお構いなしで、ニット帽を放り投げた手が私の背中を捕まえて引き寄せる。

やっぱり何も言わない小野寺くんの顔が、すごい勢いで近づいてきた。思わず息を止めた私の唇に、彼のそれがぶつかるように触れる。

柔らかいのに強張ってて、少しだけコーヒーの苦味を感じる。

かぷ、と叱るようなキスをされて、私は目を泳がせた。思いっきり動揺してる。

「いいじゃんか、別に。何もなくたって」

憮然とした声に視線を上げれば、小野寺くんと目が合って。至近距離の眼鏡顔が不意打ちで、心臓がぎゅっと掴まれる。

「出来たての彼女に会いたくて何が悪いんだっつうの。

 ごちゃごちゃ言ってないでそのネコミミ触らせろ」

……それはどっちが本音なんだろう小野寺くん。


小野寺くんの手が、帽子を脱いでぼさぼさになった私の髪を整える。梳いたり、撫でたり。今日は巻いてないから、指通りがいいかも知れない。

「今日」

その手の気持ち良さに大人しくなった私に、小野寺くんが言った。心なしか、彼の声も落ち着いている気がする。

「夕飯、食って行く?」

「ん……?」

喉をごろごろ鳴らせそう。それくらい小野寺くんの手の感触が気持ち良くて、うっとりしながら声を発した私に、苦笑混じりになった彼が口を開く。

「たいしたもんは作れませんけど」

言いながら、その手が髪から離れた。

もう終わりですか、と胸の内で呟いた私が彼の顔を見上げた瞬間。

背中や腰のあたりを、ぴりぴりと痺れるようなくすぐったいような、思わず身悶えしてしまうような不思議な感覚が走り抜けていった。


「――――ひゃ、あぁっ?!」


夢うつつの気分が、ぶっ飛んだ。

反射的に体が跳ねてしまった私は、身を捩りながら口を手で塞ぐ。

自分の口を突いて出たおかしな声にびっくりして、言葉が出ない。なに今の。

目を見開いて驚いていると、小野寺くんが耳を真っ赤にしてそっぽを向いていることに気がついた。彼も私と同じように、口を手で押さえてる。視線が行ったり来たりしてるみたいだけど、一体どうしたんだろう。

そんな彼を、不思議に思って見つめていたら、あらぬ方に向いていた顔が正面に戻ってきた。そして、一度だけぶつかった視線を逸らした彼が口を開く。

「……す、すみませんでした」

「う、うん?」

もしかして、さっきのは小野寺くんがネコミミに触ったせいなのか。だけど、だからってどうして敬語で謝られたんだろう。

分からずに小首を傾げれば、小野寺くんが気まずそうに向こうを指差した。

「綾乃、ちょっとあっち向いて」

「え? うん……」

言われた通りに、彼とは反対側に目を遣る。だけど、そっちには何もない。壁があるだけで、その壁にも特に何も変わったところはなさそうだ。

なんでこんなこと、と内心で首を捻っていると、彼の手が私の体の向きを変えてきた。私は、もぞもぞと回転して、彼に背を向ける。ちょっとお行儀悪い格好でソファに座ることになってしまったけど、そこは仕方ない。そうさせたのは小野寺くんだもの。

すると、彼が溜息をつく気配が。

「小野寺くん?」

なんかよく分からないけど、相当落ち込んでいるみたいだ。なんとなくだけど、振り返ったら怒られそうな気がして確かめられないけど……。

私はもう一度、今度はうしろに向かって芋虫のように動いてみる。もぞもぞと後退したら、トン、と何かに当たった。きっと小野寺くんだ。

さっきまで彼氏と彼女らしい距離にいたのに、急に後ろを向かされて。ちょっと寂しいじゃないですか、小野寺くん。私だって、別に「早く来い」が嬉しくなかったわけじゃないんだけどな。


そんなことを考えていたら、ぶつかった彼のどこかが突然動いた。

「――――わぁっ」

ぐらっと後ろに倒れそうになった私は、思わず声を上げて、咄嗟に後ろ手をついて体を支えようとした。だけどその瞬間、脇の下を何かがくぐり抜けてくる。

「あーもー……」

ふいに聴こえた声と一緒に、体の傾きが修正された。

「あ、ありがと……!」

なんとなくまだ振り返る勇気が出なくて、私はうしろから抱きこまれたまま小さな声でお礼を述べる。

エレベーターの中で追い詰められた時とは違うドキドキに、息が出来ない。覆っている髪を突きぬけて、小野寺くんの吐息が耳にかかってる。顔が熱くなって、発火しそうだ。

「可愛いなこのやろー」

褒められたのか罵られたのか、いまいち伝わってこない。しかも可愛くてもこのやろうでも、どっちにしても心臓が縮みそうだ。

言葉よりも小野寺くんの体温に逆上せそうな私は、ぎゅっと目を瞑って呼吸の乱れを整えようと息を吐き出した。

すると今度は、彼の手が私の履いているデニムを引っ張る。

「ジーパンでよかった」

「なんで?」

思わず振り返って零した疑問に、小野寺くんが噴き出した。その手で私の頭を、ぐりっ、と向こうへ向けながら。

「おしえねー」

「じゃあ、ずっとコレ履いてた方がいい?」

その声がちょっとだけ上向きになった気がした私は、お腹のあたりに巻き付いてる小野寺くんの腕を見つめて言った。

「次はスカートでも平気。がんばる。

 ……ああでも、あんまり短いのは無理そう」

真剣な声でスカート丈について語る小野寺くんの溜息が、髪にかかる。

私は首を捻りながら呟いた。

「これって何の話なの小野寺くん……」








どれくらい経っただろう。黙々と課題プリントをこなす小野寺くんの隣にくっついて、私は教科書を読んでいた。邪魔じゃないかな、と思いつつ。

小野寺家のインターホンが鳴ったのは、その時だった。


私達は、顔を見合わせた。きっと志乃さんだ。お互い言葉にしなかったけど、なんとなく思っていることは一緒のような気がして。

小野寺くんが私の頭を、ぽふ、と叩いて立ち上がった。



いよいよ、ネコミミくんとサヨナラなんだ。

彼の後ろ姿を見つめて、私はぼんやりとそんなことを考えていた。








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