2月14日(金) 16:10
「田部さん……!」
携帯からなのか、別のところからなのか。同じ声が2つの方向から同時に聴こえて、私は視線を走らせた。くたりと垂れたネコミミが力なく、ぴくぴく動く。
「――――小野寺くん……っ」
あたりを見回していた私は、曲がり角から走ってきた彼を見つけて声を上げた。
携帯を握り締めていた手を下ろした私の前に、小野寺くんがやって来る。
息を切らせてる彼と目が合って、私は咄嗟に頭を下げた。
「ごめんなさい!
私がうじうじして、ちゃんとしないから……っ」
「や、いいけど……」
小野寺くんは手で顔を扇ぎながら、私の目を覗き込んだ。
「今はその、体は平気?」
肩で息をしてるからなのか、彼の顔がわずかに上下に揺れてる。間近に迫った気配に圧されるようにして、私はちょっとだけ視線をずらして頷いた。
「う、うん……」
じろじろと顔を見つめられて、なんだか落ち着かない。さっきとは別の意味で、鼓動がどんどん速くなっていく。
「……ダメだ、俺じゃ全然分からないや。
何が起きたのか、志乃さんに聞いてみるしかなさそうだな……」
私の緊張とは裏腹に、小野寺くんは真剣そのものだ。
……そりゃあ、体を乗っ取られたなんて聞いたら、驚きもするよね。大騒ぎして、ちょっと申し訳なかったな……。
心の中で独りごちた私は、視線を戻す。
理由はどうあれ、小野寺くんに会えた。怒らないで、来てくれた。
心配そうなカオで私の目を覗き込んでる彼の瞳を、見つめ返す。この目が、ずっと私の方にだけ向いてたらいいのに。
……きっと心臓がもたないだろうけど。でも、それならそれで構わないかも。
そんなふうに考えていたら、ふいに小野寺くんが視線を逸らした。
「……映画は、もういいよな」
ぽつりと呟かれた言葉に、半分夢見心地だった私は我に返る。そして、咄嗟に口を開いた。
「ごめん……」
思わず視線を落としているところに、小野寺くんが言う。小さく笑って。
「いいよ。
なんか分かんないけど、大変だったみたいだし」
どうして笑ったのかが不思議で、私は顔を上げた。すると、それを待っていたかのように彼がマンションのエントランスを目で指す。
「だからまあ、お茶でも飲んでけば」
何が“だから”で“まあ”なんだ。
唐突なお誘いに、私はきょとんと小野寺くんの顔を見つめ返した。
「え」
ぽかんと口を開ければ、そんな私を彼が鼻で笑う。
小馬鹿にされた感に思わず突っかかろうと息を吸い込んだ瞬間、小野寺くんが自転車のカゴから私の鞄をひょい、と持ち上げた。
「ちょっ……」
何するの、と言おうとした私の手が、ぐいっ、と引っ張られる。
「ほら、とっとと歩くー」
なんだなんだ、と口をぱくぱくさせているうちに、引く力に逆らうように踏ん張っていた足が、たたらを踏んで歩きだしてしまう。
なんでこう、たまに強引なんだろう小野寺くんは。
調子を狂わされた私は、咄嗟に息を吸い込んだ。
……でもちょっと待て、私。
手を引かれてる女子高生が大声なんて出そうものなら、一発アウトだ。通報されて、駆けつけたお巡りさんから事情を聞かれて。小野寺くんの外見も外見なんだから、きっといろいろ問題が……!
それはダメだ。小野寺くんは3年生になる気があるんだから。
瞬時にそんなことが頭の中を駆け巡った結果、私の口から囁くような抗議の声が上がる。
「小野寺くんっ」
だけど彼は小さな声で喚いた私を見て、口の端を持ち上げた。切らせていたはずの息もすでに整っているのか、ずいぶんと歪で意地悪なカオをして。
「お茶でも飲みながら、何があったのか聞かせてもらおうか。
約束すっぽかしたんだもんな。それくらい許されるよな」
そのひと言に、私は顔を引き攣らせた。
なんかもう、いっそ大声で叫んでみるのとかどうだろう。
オートロックを解除した小野寺くんは、エレベーターホールに向かって歩いていく。もちろん私の手は捕まったままだ。引っ張られるから、とてて、とおかしな足音が響いてる。
ボタンを押せば、3つ並んだエレベーターのうち私達から一番遠い場所のそれのドアが開く。小野寺くんは何も言わずに私の手を引いた。
「あ、ちょっ……」
ぶんっ、と勢いよく、荷物を投げ入れるようにしてエレベーターに乗せられて、たたらを踏んで壁に手をつく。あ、あぶなかった。おかげで手は自由になったけど……。
私は目の前に迫った壁に詰めていた息を吹きかけてから、勢いよく振り返った。ここでなら、それなりに大きな声を出したって大丈夫なはずだ。
映画を見れなくなって苛々するのは分かるし申し訳ないけど。だからって力任せに、っていうのはちょっと酷いんじゃないですか。
「おので――――」
ところが、だ。
きっ、と目つきを険しくした私から、声が奪われた。
小野寺くんの背後で、エレベーターのドアが閉まっていくのが見えた。チン、という軽い音が聴こえるのと同時に足元から、ふわりと浮遊感が迫ってくる。
何階のボタンを押したのかを見たいけど、小野寺くんから視線が逸らせない。いつかと同じ、すっと細めた目が私を射抜いてる。
彼は持っていた私の鞄を床に置いて、一歩踏み出した。
高層マンションのエレベーターは速いはずなのに、一向にドアが開く気配がない。上に向かってると体感で分かるのに。世界から切り離された箱の中に、小野寺くんと2人きり閉じ込められたような気分だ。
「ウジウジって、何のこと?」
やっぱりまだ怒ってる……!
真剣なカオで詰め寄ったきた彼を見て、私は心の中で呟いた。心臓が変なリズムを刻んで、血液が逆流してるのかと思うくらい体が熱い。
「あ、あの……」
何か言わなくちゃ、と言葉を探すけど上手くいかない。
視線を彷徨わせた刹那、小野寺くんの握りこぶしが私の顔の斜め上を通っていった。思わず目を瞑った私は、トン、と勢いの割に優しい音が耳元で響いたのを聞いて、そっと瞼を持ち上げる。
おそるおそる視線を上げれば、すぐ傍に、それこそ彼の目の中に入ってるコンタクトレンズが見えるほどの距離に、強い眼差しが。
学校で別れたあと、小野寺くんは家に帰って着替えたらしい。彼の腕や肩口から、いい匂いが漂ってくる。
気づけば私は、その匂いに誘われるように口を開いていた。
「バレンタインだから……」
「――――それが?」
ぽつりと、囁くように紡いだ私の言葉を食いちぎるみたいに。小野寺くんは冷たい、氷の塊のような声色で囁いた。
「それがどうしたって?
ここに来る前にチョコ渡して、振られでもした?」
うっすらと自嘲めいた笑みを浮かべた彼が、私の髪のひと房を指に絡めた。くるくると円を描くように髪と戯れる。
「あの日と同じ、髪くるくるさせて……。
学校出たあと、誰のとこに行ってたんだよ。
今日は俺との約束があったんじゃねーの」
小野寺くんが、髪を巻いたことに気づいてくれてた。それはすごく嬉しくて、ちょっとした自信にもなりそうなのに。
私は彼の言葉に、息を飲んだ。
きっと小野寺くんは私が“忘れ物をした”振りをして、誰かにチョコをあげてたと思い込んでるんだろう。それで、玉砕してウジウジしてる間に、ネコミミが勝手に私の体を動かしたんだと……その結果、映画に間に合わなかったんだと。
たしかに、それっぽい展開ではあったけど。
……でも。玉砕したんだとすれば、それは小野寺くんに……なのに。
思い至った私は、小さく首を振る。
「違うの」
小野寺くんの勘違いだ。私が“誰かに告白するために小野寺くんとの約束が邪魔だった”んじゃないのに。
緩やかに巻いた髪が、小野寺くんの指からするりと抜ける。
「学校出たあとは、なっちゃんと……公園に……」
「は……? 谷村と……?」
訝しげなカオをした彼に、私は遠慮がちに頷いた。大きく頷けば頭がぶつかるくらい、彼の顔が間近にあったから。
体の浮遊感が、ゆっくりになる。もうすぐ目的の階に着くのかも知れない。
「背中、押してもらいたくて」
話を続けても、小野寺くんは何も言わなかった。冷たくなった手を握り締めた私は、視線を彷徨わせた。これを言ったら、昨日までみたいには笑えないかも知れない。でも、言わなくちゃ小野寺くんの誤解が解けない。
一瞬のうちに考えを巡らせた私は、勢いに任せて口を開いた。
「だ、だって……聞いちゃったから!
本命からのチョコ以外は、いらないって……!」
思い切って言った私を見て、小野寺くんは顔をしかめた。
この距離でそのカオは、ものすごく怖い。
「……誰が」
小野寺くんの視線が痛くて怖くて、私は両手で顔を覆った。だって、直視してたら絶対言えない。怖いし恥ずかしいし、発狂しそうだ。
顔が燃えるように熱い。手のひらが冷え切ってるからなのか、顔が真っ赤になってるからなのか……もうどっちでもいいや。
心臓は口から出そうだし、唇がカサカサしてる。顔から火が出そう。
小野寺くんから、いい匂いがする。こんなに近くで言って大丈夫なのかな。
エレベーターから降りたら、すぐに別のエレベーターに乗り込んで帰ろう。もしくは頑張って階段で下りよう。そうしよう。それなら泣いてても、誰にも見られないでエントランスまで戻れるかも知れないし……。
「――――――お……っ、小野寺くんです……!」
両手で顔を覆ったら、小野寺くんが見えなくなって。それが良かったのか悪かったのか……気づいた時には、私は熱に浮かされるようにして唇を動かしていた。
「え、俺……?!」
動揺しか含まれてない声が、少し離れたところから聴こえてくる。
私はそれに頷いて、覆ったままの顔を伏せた。
「だから私っ……その、小野寺くんがチョコ……っ」
どうしよう、どうしようどうしようどうしよう……!
もう言っちゃうしかない。言わないと終われない。せっかくここまで来たんだから、ここで言わなかったら絶対後悔する。言わなきゃ。
ほら、言え綾乃!
「え、田部さ」
「――――ごめんなさい。
小野寺くんのことが好きなの……!」
い、言っちゃった……。
頭も胸も、どっちも空っぽだ。なんにも残ってない。出し切った感がすごい。
押し殺した声で言い切った私は、爆弾のカウントダウンでもしてたんじゃないか、っていうくらいに体を強張らせていた。
自分の心臓の音とエレベーターの到着を知らせる、チン、と嫌味なくらいに軽い音が、脳に直接響いてくるみたいに聴こえる。
かぁぁぁ、とさらに熱の上がった顔から両手を離すことが出来なくて、呼吸困難になっちゃいそうだ。なんかもう、このまま意識が遠のいてくれた方が楽になれる気がする……。
私はドアが開いた気配を感じ取って、がばっと両手を離した。
万が一、マンションの住人がドアの向こうでエレベーターを待ってたとして、こんな不審な女子高生が乗ってたら驚くに決まってる。
眩しさが目に沁みて、冷えた空気が頬を掠めていく。
ぱちぱちと瞬きをした私が見たのは、ドアの下に私の鞄を置く小野寺くんの姿だった。自分が置かれた状況が、一瞬頭の隅で小さくなる。
一体何をしてるんだろう。
てゆうか、その鞄には小野寺くんに渡したいものが、今日1日を通してずっとスタンバイしてて、ですね……。ああそうか、もういっそのこと鞄ごとチョコをどうにかしてやろう、っていう……そういうことですか。言ってもらえれば、ちゃんと自分で持って帰って弔いますから……。
私がどんより肩を落とした瞬間、小野寺くんが振り返った。
小さく息を飲んだ私と、口元を押さえて耳を真っ赤にした小野寺くんの目が合って。
ほんの刹那の間のはずなのに、ばっちり見つめ合った私はあまりの気まずさに、思わず視線を落とした。
すると小野寺くんのスニーカーの爪先が、視界に入ってくる。
「――――鞄、ちょっと使わせてもらった」
「な、何に……?」
それこそ憑き物が落ちたみたいに静かな声に、私は戸惑いながら言葉を返す。
「あそこに置いとけば、センサーが働いてドアが閉まらないから」
「そ、っか……」
よかった。エレベーターで鞄ごとギロチンされるのかと思った……。
ところが、ほっとしたのも束の間、息を吐き出した私の脳裏に、今度は“公開処刑”の4文字が浮かぶ。鞄は無事だけど、ドアが開いてるということは偶然通りかかった住民の前でぶった切られる可能性が残る、ということだ。なんてこった。
……どっちみち、傷つく覚悟をしなくちゃいけなかった、ということなんだろう。好きな人に告白するって、たぶんそういうことだ。
「田部さん」
ぐるぐると考えを重ねて呼吸することも忘れていた私は、小野寺くんに呼ばれて、はたと現実に戻ってきた。
「はい……」
口から出た言葉は、もう戻らない。私は壁に背を預けたまま俯いて、静かで穏やかな声に宣告されるのを、じっと待っていた。
きつく握り締めた手に、爪が食い込んで痛い。痛くて、これは現実に起きていることなんだ、と実感せざるを得ない。
すると小野寺くんの手が、ぽふ、と私の頭に乗った。疲れ切って萎れたネコミミくんを、押し潰さないように避けてくれる。
こんな時まで優しい。やっぱり好きだ。小野寺くんのこと。諦めなくちゃいけないのは、すごく辛いけど。
そんなことを考えて、鼻の奥がツンと痛くなった時だ。小野寺くんが、ちょっとだけ笑って口を開く気配がした。
「……実はさ、ガトーショコラ作ってあるんだけど」
「はい……?」
いよいよ宣告されるんだと身構えていた私は、あまりに意表をつかれて、ぽかんと口を開けて小野寺くんを凝視した。
もしかして、なけなしの勇気を振り絞った告白、なかったことにされてるの。
ショックに言葉を失った私を見て、彼はまた小さく笑った。
「いや、ちょっと待て。
話は最後まで聞けって」
楽しそうなカオが、すごく残酷だ。涙が出そうだ。
歯を食いしばってぷるぷる震え始めた私の頬を、小野寺くんの両手が包み込む。
……だからもう、優しくしなくていいのに。こんなの我儘だけど、小野寺くんの手があったかいことなんか、知らなきゃよかった。
言いたいことはあるけど、それを伝えるだけの勇気はもうない。出し切ったから、すっからかんだ。
「何の話ですかー……」
私は言葉に棘を含ませて、チクチク小野寺くんに仕返しする。残念ながら、もう顔を直視なんか出来そうにない。視線を落とす。
だけど彼は、そんな私の様子なんか気にするふうもなく話を続けた。
「俺も用意してあんの。チョコレート」
そこまで言って、小野寺くんは言葉を切る。そして、視線を落としたまま仏頂面をしていた私の顔を、ぐいっと持ち上げた。
「別に、今日にこだわってたワケじゃないんだけどさ。
チョコつけたら、田部にゃん喜ぶかと思って」
無理やり上がった視線が、彼の顔を捉える。見るつもりのなかった小野寺くんの顔には、荒んだ私でも見惚れてしまうくらいの、甘い笑みが浮かんでいた。
だから私は、思わず息を飲んで。この期に及んで、心臓が正直に音を立てて。この目は、彼の唇が言葉を紡ぐ様子を、瞬きもせずに見つめてしまう。
「付き合って。
俺、田部さんの彼氏になりたい」




