2月14日(金) 15:40
「えっ……えぐっ……うっ、うぅっ……!」
しゃくり上げる声が、隣の個室から聴こえてくる。
……ああもう、なんだこれ。
私がトイレの個室に駆け込んだすぐあと、隣の個室のドアが勢いよく閉められた。ばたん!……という音にネコミミがびっくりして、私の頭の中に音がぐわんぐわん響いて。
実際それだけで手の震えは止まったけど、今度は別の意味で震えがきた。
ただでさえショックな場面に遭遇してしまったというのに、なんでまた失恋したての女子の嗚咽をこの距離で聞かなきゃいけないんだ……。
内心でだけど、やるせない気持ちと一緒に盛大な溜息が出てしまった。
タイミング的に、きっと小野寺くんにチョコを渡そうとして玉砕したあの女子だ。
こうなると出るに出れない。もう帰りのHRが始まる頃合いだというのに、隣の女子は出て行く気配がない。
私が遠慮して缶詰になる義理はないけど、なんだか気まずい。
だからって個室にこもって女子の嗚咽を聞き届けるのも、やっぱり気まずい。
困った。心底困った。気まず過ぎる。
気まずいといえば……。
私はまた、内心で溜息をついた。
そう、気まずいといえば、小野寺くんだ。
チョコは渡したい。けど、受け取ってもらえなかったら、明日どんなカオをして、志乃さんとの約束に臨めばいいんだろう。
隣の個室から、「えぐえぐ」と嗚咽が響いてくる。
敬語を遣ってたから、もしかしたら1年生かな。小野寺くんのこと、こんなに泣いちゃうくらい本気で好きだったんだろうな……。
私は勉強道具を胸の抱えたまま、天井を仰いだ。
「どこ行ってたんだよ」
自分の席につくなり、どこからか小野寺くんがやってきた。
いや、やってきたというよりは彼も自分の席に戻ってきただけなんだけど。……どこから戻ってきたのかは、敢えて考えないようにしよう。そうしよう。じゃないと精神的にダメージを受けて、笑っていられなくなる。
胸の中で号泣し続ける女子に同情しつつも、結局私はトイレから脱出した。そして、嫌な予感と気まずさで動悸を感じながら教室に入ったわけだけど……。
小野寺くんは何もなかったかのように、私の顔を覗き込む。むしろ、私がこの席に座っていなかったことにご立腹かも知れない。そんなカオしてる。
真っ直ぐな視線が、チクチク痛い。
打ち解けてから何回もされてる仕草なのに、どうしようもなく後ろめたい気持ちが強くて。私はなんとなく視線をずらした。
「……えと、トイレ……」
口ごもりつつ言葉を選べば、彼が気まずそうに口ごもる。
「え、あ、そっか……お疲れ……」
「お疲れ……?」
なんだそれ。
思わず口を突いて出た私の言葉に、小野寺くんは乱暴なくらいの勢いでペンケースを鞄に放り込んだ。ぼすっ、とほぼ空っぽの鞄が音を立てる。
「う、うるせーし。
それより、今日どうするか考えたのかよ」
そのひと言に、今度は私が固まった。
「あ――――」
手で口を押さえた私に、小野寺くんが溜息をつく。
打ち上げは嬉しいけど、今日はいろいろとそれどころじゃなくて……なんて、絶対に言えない私は、動揺を隠せずに視線を彷徨わせた。
「えと、小野寺くんが行きたいとこは……?」
「え、俺?
俺は……ええと……」
問い返したら、小野寺くんが戸惑いながらも考え始めた。「映画も最近見てないんだよなー」なんて、割とのん気なことを言いながら。
ひくっ、と頬を引き攣らせた小野寺くんが、無理やり笑みを浮かべたようなカオで私に言った。
「じゃあ、映画館の前な」
「うん、ごめんね」
眉を八の字にして頷いた私は、足早に教室を出る。
帰りのHR中、ふと思ったんだ。もしこのまま小野寺くんが私と出かけてしまったら、彼が本命のコからチョコをもらう機会を奪ってしまうんじゃないかと。
それに気づいた私は、目の前が真っ暗になった。
それから考えに考え抜いて、「忘れ物をしたから、映画館で待ち合わせにして欲しい」という言い訳を思いついたわけだ。
小野寺くんは「一緒に行けばいいんじゃねーの」なんて、眉根を寄せてたけど……結局別々に向かうことになって。
なっちゃんにはメールを打っておいたから、きっと下駄箱のあたりで待っていてくれてるはずだ。彼女も早く彼氏さんに会いたいだろうから、待たせるわけにはいかない。
教室を出て、階段に向かう。
その時だ。背後から、声が飛んできた。
「――――田部綾乃!」
矢のような鋭さで耳に飛び込んできたその声は、小野寺くんのものだ。
私は咄嗟に後ろを振り返る。スカートの裾が翻った。
彼が、教室のドアの所からこちらを見てる。
目が合ったほんの一瞬、緊張が走って。そして私が口を開くより早く、小野寺くんが言った。
「遅れんなよ」
言葉を紡いだ彼の表情に、私は言葉を失った。
あんなに楽しそうに、どこに行くか話してたのに。どうして急にそんなに真剣な、思い詰めたようなカオをするの。
「……うん。急いで行くね」
小野寺くんの態度に違和感を感じつつも、私は頷く。すると彼は硬かった表情をいくらか和らげて、口の端を持ち上げた。
カラカラカラ、と小さな音を立てて自転車の車輪が転がる。その軽快な音とは真逆に、私の足取りはこれ以上ないくらい重たい。
それに追い打ちをかけるようにして、なっちゃんが溜息をつく。聞こえよがしに、ものすごく盛大に。
「あんたほんとに、何やってんのー」
額を押さえて沈痛な面持ちをした彼女に、私は俯いたまま呟いた。
「……だって」
規則正しい間隔で鳴っていた音が、ばらばらになる。
「小野寺くんが……」
消え入るような声だったはずなのに、なっちゃんはしっかり聞き取っていて。がっ、と勢いよくサドルを掴んだ。途端に、がくん、と自転車が揺れる。
自転車と一緒に足元がふらついた私に、彼女は思い切り息を吸い込んでから言った。
「それはもう聞いたっつーの!
小野寺が告白されてるの聞いちゃった、ってのも!
あいつが本命からしかチョコを受け取らない、ってのも!
だから待ち合わせにした、ってのも全部聞いた!」
……そんなに怒ることないと思う。
思わず口を尖らせた私を見たからか、なっちゃんの声が低くなる。
「いやもう分かるけど。気持ちは分かるよ振られたら嫌だもんね。
だからって、だからってさぁぁぁ……!
なんでハイエナどもにチャンスをくれてやんのよあんたは……!」
がくんがくん、と自転車を揺らされて、私の足がたたらを踏む。
「あっ、わっ……!」
「どんだけアホなの、どんだけお人好しなの、どんだけ天然なのよ?!」
「なっちゃ……っ!
あぶなっ……」
ハンドルを力いっぱい握りしめて、私はなっちゃんの怒りが通り過ぎるのを待つ。結構な感じで罵倒されてる気がするけど、もうこの際それは聞き流すことにしよう。反対側の通りを歩いてる人が、こっちを二度見してるけどもうそれも無視だ。無視。
「そこがいいとか聞かされてたあたしの身にもなれっつーの!」
嵐をやり過ごそうと、暴風にされるがままの木のように立っていた私の耳に、よく分からない台詞が飛び込んでくる。聞き取れたけど意味を掘り下げたら、また怒られるような気がするから放置しておこう。触らぬなんとか……っていうし。
「ああもう苛々する……っ」
押し殺した声に、さすがの私も慌てふためいた。これはもう、強風になびく木のように立ってるだけじゃダメだ。
「あ、あのなっちゃん……っ。
座ってお話しませんか……?!」
近くの自動販売機で買ったカフェオレのプルタブを開ける私の横で、なっちゃんが深い息を吐き出している。ちょっとは落ち着いたんだろうか。
「ふー……」
ネコミミが生えたての頃に独りぼっちでぼんやりした公園のベンチに、今日はなっちゃんと2人で腰掛けてる。
足止めしてるお詫びに奢ったカフェオレを、なっちゃんが勢いよくあおった。喉が鳴って、ぷはぁっ、と息をつく。
……これって、そういう飲みものじゃないよね。たぶん。
言うと怒られるのは分かり切ってるから思ったことは胸の内に留めて、私はこっそり彼女の顔色を窺った。その穏やかなカオから、もう怒ってはいないみたいだと見当をつける。
「もうちょい自信持っていいと思うけどなぁ……」
ふいに口を開いた彼女に、私は小首を傾げた。
「どうして……?」
だって、私なんかより可愛い子はたくさんいるから。頭のいい子もスタイルのいい子も、運動神経のいい子なんて比べたら申し訳ないくらいだ。
ちなみに家事力なんかで比べたら、雲泥の差で負ける自信がある。悲しい。
「どうして、って……」
なっちゃんが、カフェオレの缶を地面に置いた。
「なんとも思ってなかったら、神社デートなんかしないでしょうよ」
そう言った瞬間、彼女が口を押さえて息を詰める。
思い切り視線が泳いでるけど……。
「神社デート……」
彼女の様子が変だと思いながらも、その口から飛び出した言葉の通りに自分の唇を動かした私の目が、点になった。
「――――ん?」
「あ、はは……」
首を捻った私の隣で、なっちゃんが乾いた笑みを浮かべる。
「あれ、その話……?」
記憶を手繰り寄せながら言ってみれば、彼女が視線を逸らす。
そこでようやく、私は気がついた。
「誰から聞いたの……?!
私、誰にもそのこと話してないよ?!」
思わず詰めよった私に、なっちゃんが体を引いた。
「いやだって綾乃、全っ然小野寺とのこと話さないからさ~。
気になって、ちょこちょこ探りを入れてたんだよねぇ」
悪いことをしてる自覚があるのか、彼女は私と目を合わせない。
これは黒だ。真っ黒だ。形勢逆転である。
探りってなんだ。何を隠してるんだ。
お互いのことを信頼してるからこその、干渉し過ぎない私達なのに。まったくもって、なっちゃんらしくない。
むっ、とするよりも気になる気持ちの方が大きい私は、不思議に思って呟いた。
「……探りって、誰に」
「えっと、カレと……お」
返ってきた言葉に、目が点になる。
カレって、彼氏さんのことだろうか。
「――――え、あの、なっちゃんの彼氏さんは、探偵か何か?」
考えつく中で私の素行を知り得そうな職業を言ってみるけど、それは一笑に伏された。別にふざけたわけじゃないのに、そんなに笑うことないと思う。
なんかもう温かいカフェオレと、よく分からない恥ずかしさで体がぽかぽかする。北風の冷たさなんか、全然感じなくなってる。
思わずジト目でなっちゃんを見つめたら、彼女が手をぱたぱたさせて言った。
「あたしのカレ、綾乃も知ってると思うよ」
「……そうなの?」
熱くなった顔に冷たい手のひらを当てて、私は眉根を寄せる。だって、全然思い当たらないのだ。校内の誰かなら、きっと普段から一緒にいるだろうし……。
考えを巡らせていると、こくん、となっちゃんが頷いた。その緩んだ頬には、でれでれの照れ笑いが浮かんでいる。
「……諒さん、なんだけど」
俯いてぽつりと呟かれた言葉に、私は絶叫しそうになった。
「えっ、えぇぇぇっ……?!」
一瞬出てしまった大きな声を飲み込んで、小声で叫ぶ。すると彼女は、赤くなった頬を両手で押さえて上目遣いに私を見た。
……か、可愛いねなっちゃん……。
「あの、小野寺くんがバイトしてるお店の?
高橋古書堂の店長さん?」
思わず乙女ななっちゃんに見惚れそうになりつつも、私は動揺を隠しきれずに声を震わせた。世間て狭い。
彼女は消え入りそうな声で話し始めた。
「初めて見かけたのが、そこのコンビニなのね。
格好いいな、と思って、毎日目で追いかけるようになって……」
恥ずかしさからなのか、なっちゃんはすごい早口で捲し立てていく。
私は、その一語一句を聞き洩らさないように耳をそばだてた。
「……で、ある時コンビニで予備校のおやつ買ってたら、たまたま見つけたの。
カレと同じエプロンしてる男の子。
……それで話しかけて、古書堂の店長さんだって聞き出して。
それからは、いろいろと協力してもらって……」
「――――ストップ!」
一気に馴れ初めを語り切ろうとしていた彼女の言葉を、私は思い切って遮った。
なんか今、聞き捨てならない台詞があったよね。
こめかみを指で揉みつつ、私はなっちゃんを見つめた。
なんか嫌な予感がする。ひしひしと。
「同じエプロンしてる、男の子って……まさか……?」
「え、小野寺だけど」
「やっぱり」
私の知らないところで、2人がずいぶん親しくなってたなんて。親友といえど、なんだか複雑な気持ちになるじゃないですか。
胸の中をぐるぐる回る気持ちを溜息と一緒に吐き出した私は、小さく首を振った。小野寺くんに関わることになると、心が過敏に反応してしまうみたいだ。
ともかく今は、なっちゃんが彼氏さんに探りを入れてた、っていう話で……。
「えっと……それで、彼氏さんが小野寺くんから話を聞き出してたの?」
気を取り直して尋ねた私に、なっちゃんは、きょとん、と小首を傾げた。言ってることがよく分からない、ってカオだ。
「え、でもさっき、彼氏さんに探りを入れてたって……」
話を元に戻すつもりで、彼女が言っていたことを改めて口にする。すると彼女はようやく意味が分かったのか、ぱたぱたと手を振った。
「ああ、うん。それもあるんだけど。
直接小野寺に聞いてた。最近どうよ、って」
あまりにケロっと言うから、私も何て相槌を打てばいいものか分からない。呆れ半分というか、呆然というか。ぽかんと口を開けていた私は、我に返って言葉を探した。
「直接聞いたって、なっちゃん……そんなに小野寺くんと仲良かった?
1年の時のクラス、一緒じゃなかったよね……?」
彼女は指で頬を掻きながら、視線を彷徨わせる。そしてややあってから、困ったように笑みを零して口を開いた。
「ぶっちゃけついでに、話しちゃおうか。
なんかあたし、小野寺ほど隠し事が上手くないみたいだし……。
ちょっと喋っちゃったし」
自嘲気味に笑ったなっちゃんは、静かな口調で話し始めた。
「えーと……あたしと小野寺は、同じ小学校に通ってたの。
5、6年の時のクラスが一緒でね、割とみんなで仲の良いクラスだった。
だけどあたしの小学校は、進学する中学校が3つくらいに分かれててね。
あたしと小野寺は、別々の中学に通うことになった。
……で、間は端折って……。
高校で、しかもそこのコンビニで偶然再会したってわけ」
「そうなんだ……」
思い出しながらなのか、ゆっくりと話してくれた彼女に、私は相槌を打つ。すると彼女はひとつ頷いてから、先を続けた。
「ん、そうなの。
まあ、最初はびっくりしたよね。小野寺、茶髪にピアスでさ。
しかも聞いたら同じ高校じゃん。全然来てなかったみたいだけど。
……で、連絡先交換して、諒さんとのこと協力してもらったんだ」
「それで、小野寺くんにずけずけ物が言えてたんだね」
校門の前で足をかけられて転んだ時、物怖じしないで小野寺くんにひと言もの申す姿を見て、格好良いと思ったものだ。けど、小学校の時にその基礎が出来てたなら、何も不思議じゃない。
どうりで、小野寺くんもなっちゃんと普通に接してるわけだ。まつげの大野さんとその周辺とは、全然扱いが違うもの。
納得した私は、肩から力を抜いてなっちゃんを見た。
訊きたいことが、むくむくと頭の中に浮かび上がってくる。
「ねえ、なっちゃん。
小学校の時の小野寺くん、どんな子だった?」
「んー……」
わくわくと体を乗り出した私とは対照的に、彼女の肩が少し沈んだ。
……もしかして、聞いちゃ不味かったのかな。
一抹の不安を感じて、質問を取り消そうかと口を開いた刹那、なっちゃんが話し始めた。
「格好いい男の子だったよ。勉強も運動も、ずば抜けてた。
でもほら、中学上がるちょっと前にお父さんが、さ……。
それからちょっと……や、だいぶ荒れた、って話。反抗期だし?
中学は別だったから、風の噂程度に聞いただけなんだけどね。
だから……まあ、学校が適当なのもバイトに励んでるのも。いろいろ……
いろいろあるんでしょ、あいつにも」
ぽつりぽつりと話したなっちゃんが、言葉を切って黙り込んだ。
「そっか」
私は頷いて、それっきり口を閉じた。
なっちゃんと一緒にいるのに、思い浮かぶのは小野寺くんのことばっかりだ。
同情するような話を聞いたからじゃない。ただ、私の知らない小野寺くんをなっちゃんが知っていて、それがすごく羨ましい。
「……勇気、出さなくちゃなぁ」
誰にでもなく呟いたら、なっちゃんが隣で溜息をついた。
「勇気とかどうでもいいから、当たってきなよ。とりあえず」
なっちゃん、高橋さんに早く会いたいからってひどいです。




