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2月4日(火) 12:30









ぴるる、と震えるネコミミが目に入って、私は息をつく。

それはもう全身から気体という気体を吐き出すような、大きなため息だった。





あのあと……ネコミミが生えたことに衝撃を受けた私は、思わず号泣してしまった。

あんなに泣いたのは、去年のバレンタインに好きな男の子に告白しようとしたら出来たてホヤホヤの彼女がいた、という、ありがちなパターンの失恋を経験して以来だ。

……それはともかく、号泣の果てに諦めの境地に至った私は、ネコミミを隠すためにニット帽を被ることにした。


たぶん私以外の誰も、ネコミミの存在を知らないはずだ。

髪を剃った時に生えたなら病院の先生が大騒ぎしただろうし、そうしたらきっと両親にも知られて大混乱を呼んだだろうし――――。

そう考えた私は、ひとまず自分だけの秘密にしておくことに決めた。

親ですら、人の子。人の口に戸を立てるのは絶対に無理だ。何かの拍子に、どこかでポロっと零してしまうかも知れない。

そうなったら、なんだか危険な目に遭いそうな気がする。命の危険も感じる。それは嫌だ。絶対に避けたい。


幸い母は、かたくなに帽子を被る私を見て、“髪を剃られたのがそんなにショックだったのか”と同情してくれたらしい。父親の「食事の時は帽子を脱ぎなさい」のひと言にも、「男には、私達みたいな乙女の心情が分からないのよ」とキッパリ言い放ってくれた。

……この際、母親が乙女かどうかは置いておこうと思う。








12時28分。

ちらりと見上げた時計の針が、昼休みを告げようとしている。


12時半から1時15分までが、私の学校の昼休みだ。お弁当やコンビニで買って来たものを、好きな場所で食べる。教室や中庭、屋上に出る生徒もいるし、学食で済ませることもある。

私はもっぱら教室派。外で食べるのも気持ちがいいけど、砂埃が舞ったり足元にカラスが寄って来るのはいただけない。



結局学校を休んだのは昨日だけで、体調に問題のなかった私は、出席日数と授業のために登校することにした。

落雷の件は新聞やテレビで扱われたものの、たいした被害がなかったことと、他に事件が起きたりしたことで埋もれたらしい。

登校しても、ある程度詮索したら興味を失ってくれたのか、クラスメイトの視線が私に注がれる時間は短かった。

それに担任が、私が帽子を被る理由をきっちり説明してくれたことも、良かったのかも知れない。

……まあ、いろいろ思うところはあるけど、“田部さんは頭頂部を剃られたらしいよ”という全然嬉しくない情報伝達が行われて、引き換えに秘密が守られるなら安いものだ。



高2の冬ともなれば、皆自分のことで忙しい。

受験組は予備校の宿題もあるし、就活組は面接練習用のコメントの提出期限が間近に迫ってる。私みたいな、ごく普通の目立たない女子生徒に構ってる時間はないのだ。



回想に耽っていたら、ぼんやり見つめていた時計の針が動いた。昼休みまであと1分。

ここまできたら、もう授業なんてあってないようなものだ。

もうクラスの皆も、なんだかそわそわしてる。もちろん私もだ。

そんな様子を眺めつつ、ノートの上に放り出されたシャーペンをなんとなく指でつついていたら、とうとう鐘が鳴った。

「じゃあ、終わるかぁ」

教壇で教科書を開いていた生物の春日先生が言って、日直が号令をかける。

皆が跳ねるように立ち上がって、先生が苦笑を浮かべるくらいの勢いで頭を下げた。






下げた頭を上げるのと同時に、教室の中にさざ波が広がった。

どこでお昼を食べる、とか、そんな誘い文句と返事が飛び交っている。

そんな会話を聞き流しながら教科書やノートを片付けていたら、視界の隅に紺色のスカートが飛び込んできて、私は顔を上げた。

「なっちゃん」

ふにゃ、と頬が緩む。

やっぱり秘密を抱えての登校は、気持ちが張り詰めていたらしい。親友の顔を見て、力んでいた肩から力が抜ける。

彼女は、重そうな鞄を持ち直しながら言った。

「綾乃、お昼どこで食べる?」

「んー……」

決まり文句を言うなっちゃんに、私は少し考えてから答える。

「やっぱり教室かなぁ」

「え、ここでいいの?

 今日は静かな場所で、とか……そういうの、ないの?」

怪訝そうなカオの彼女が、私の顔を覗き込む。

私はそんな彼女に手を振って、お弁当箱を取り出した。

「平気平気。

 いつも通りが一番だよ」

「まー……そういうことなら、別にいいんだけどさ」

鞄を床に置いたなっちゃんが、ポニーテールを揺らしながら隣の席から椅子を借りてくる。

それを見届けた私は、ゆっくりと立ち上がった。

「手、洗ってくるね」

「分かった。

 あたしはいいや、途中で寄って来たから」

ひとつ頷いた私は、すぐ戻るね、と言い残して教室を出た。




ごめん、なっちゃん。

手を洗う、っていうのは方便でした。


「うぅぅぅ、かゆい……っ」

私はニット帽の中でムズムズしてるネコミミを意識しないようにしながら、トイレに急いでいた。

駆けだしてもいいくらいだけど、そんなことしたら、尿意をギリギリまで我慢してたみたいで嫌だ。認める。私の変なプライドだ。

「ああかゆいっ」

誰にも聴こえないような声で呟きながら速足で歩いていくと、向かいから誰かが歩いてくるのが見えた。

……誰だろ。なんか、かったるそうに歩いてるけど……。

あんまりじろじろ見ないようにしつつも、視界に茶髪が映った瞬間、心臓が跳ねた。

――――――小野寺くんだ。

やって来たのが彼だと分かって、私は視線を落とす。

ここはいつもの、自分のスペースが確保されたレジブースじゃないのだ。

お釣りのない支払いをしてくれて、小額のレシートでも受け取って帰る小野寺くん。

きっと悪い人じゃないと思うけど、それでも茶髪にピアスが3つの彼と業務以外で向き合うのには、すごく勇気が要る。

正面からじわじわ近づいてくる低気圧を肌が感じ取って、帽子の下のネコミミがひくひく動く。まったくもって落ち着かない。

思い切り頭を掻き毟りたい衝動をなんとか抑えた私は、なるべく顔を上げないように歩く。

すると落とした視線の隅っこに、大きくて薄汚れた上履きが映り込んできた。

もちろん自分のじゃ、ない。


思わず顔を上げれば、そこには私を見下ろす小野寺くんが。

「あ」

「あ」

目が合うと同時に、彼も声を上げた。

その瞳が、大きく丸くなる。


車の前に飛び出した子どもが運転手に思いっきり怒鳴られる光景が、脳裏を掠めた。

「――――すっ、すみません」

私は咄嗟に頭を下げた。勢いよく。

頭を上げたはずみで、ニット帽がずれる。

それを直しながら、私は急いで小野寺くんを避けた。

刹那、彼が「あ」と何かを言おうとしたのが聴こえて、隠したネコミミが、ぴくぴくっ、と反応する。

私は彼の視線を背中に感じながら、ぱたぱたとトイレに駆け込んだ。








個室に入って帽子を脱いで、思う存分ネコミミの付け根を掻いた私は、うがいと手洗いもしっかり済ませた。

トイレ前の廊下には、もう小野寺くんの姿はない。

私が小さく安堵の息をついて席に戻ると、なっちゃんはお弁当の横にファッション雑誌を広げて私を待っていた。

「お、おかえり」

「ただいま。

 ごめんね、待たせちゃった」

「いいよいいよ」

見ていた雑誌をそのままに、なっちゃんはお弁当の包みを開く。

私も自分の鞄からお弁当の入った巾着を取り出した。

そして、2人で手を合わせて「いただきます」をする。

出汁巻き卵を口に放り込んだ私は、その味を噛みしめて息をつく。

……こうやってお弁当を食べてる間は、心の中が穏やかで平和になる気がする……。

一瞬でも、頭に生えたネコミミのことを忘れられそうだ。

そんなことを考えていたら、唐突になっちゃんが口を開いた。

「綾乃は、今年は誰かにあげるの?」

何の脈絡もない質問だ。

「何の話?」

私は2つ目の出汁巻き卵に伸ばそうとしていた箸を止めて、小首を傾げた。

するとなっちゃんが、呆れたように雑誌を指差して言う。

「バレンタインだよ。もうすぐじゃん」

あれ、なんか若干教室の中が静かになったような気が。

……まあいいか。

「ふーん……」

指差された特集を見つめて、適当な相槌を打つ。

そこには、可愛いプリントが施された薄いプレート型のものや、面白い形のもの、高級そうな見た目のものなどなど……。

「あ、うちの店にあるよコレ。

 美味しそうだよねぇ」

思わず見かけたことのある商品を指差したら、彼女が大きなため息をついた。

「そういうことじゃなくてさぁ……」

「うん?」

「誰にあげるの、って聞いてんの」

子どもに確認するみたいに言われた私は、手をぱたぱた振って笑う。

何故か知らないけど漂ってきた緊張感を、振り払うつもりで。

「えぇぇ、知ってるでしょ?

 好きな人いないんだから、あげる人もいないって。

 ……あ。なっちゃんには手作りするから、ちゃんと受け取ってね」

「ありがとー。

 じゃあ今年のウチらは、友チョコ交換かぁ……」

私の愛のこもった言葉に、なっちゃんはガックリと肩を落とす。

「……なんだ。

 なっちゃんだって、好きな人いないんじゃん」

そんな彼女を見て、私は小さく噴き出した。



その時だ。

教室の入り口が、にわかに騒がしくなった。


「あ」

視線を走らせたなっちゃんが、思わず、といったふうに声を零す。

それにつられて私も目を遣って、そして、固まった。

「久しぶりに見たかも、小野寺くん。

 退学したかと思ってた」

受験のために髪色を戻す生徒がほとんどの中、彼の茶髪はよく目立つ。おまけに背も高いから、目について仕方ない。

なっちゃんの言葉に曖昧に頷いた私は、さっきの廊下での出来事が思い出されて、目を逸らすようにして伏せた。

そして、ふりかけのかかった白米をひと口。


すると、男子の誰かが久しぶりの小野寺くんを茶化した。

「そっかー、2月はあれだもんな。

 バレンタインがあるから来たんだな?」

こう言ってはアレだけど、小野寺くんは別に皆から嫌われてるわけじゃないのだ。たぶん。だから男子は、ふらっと現れる彼を当然のように輪の中に入れる。

私は横目でちらっと、声のする方を見た。

刹那、あろうことか小野寺くんが小さく笑う瞬間を目の当たりにしてしまった。

咀嚼していた口が、ぴた、と金縛りにあったみたいに止まる。

「違うし。

 次の英語、来なかったら春休み補習に呼ぶって脅されただけ」

無愛想な口調だけど、その声は別に怒ってるワケじゃなさそうだ。

「またまた~」

お調子者の男子が、小野寺くんの腕を小突く。

どうやら彼は、からかわれたくらいでは怒らないらしい。

……知らなかった。


驚いた自分に驚いて我に返った私は、慌ててお弁当に箸を向ける。

「それに、」

小野寺くんの声が響く。

帽子の下で、ネコミミがひくひく動いてる。まるで遠くの音を、一生懸命に拾おうとしてるみたいに。

ネコミミは、お弁当に集中しようとする私の意志を無視して、彼の声を聞き続けた。

「ちょっと、」

小さなカップに入ったエビグラタンに箸をつけたまま、私はちらりと彼を盗み見る。

やっぱり声が聴こえてくると、気になっちゃう……。

すると小野寺くんも、こっちに目を向けた。視線がぶつかって、剥がせなくなる。

思わぬ展開に内心戸惑っている私を見て、彼は顔色ひとつ変えないまま言った。

「……気になることがあったから」




「なんだ、やっぱりバレンタインじゃんか」

私の脳みそがビシっと硬直した瞬間にも、男子の楽しそうな会話が続いていく。

それに参加する小野寺くんの声は、もう聴こえそうになかった。

大好きなはずのエビグラタンの味が、まったくもって分からない。

どうしたんだ、私の舌。


なっちゃんはそんな私を見て、キラッキラした笑顔を浮かべてお弁当を食べていた。









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