2月14日(金) 15:57
「もう……他人事だと思って……」
“当たってこい”だなんて。言うだけなら、簡単だよね。
……まあ、ここが頑張りどころなのは私もよく分かってるんだけどさ。
そんなことを考えた私の口から、溜息が突いて出た時だ。
なっちゃんが、おもむろに立ち上がって私を振り返った。
「ほら、そろそろ行こ」
苦笑混じりの彼女が、携帯の画面を私に見せる。そこには時間が表示されていた。
午後3時46分。小野寺くんとの約束の時間まで、あと14分だ。
……小野寺くん、もうチョコもらったのかな。
自分でそうなる可能性を広げたくせに、実際にそうなってたらどうしよう、と想像して胸が苦しくなる。
縮んだ心臓を深呼吸して解していると、なっちゃんが私の肩を叩いた。
「ま、あんまり深刻に考えないでさ、まずは映画を楽しんでおいでよ。
せっかく髪も巻いたんだし。
……で、ちゃんとチョコ渡しなよね?」
「うじうじしてると、チャンスを逃すぞ」と言い残したなっちゃんは、高橋古書堂に向かうべく公園を出て行った。今にもスキップしそうな軽やかさで。
その背中を見送った私は、もう一度溜息をついた。なんかもう、このまま気力と幸せと前向きさが、溜息と一緒に空に消えていきそうだ。
軽く頭を振った私は、飲み終わったカフェオレの缶を地面から拾い上げて立ち上がった。自販機の横の回収ボックスの丸い穴に空缶を落とすと、カラン、と軽い音が響く。
停めておいた自転車のカゴに鞄を入れて、手袋を嵌めた手でハンドルを握る。そして後ろにくっついてるストッパーを、足で蹴り上げて外す。
「……ふぅ」
ひとつ息をついた私は、意を決して自転車に跨った。向かうのは駅前の映画館だ。
片足をサドルに乗せて、息を吸い込む。そのままそっと瞼を閉じて、私は誰にも聴こえないような小さな声で囁いた。
ネコミミを意識すれば、ひとりじゃない気がして。
「ちから、貸してね」
祈るような、おまじないをするような気持ちになった瞬間。
公園内の葉の落ちたはずの木々が揺れて、音を立て始めた。その音は特に強風が吹いたわけでもないのに、ざわざわと耳障りな響きを持って広がっていく。
「え、なに……?!」
私は思わず首を竦めて、その異様な音が収まるのを待った。
すると、ふいにネコミミがニット帽の中で、ぴーん、と空に向かって張り詰める。同時に、私の背中に異変が起きた。
「いっ……つぅっ……!」
攣ったような、我慢出来ないほどじゃないけど平気でもないくらいの痛みが、ぴーん、と背中を駆け抜けていったのだ。
もう頭の中がパニックだ。何がどうしてこうなったのか、さっぱり分からない。分からないけど、とにかく地味に痛い。
「つ……っ!
小野寺くん……!」
背中がやられて自分の意思で思うような身動きが取れなくなってしまった私は、小野寺くんとの約束を思い出した。きっと彼は映画館の前で待ってる。
このままじゃ約束をすっぽかしたことになっちゃう……!
私は携帯を取り出そうと、手を――――伸ばせなかった。
「く、ぁ……っ?!」
呻き声が、口から零れ落ちる。
私はもう一度携帯を取り出すために、ハンドルを握る自分の手を動かそうとした。だけど、いつも無意識に動かしているはずの自分の手は、一向に動く気配がなくて。
私は愕然と、自分の手を見つめ続けるしかなかった。
どれくらい経っただろう。ぴたりと不自然な音が止んで、私は生唾を飲み込んだ。
ハンドルを握った手は、今も石になったみたいに微動だにしない。背中の攣った感じはなくなったけど、一向に手も腕も自由にならないままだ。
どうなっちゃったんだ、私の手。もしかして、金縛りってやつだろうか。
「と、とりあえず下りて……」
手を離すことから意識を切り替えた私は、自転車を押して映画館に向かうことにした。走れば間に合う。小野寺くんに会いさえすれば、なんとかなるような気もする。
……ところが、である。
「えぇぇ……?!」
私の口から、情けない声が零れた。
足が、お尻が、手と同じく自由に動かせなくなってしまったのだ。瞬間接着剤でも仕込まれてたのかと思うくらい、びくともしない。
奇妙なことにも恐怖なことにも遭遇してきたけど、今回のは不思議だ。危険を感じ取ったネコミミが倒れるでも震えるでもなく、ただ空に向かってぴーんと伸びてる。力んでるみたいに。
そのネコミミが、ぴょこんぴょこん、と忙しなく動きまくる。私のことを助けようとしてくれてるんだろうか。
そんなことを考えた、次の瞬間。
「え、わっ……?!」
動かせなかった足が勢いをつけるようにして、ぐいっと地面を踏みしめて、蹴った。その足は役目を終えたのか、ペダルの上に着地する。もちろん、私がしようと思ってしてるわけじゃない。
のろのろ、と進んだ自転車が、がくがく左右に揺れ始めた。
早く漕がないと倒れちゃう……!
手も足も動かせないのに倒れたら、きっと顔からいくにきまってる!
ずざざざー、と顔面を削られる場面を想像した私は、鳥肌を立てて慄いた。
すると私が、ひっ、と息を吸い込むのと同時に、もう片方の足がペダルを漕ぎ始めた。がくがく揺れていた自転車が、少しずつ勢いを増して安定していくのが分かる。
最初のひと漕ぎが上手くいったのか、自転車は、すぅーっと走り出した。時折ハンドルが揺れるけど、それでも倒れるよりはずっとマシだ。
「あ、あぶな……」
転倒の危機が遠ざかったのを感じて胸を撫で下ろした私は、自転車が大きな通りに出た瞬間に、はたと我に返った。
……私は一体どこに連れていかれるんだろうか、と。
ネコミミが、ぴょこんぴょこん、と前に傾いでは空に向かって伸び、を繰り返している。私の体が勝手に自転車を漕ぎ始めてから、休むことなくだ。
「ちょ、っと……?!」
途切れ途切れの声で呼びかける。
自分の体が向かっている場所に気づいて、私はひとつの結論を導き出した。これはきっと、ネコミミの仕業に違いない、と。
よく考えたら、朝家を出る時に話しかけたんだ。“力を貸してね”と。しかも、公園でも似たようなことを言った覚えがある。
そして、自転車を漕ぐ足に合わせるように動くネコミミだ。もう金縛りでもなんでもなく、やる気に満ちたネコミミの仕業以外には思えない。
……だけど、だけどさネコミミくん。これは方法が間違ってると思うんだ。
「も、わか、った、から……っ」
休むことなく一定のリズムでペダルを漕がされて、息も絶え絶えだ。私の体を動かしているのがネコミミくんだとしても、実際に疲れを感じるのは私自身である。正直、もう心臓が破れそうだ。
勘弁して、と懇願しても、ネコミミくんは私の足を動かし続ける。
……もしかして、自分で漕げるのが楽しくてしょうがない、とか。
無我夢中で漕がされているような気分になった私は、そんなことを考える。
「く、はっ……はぁっ……」
もう言葉を紡ぐのも苦しい。
私は呼吸をすることだけに集中することにして、目の前に近づいてきた、このあたりでは高層の部類に入るマンションを見据えた。
見覚えのあるマンションのエントランスの少し前に辿りついた瞬間、体中から何かが剥がれ落ちたみたいに力が抜けた。
「わっ……?!」
ペダルが止まった自転車は、徐々に勢いを失ってがくがくと揺れ始めた。自分でハンドルを握ってる感覚がなかったから、急に自由が戻ってきて慌ててしまう。
ネコミミが、くたりと元気を失った。
……だから止めたのに……。
胸の中で苦笑混じりに呟いた私は、ぐったり疲れた体に気合いを入れて自転車のブレーキを握り込む。そしてスピードを落として、邪魔にならなさそうな場所に寄せて自転車を停めた。
自転車から下りて、鞄の中から携帯を取り出す。真っ黒な画面を見て、溜息をつく。もう時間を見るのが怖い……。
小野寺くんが、4時に映画館の前で待ってるのだ。4時15分からのコメディ映画を見よう、っていう約束で。
私はボタンの上に置いた指先に力を込めた。
「3時、57分……?!」
私は視線を彷徨わせて考える。
今からダッシュで向かえば、4時には間に合わないけど映画には間に合うかも。滑り込んで、なんとかなるかも。その時は怒られるかも知れないけど、でも約束をすっぽかしたことにはならないかも。
「よし……!」
握りこぶしを作って、気合いを入れる。そして携帯を鞄に放り込んで、ハンドルに手を伸ばした時だ。
ふいに携帯の着信音が響いて、私は慌てて鞄を開けた。
……小野寺くんだ。小野寺くんから電話がかかってきた。
“小野寺くん”の表示を見た瞬間に、息を飲む。頭が真っ白になる。動悸がして、手が震えてきた。きっと私が現れなくて苛々してかけてきたんだ。
どうしよう。どうしようどうしよう。
あわあわと右往左往した私は、意を決して通話ボタンを押した。
「も」
『――――今どこ?』
もしもし、と言いかけた私を遮るようにして、低い声が飛んできた。
……ああほら、やっぱり怒ってた……。
がっくりと肩を落として、私は息を吐き出した。
『なあ、今どこにいんの?』
矢継ぎ早に、心の準備をする間もなく彼の声が耳に飛び込んでくる。こういう時の小野寺くんを1秒でも待たせるのは火に油を注ぐようなものだ。怒り爆発、頭を掴まれて揺すられるに決まってる。
嫌な思い出がぶり返して、私は慌てて口を開いた。
「あ、あのっ」
言いかけて、はたと我に返る。
……この事態、一体どう説明すればいいの。
口ごもってしまった刹那、小野寺くんが溜息をつく気配が流れてきた。
『断られるなら、もうちょい分かりやすい方が嬉しいんだけど』
「断る……?」
彼の言葉を、思わず聞き返す。
少しの間、沈黙が落ちる。小野寺くん側に流れる雑音……行き交う人のさざめきが、私から考える力を奪っていく。
断るって、一体誰が何を……?
よく分からなくて眉根を寄せた時、小野寺くんが言った。
『だから……。
他に予定があるんなら言えばよかっただろ』
「え……」
『もういいよ』
頭をガツンと殴られたような衝撃に、目の前がチカチカする。息が出来ない。自分の心臓の音しか聴こえないよ、小野寺くん。
――――今の、なに。
『悪かったな、せっかくのバレンタインに時間取らせて。
明日の、志乃さんとの約束はウチ使ってくれて構わないから』
冷えた声が、『じゃ』と追い打ちをかけてくる。
ぷつ、と通話が切れる予感に、全身が総毛立つ。嫌だと思う気持ちに突き動かされるまま、私は咄嗟に唇を動かしていた。
「――――ちがっ……!
まって、待って小野寺くん!
わっ、わたし今っ、小野寺くんの……っ、ネコミミが勝手に!」
何を言ったのか、自分でもよく分からない。でも、気づいた時には何かを言い終わっていて。私は鼻の奥が、つん、と痛いのを必死に堪えていた。
ゆるゆると息を吐き出して、鼻の痛みをやり過ごす。
その時携帯から、困ったような、ふわっとした声が聴こえてきた。
『……あー……っと……』
「お、おのでらくん」
若干の涙声を気取られないように、私は小さな声で呼びかける。
『ん』
小さく頷く声。
自分の声がちゃんと届いていたらしいことに安堵して、私はほっと息を吐き出した。
『とりあえず、全然意味が分からんかった……。
悪いけど、ちゃんと事情を聞かせて』
携帯の向こうに、沈痛な面持ちをした小野寺くんの姿が見えるようだ。私は視線を泳がせてから、「ごめんなさい」とだけ呟いた。
「私、小野寺くんの家の前に来てて」
正直かつ分かりやすく事実を伝えた瞬間、携帯の向こうが沈黙する。一瞬だけ、息を吸い込むような気配があったような気はするけど。
『……はぁ?!』
溜めていたらしく、声を発した小野寺くんはそのまま一気に喋り出した。
『あのなぁ、俺は映画館の前に4時だ、って……!
つうか、何してんだようちの前で』
……うん、あの、その疑問は私も感じてます。
素っ頓狂な声を出した途端に怒り爆発の小野寺くんに平謝りするつもりで、私は息を吸い込む。
「ネコミミくんに体を乗っ取られて、ここに連れて来られちゃったの。
連絡しようと思ったけど、体が動かなくて……」
信じてもらえるかどうかは、分からないけど。
緊張に吐息が震える。
「ごめんなさい……!」
嫌いにならないで、と祈るような気持ちで告げたのとほとんど同時に、沈黙していた小野寺くんが口を開いた。
『――――分かった。
今からそっち行くから、電話このままで待っとけ』




