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2月14日(金) 15:05









朝だ。

朝が来た。


ぱち、と目を覚ました私は、いつも通りに身支度を整える。

洗面所の鍵をかけて顔を洗い、髪にスプレーをして櫛で梳いていく。ストレートの髪は、今日だけはちょっと気合いを入れて緩めに巻いてみよう。いつもの2割増しくらいに見えることを願って。

それから朝ごはんを食べて、今日の茶葉を選ぶ。沸騰したお湯を少し冷ましてポットに流し込めば、お湯の中で茶葉がふわりと舞い上がる。いい香りが湯気と一緒に立ち昇ってきた。



出来たお茶をタンブラーに入れて2階に上がった私は、制服に着替えて姿見の前に座り込んだ。

「一緒に学校行くのも、今日で最後だね」

そういえば頭に生えたネコミミに驚愕して腰が抜けそうになったのも、この姿見の前だったんだっけ……。

なんだか感慨深くて、私はそっと息をついた。


志乃さんの話では、私に憑いたネコミミくんの行方を探して、その末に春日先生をどうにかするために力を消耗してしまったらしい。急に顔色が悪くなって貧血みたいになっていたのは、そのせいだったらしい。

そういうわけで、昨日のうちにネコミミをなんとかするのは難しかったそうで。土曜日の夜に、小野寺家で仔猫を取り出してくれることになった。なんでも満月の夜は、力が湧いてくるそうだ。

……なんか、狼男みたい。

もっと猫の一族のことを聞いてみたいけど、それをし始めたら春日先生と同類になってしまいそうだから止めておこうと思う。


ネコミミが、ぴるぴる、と何かを弾くように動く。心なしか、今までで一番元気な気がする。昨日お母さんに会えたからだろうか。

「嬉しいけど、ちょっと寂しいな……」

この光景も、もうすぐ見納めだ。

ぽつりと呟いた私は、ひとつ息を吐きだして、鏡の中の灰色のネコミミを見つめる。

「今日1日、乗り切ろうね。

 ……あと……小野寺くんにチョコ渡せるように力を貸して」

返事の代わりだろうか、ネコミミがぴーんと天井に向かって精一杯伸びた。

それに思わず苦笑してしまった私は、時計を見て慌ててニット帽を被って部屋を出る。

音を立てて階段を下りて、靴を履く。そして勢いよく玄関のドアを開けた。

ラッピングしたチョコを、ちゃんと鞄に忍ばせて。








登校して席について鞄の中身を机の中に移していると、教室のあちこちからバレンタインの話題が聴こえてくる。いつも以上のざわめきに、ニット帽の中のネコミミがひくひく反応してる。

いろんな声に耳を傾けながら、私は何となく窓の外に視線を投げた。ここからは校舎裏の、持久走のコースが見える。

今日も良い天気で、日差しがぽかぽか暖かい。授業なんて早く終わらないかな。まだ始まってもいないのに、そんなことを考えて溜息をつく。

するとその時、茶髪頭の男子が目に飛び込んできた。その生徒は、校舎裏を校門に向かって小走りに駆けて行く。

私は目を疑った。その茶髪男子が、どこからどう見ても小野寺くんなのだ。

……何してるんだろ。自転車で来なかったのかな。それにしても、小野寺家はそっちの方向じゃないはずだし……。

内心小首を傾げた私は、何度か瞬きをして茶髪頭の男子を眺める。彼はあっという間に私の視界からいなくなった。

すると今度は、そのあとから女子が歩いてくる。足取り重く、どんよりした空気を纏っているように見えるけど……体調でも悪いんだろうか。

そんなことを考えながら眺めていると、私は彼女が小さな紙袋だけを持って歩いていることに気がついた。

今日は小さな紙袋を持って来てる女子が、わんさかいる。バレンタインだから。

……ということは、彼女も誰かにチョコを渡そうと……?


そこまで考えた私は、はっとした。

もしかして彼女がチョコを渡そうとした相手、小野寺くんだったりして。

なんとなくだけど、間違いないような気がする。女の勘だ。

私は両手をぎゅっと組んだ。今まで気づかなかっただけで、私にはライバルがたくさんいるのかも知れない。

8時27分。もうすぐ、朝のチャイムが鳴ってHRが始まる。ここ最近は毎日遅刻せず登校している小野寺くんが、教室に入って来るはずだ。走ってたし。

見ようと思ったわけじゃないけど、覗き見してしまった気まずさが消えない。私は、重たくなった気持ちを溜息にして出した。

その時だ。


「あっ、おのでら~」

誰かの声がして、私は視線を走らせた。するとそこには、気だるそうに教室に入って来る小野寺くんの姿が。

声をかけてきた男子に何かを言いながら、彼がこちらに歩いてくる。それはそうだ。小野寺くんの席は私の隣なんだから。

どんなカオをしていればいいのかと内心右往左往していると、ガガっ、と椅子を引く音がした。そして、溜息が聴こえてくる。

「ふー……」

ちらりと視線を這わせれば、そこには机に覆い被さって脱力した小野寺くんがいた。

「あの……」

登校したばかりで疲労感を漂わせている彼に、どうにか声をかける。すると彼は、ちらりと視線を上げた。

「おはよ……?」

そのぱっとしない表情を見た私が小首を傾げれば、彼の頬が緩む。

「おはよ。

 今日どうするか、考えてきた?」

「うーんと……」

私は口ごもって、視線を彷徨わせた。


明日の夜ネコミミとお別れすることになったから、今日の放課後に寄り道をして打ち上げをしよう、と小野寺くんが誘ってくれたのだ。

どこに行くか、考えておくように言われてたんだけど……。

それよりも、ついさっき目撃してしまった光景が気になって仕方ない。


「え、まだ?」

小野寺くんが苦笑混じりに言って、体ごとこちらに向き直る。通路に足を投げ出したから、私の前の席の男子が通りたそうにしてたけど諦めて遠回りしていった。

「遊ぶならカラオケか、ゲーセンか……ボーリング場も駅近だよな。

 それともあれ、食べに行く?

 ほら昨日……」

指折り数えながらやけに楽しそうな彼に、私も自然と笑みが浮かぶ。

やっぱり落雷の現場に居合わせてから、ずっと緊張してたんだろうな。おかげさまで小野寺くんには、たくさん助けてもらったし。

……ひとまず、校舎裏であったことは見なかったことにしよう。


そうこうしているうちにチャイムが鳴る。朝のHRはあっという間に終わって、1時間目がやってくる。

小野寺くんは早速、私達の机をくっつけた。そして何も言わずに鞄の中から課題プリントの束を取り出す。これを期日までに提出しないと、彼は留年してしまうかも知れないのだ。

猛然と課題をこなし始めた小野寺くんに、私ももう何も言わないで机の中から教科書を取り出して広げる。もちろん、2つの机の真ん中に。








放課後を楽しみにしてるからなのか、時間はどんどん過ぎていった。


4時間目の生物の授業は、春日先生が体調不良で欠勤したために自習になった。

それを授業監督の先生から聞かされた時は、小野寺くんと2人で顔を見合わせてしまって。まあでも春日先生と昨日の今日で顔を合わせるよりは、まだマシだったかも知れない。




そして、お昼休み。私はなっちゃんと2人で、中庭にやってきた。今日も小春日和。風もないから、日差しさえあれば十分。

4時間目にきゅるきゅる鳴っていたお腹も落ち着いて、軽い眠気がやってくる頃。


「ごちそうさま~」

なっちゃんがお弁当箱の蓋をして、片付け始める。カチャカチャという音に、ひくっひくっ、と船を漕ぐように震えていたネコミミが、ぴょこんと上を向く。

「そういえば、今日は小野寺来ないの?」

なりゆきから3人でお弁当を食べることが続いてたから、なっちゃんは今日も彼が一緒だと思っていたんだろう。

手早く鞄の中にお弁当の包みをしまった彼女に、タンブラーのお茶を啜っていた私は携帯の画面を見ながら答える。

「そのはずなんだけど……遅いねぇ」


そう、4時間目が終わってすぐに小野寺くんが言ったんだ。「俺もそっち行くから。にぼし持って来てるんだ」って。

でもその彼は、12時55分になっても姿を現す気配がない。

先生から呼び出しを受けてるわけじゃないと思うし、声をかけてきた他の男子にはお昼休みは外に出るって宣言してたし……。


「……何かあったのかなぁ」

「ま、もうちょい待ってみよっか」

なんとなく心配になって呟けば、適当な相槌を打ったなっちゃんが、鞄の中から何かを取り出した。そして、手にした小さな箱を私の膝の上に置く。

「それよりさ、今日はバレンタインということで……」

「あ、私もあるんだ」

自分の鞄の中から小さな箱を取り出して、彼女の目の前に差し出す。すると彼女は、ぱっと表情を輝かせて手を伸ばした。

「ありがと綾乃」

「こちらこそ」

恋の駆け引きがない穏やかなやり取りに、思わず頬が緩む。恒例とはいえ、やっぱり何かをもらうのは嬉しい。どちらからともなく微笑みを交わした私達は、それぞれの膝に置かれた小さな箱を開けた。


チョコレートタルトをひと口食べて、タンブラーの温かいお茶を啜る。今日は甘い物を食べるかと思って、それに合うように茶葉を選んで正解だった。すごくおいしい。

「おいひー」

ふた口目を齧りつつ、私の作った生チョコを口の中で溶かしていた親友に感想を述べる。

すると彼女は申し訳なさそうに言いながら、照れ笑いを浮かべた。

「んー、その……ごめん。

 カレ用に作った中の、ひと切れなんだよねぇ」

ずいぶんと幸せそうなカオだ。そもそも彼女に彼氏がいることが発覚したのも最近の話なんだけど、日に日にラブラブになっていくようで、なんだか眩しい。

そんなことを考えていたら頬を押さえたなっちゃんが、「でも」と口を開いた。そして、にまにまと笑みを零しながら私の腰のあたりを指でつつく。

「綾乃があたしにくれたコレだって、残りものでしょー?」

「ひっ、やぁっ」

うりうり、とふざけながら指でつつかれて、うわずった声が口から飛び出してくる。

なっちゃん、照れ隠しにしてはちょっと攻撃的過ぎやしませんか。

膝の上にタルトがあるから、立ち上がって逃げるわけにもいかない。私は腰をくねらせながら、なっちゃんの悪ふざけをなんとか受け流していた。

「ひゃっ、んっ、なっちゃ……!」

「ほれ、ほれほれ」

小野寺くんが合流しないなら、今のうちに彼女に相談しようと思ってたのに。今日、何て言って小野寺くんにチョコを渡せばいいのか……。


くすぐったくて、目じりに涙が溜まっていく。

結局なっちゃんは私で散々遊んだあげくに、突然かかってきた彼氏さんからの電話に、ものすごく幸せそうなカオで出てた。

なんだ、この気持ち。

“リア充爆発しろ”って言ってた弟の気持ちが、ちょっと分かるかも知れない。







自分を脅かす存在のない1日とは、かくも早く過ぎていくものか。

私は借りものの机に出していた勉強道具を纏めて立ち上がる。6時間目の世界史と日本史の授業は、選択制の移動教室なのだ。

自分の教室に戻る生徒で、廊下は人口密度が少々高めである。私は放課後との境目で浮ついた雰囲気の中を、いそいそと歩いて行く。

吹き抜けを囲むように四角く伸びる廊下は、教室側を通ると人にぶつかるから好きじゃない。私はトイレや図書室のある方の廊下を遠回りすることにした。


……そういえばネコミミが生えてすぐの頃、この廊下で小野寺くんに出くわしたんだよね。まだ茶髪にピアスが3つの彼は威圧感のかたまりで。ちょっと怖くて。

思い出して、ふふ、と口から忍び笑いが漏れる。周りに人がいないのをいいことに、私の足取りは軽い。このあと、小野寺くんと打ち上げが待ってる。

こころなしか、ネコミミもるんるんと跳ねるように動いてる気がする。

……ま、巻き髪には気づいてもらえなかったけどさ。


そんなことを考えて、ゆるく巻いた髪に指を絡ませた時だ。

ふいに、どこかから人の声が聴こえてきた。



「どうしてですか……?

 受け取るくらい……してくれたって……!」


――――女子の声だ。

私は思わず足を止めた。どこから聴こえてくるのかは分からないけど、とりあえず辺りの様子を窺ってみる。

ネコミミがニット帽の中で角度を変えて、音を拾おうとしてる。

振り返っても誰もいないし、前にも誰も見当たらない。

もうすぐ廊下の突き当たりで、そこには階段がある。もしかしたら踊り場あたりで、今日のメインイベントが展開してるのかも知れない。

そう自分を納得させつつ歩いていくと、今度は別の声が聴こえてきた。


「やー……そんなこと言われても」


その声に、思わず呼吸が止まる。

小野寺くんだ。小野寺くんが、誰かに告白されてる。


手のひらが、急に汗を掻き始めた。荷物が重い。

縫い付けられたかのように、足が動かなくなる。

どうしよう、聞きたくない。でも、気になる……!

2つの気持ちが、くるくると入れ替わる。

私はどくどくと嫌な音を立てる心臓のあたりを手で押さえて、なるべく足音を立てないように通過することにした。

玉砕するなら、自分のチョコでお願いしたい。こんなふうに、それこそ落雷に遭うみたいに降って湧いた失恋なんて勘弁してほしい。

なるべく速足で、でも存在を気取られないようにと、私は教室に向かった。


だけど、それは無駄な努力でしかなかった。

聴こえてしまったのだ。ちょうど、階段の前を通る時に。

あと、ちょっとだったのに。



「俺、本命からのチョコ以外は捨てるよ。

 本命からもらえなくても、捨てる。

 だから悪いけど、それは持って帰って」



ああもう、そんな台詞聞きたくなかったのに。

どんなカオして、放課後出かければいいの。

笑えない。全然笑えないよ、小野寺くん。


私は堪らなくなって、トイレに駆け込んだ。

とりあえず今は、この震えてる手をどうにかしないといけない……。








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