2月13日(木) 18:30
「ええと……」
柔らかい声が響いて、小野寺くんの腕がぴくりと反応した。
私のネコミミも、ぴくっと動く。
どれくらい経ったんだろう。時間の感覚がなくなっていた私は、はたと我に返って閉じていた瞼を持ち上げた。もしかして今、結構恥ずかしいことを普通にしてるんじゃなかろうか。
「小野寺くん、と呼んでもいいかしら」
頬に感じるブレザーの硬さが、やけにリアルで。その向こうから聴こえる鼓動が、ちょっと速くて私までドキドキしてくる。
「――――あ」
小野寺くんがひと声発して、ぱっと腕を解いた。まさに、今の今まで他の人がいることなんか忘れてました、っていう感じで。
私も慌てて腕を放して、一歩後ろにさがった。微妙な距離が、また緊張を煽る。お互い目が泳いでしまうのは、もうどうしようもないと思う。
落ち着け落ち着け、と心の中で唱えた私は、視線を走らせた。
うぐいす色の着物の裾が、足を出すたびにゆらりと揺れる。いつの間にか彼女の人間離れした瞳と髪は、濡れたように艶のある黒に染まっていた。
小野寺くんは視界に飛び込んできた彼女の豹変した姿に驚いて絶句してるみたいだけど、私の方はそうでもない。彼女の風貌を見て、内心頷いた。
猫返し神社で会った、着物美人さんと同一人物だ。間違いない。
そんなことを考えていたら、どうやったのか黒い髪をぴっちり纏めた彼女が、私の目を見つめていることに気がついた。
そういえば神社でも、じっと見つめられた記憶があるな。
「……田部さんね?」
「はい」
思わず返事をした私の横で、小野寺くんが首を捻った。
「なんか、さっきと感じ違くないっすか」
彼女の纏う雰囲気が柔らかくなって気が緩んだのか、彼の声もずいぶんと軽い。
そのくだけた口調に一瞬ひやりとした私だったけど、彼女がころころと笑う様子を目の当たりにして、ほっと息を吐きだした。
もう怒ってないみたいだ。
彼女は、ふふ、と笑みを浮かべた。
「さっきは怖い思いをさせて、ごめんなさいね。
……だけど、あんな場面を見てしまったら頭に血ものぼるわ」
そう言って肩を竦めるのを見て、小野寺くんが口を開く。
「あんな場面?」
「あの男、香を焚いたでしょう。無理に田部さんから引き剥がそうとして。
我が子が痛めつけられている場面を見て、平静を保てる親なんている?」
彼女の声に棘が見え隠れする。きっとほんとは頭の中にまだ、春日先生への怒りが沸々と湧いているんだろう。それが溢れないように押し留めているだけで。
小野寺くんは「あー……あれか……」と唸るような声を出して、黙り込んだ。白い小皿ごと灰になったお香の存在を思い出したらしい。
「あの、ありがとうございました」
言葉を切った彼を横目に、私は彼女に頭を下げる。
すると彼女は、静かに首を振った。
わずかに流れた沈黙を破って、私は彼女に尋ねてみることにした。
「あの、覚えてますか。
猫返し神社で、少しお話したんですけど……」
「そうなのか?」
表情を窺うようにして彼女の顔を覗き込んだ私は、小野寺くんの言葉に視線を移す。若干むっとしてるように見えるんだけど、気のせいかな。
「うん、あの……。
小野寺くんがお祓いの話を聞いてる間に、ちょっとだけね」
「ふぅん……」
自分の知らない所で起きていたことが、面白くないんだろうか。彼は曖昧に返事をして、私から視線を剥がした。
「もちろん覚えているわ。
実はあの時、灰色の仔猫を拾っていないか訊こうと思っていたの。
でも犬の匂いが近づいてきて、つい逃げ出してしまったのよね……」
「犬の匂い……って」
「……んだよ」
ちらりと盗み見たら、小野寺くんと目が合った。彼も、自分のことだと分かってるんだろう。決まり悪そうにしてる。
そんな彼に何か言おうと口を開いた私より先に、彼女が言葉を紡いだ。
「ごめんなさい、気を悪くしないで。
本来なら、他の動物の匂いなんて気にならないんだけれど……」
「や、別にそういうんじゃないっす」
申し訳なさそうに眉を八の字にして目を伏せた彼女に、小野寺くんが困惑気味に呟く。春日先生を絞め殺そうとしていた時と真逆の雰囲気に、まだ馴染めないみたいだ。
彼は少しの間視線を彷徨わせて、彼女に向かって言った。
「ところで、ですけど。
そろそろ名前とか、諸々の事情を聞かせてもらってもいいですかね」
小野寺くんの質問に目を伏せた彼女は、小さな声で答えた。
「……そうね、そうよね」
「巻きこんでしまったからには、話してもいいわよね……」
独り言のように呟いた彼女は、視線を上げる。何かを迷っているんだろうか、その瞳はゆらゆら揺れていた。
「わたしは、志乃。
昔に比べたら人にだいぶ近くなった猫の一族の、端くれ。
意識を切り替えた時だけ、いわゆる化け猫になれるの。見たでしょう?」
怒りのあまりに暴走していた時の様子を思い出した私は、鳥肌の立った腕を擦りながら頷いた。隣では、小野寺くんが静かに頷いてる。
彼女はそんな私達の様子を交互に見て、続けた。
「わたし達猫の一族は、普段は人に紛れて暮らしていてね。
実は、わたしのように普通の人と家庭を築く者がとても多いの。
……そうやって、少しずつ人に近くなったのだけれど……」
「志乃さんだけじゃなかったんですか……?!」
一族、ってことは世の中にネコミミが標準装備の人達が、たくさんいるってことじゃないか。
思わず口を挟んでしまった私に、志乃さんが頷く。
「親元を離れて、結婚して家庭を築く。
そして子どもが生まれれば、自立するまでごく普通に育てる。
もちろん、人の世に溶け込めるように力の使い方も教えながら……。
……わたしも、そうやって大人になったの。
幼稚園に小学校、中学高校、専門学校にまで通わせてもらってね」
「なるほど……。
そのどこかの時点で春日と逢ってる、ってわけか」
小野寺くんの言葉に、志乃さんは険しい表情を浮かべて頷いた。察するに、あんまりいい思い出じゃないことだけは分かる。
「ええ……。
わたしが大学に入ったばかりの頃にね」
「大学……?
でも志乃さん専門に通ってた、って……」
私がさっき聞いたことを思い出して呟くと、志乃さんが苦虫を噛み潰したようなカオをして、深い溜息をついた。
「卒業したのが、専門学校。
でも最初に入学したのは、大学だったの。頑張ったのよ、わたし。
特待生でね、入学金も授業料も免除だったんだから」
半ば自嘲気味な笑みを零して、彼女は続ける。
「大学生活はすごく順調だった。友達も出来て楽しかった。
生まれて初めて、カレも出来た。
――――それが、春日なの」
衝撃的な告白に、私は絶句した。
小野寺くんも、同じく言葉を失って呆然としてる。
夜の体育倉庫が、私達の呼吸の音だけを残して静まり返った。
「春日はちょっと変わった人だったけれど、うまくいっていたと思う。
一緒にいて楽しくて。自分が普通の人になったと錯覚してしまうくらい。
……だから、つい気が緩んで素が出てしまったの。
だけど、彼はわたしの本当の姿を受け入れてくれた」
まさか、春日先生が学生時代の志乃さんと付き合ってたなんて。
なんだか、その時の2人の姿は今の自分と小野寺くんにどこか重なる気がする。小野寺くんと私の間にはなりゆき上の疑似恋人ながら、友人とも違う信頼関係みたいなものがある、と思ってるけど……。
志乃さんと先生は、どこかで関係が変わってしまったんだろうか。
私は目を瞠りつつ、彼女の告白を聞いていた。
「そう思っていたんだけれど……。
彼はわたしの家族や、同族の友人のことを詳しく聞きたがるようになった。
私以外の猫の一族にも会いたい、なんて言いだした。
そのうちにお香や、古い文献が彼の部屋に増えて始めて……」
「なるほどな、道理で詳しいわけだ。
そりゃあ1週間かそこらで得た俺らの知識なんか、鼻で笑っちゃうよなぁ」
溜息混じりに、小野寺くんが言う。
志乃さんは彼の呟きを寂しそうに聞き流して、顔を歪めた。
「――――しまいには、わたしが化けた姿を動画に残したのよ!
しかも、わたしには分からないように……!」
「それ……」
小野寺くんが、沈痛な面持ちで額を押さえて俯いた。
……分かる。小野寺くんの言いたいことは分かったよ。
それって盗撮だよね、犯罪だよね。ほんともう春日先生って。
「さいてー……」
顔をしかめて簡潔な感想を述べた私を、小野寺くんが気まずそうに見てる。その心情が全然分からなくて、とりあえず小首を傾げてみたけど……。
私の感想、間違ってないと思うよ小野寺くん。
結局、私と小野寺くんのアイコンタクトは全然意思疎通がなされないまま終わって。志乃さんが、溜息をついて口を開く。
「そこでようやく、わたしは目が覚めた。
彼が見てるのは、わたしの力だけ。猫の一族に興味があるだけ。
……知られるまでは、普通の恋人同士だったのに。
だから、これ以上一緒にはいられないと別れを切り出したの。
まあ、案の定こじれたわ。彼は否を繰り返した。
わたしだって一度は好きになった人だから、すごく迷ったわ。
だけど最後は、取り憑かれたようにわたしに付き纏うようになって……。
わたしは大学を辞めた。動画も静止画も全て破壊してね……」
「それで先生は、“ずいぶん探した”って言ってたんですね」
先生の台詞を思い出した私は、そう言って相槌を打った。
「こわ……盗撮と付き纏いって。
すぐ警察――――……は、いけないか。事情なんか言えないよな……」
小野寺くんの呟きが重い。
捻じれた情熱に年季が入って、とんだ暴挙に出たというわけか……。
会話が噛み合ってなかった春日先生の様子を思い出して、背中が寒くなる。きっとあの時にはもう、先生はちょっと普通じゃなかったんだ。
「それからは、春日に繋がる人間関係を全て断ち切ってやり直したわ。
個人情報の載った書類は、関係者を化かして書き変えた。
おかげで理解のある優しい夫と結婚して、可愛い子どもにも恵まれた」
志乃さんの言葉に、私は頭の上を指差した。ネコミミが、ぴるん、と動く。
「それが、この子なんですね」
「ええ」
私の頭の上に視線を移した彼女の眼差しが、いくらか和らいだ。そして、小窓から差し込む月明かりを吸い込む。
「きっと仔猫に化けて遊んでいるうちに、迷子になったのね。
まったくもう……お母さん、家の近くで遊ぶように言ったでしょ?」
彼女の口から飛び出た怒気を孕んだ声にネコミミが、ぺたん、と倒れた。小さな男の子が、しゅんと頭を垂れる様子が目に浮かぶようだ。
ネコミミを見た小野寺くんは、苦笑混じりに志乃さんを見た。
「でも、春日はこの子が志乃さんだと思い込んでたみたいだけど」
「それは……この子の耳と、わたしの耳が似ているからでしょうね。
彼はわたしの耳だけを何度も見てるから、同じに見えたのかも知れないわ。
親子で化けた時の姿かたちが似るのは、よくあることだから」
志乃さんの顔つきが、きゅっと引き締まる。
「……あの時、彼の記憶をいじっておくべきだった。
わたしの甘さが、あなた達を危ない目に遭わせて……」
目を伏せた彼女は、ふぅ、と溜息をついた。
……そういえば今まで気づかなかったけど、あんまり顔色がよくないような……。内心首を捻って彼女の顔を見つめた私が、声をかけようと口を開いた時だ。
志乃さんの体が、ぐらりと傾いた。うぐいす色の着物が翻って、黒くて艶やかなおくれ毛がふわりと舞う。
「――――ちょっ……」
ててっ、とたたらを踏んだ彼女の体は、小野寺くんが咄嗟に伸ばした手に支えられて、なんとか倒れずに済んだ。
息を飲んで動けなかった私は、安堵の息を漏らして強張った体から力を抜いた。
「ご、ごめんなさい」
「あ、いや……」
目元を覆った志乃さんが小さな声で囁いて、小野寺くんが気まずそうに手を放す。
「あー……ともかく……」
なんか……。
私は胸の中で独りごちた。
小野寺くんが見た目に反して、良い人だってことは十分知ってるけど。この光景は、あんまり見たくないかも……。
ああでも、そっか。春日先生のことが片付いて、ネコミミのお母さんも現れた。
きっともう、私と小野寺くんが一緒にいる理由もなくなったんだ。あとは私ひとりでも、迷子の仔猫を返すことが出来るだろうし。
……明日はバレンタインだし、早い方がいいのかも――――。
「――――な?
……おい、田部にゃん?」
知らず知らずのうちに視線を逸らして砂や埃で汚い地面とにらめっこをしていた私は、小野寺くんに耳元で声をかけられて我に返った。
がばっと顔を上げて、頭の中が真っ白になる。まずい、全然話聞いてなかった。
「だから土曜日、夕方の5時半に俺んちな」
「え?」
ぽかんと口を開けて固まった私に、小野寺くんが頬を引き攣らせる。茶髪にピアスが3つでそういうカオされると、やっぱりちょっと怖い。
志乃さんがそんな私達を眺めて、くすくす笑っていた。
う、と呻いて思わず体を引いた私は、上目遣いに彼を見つめる。そして、チクチクと降ってくるであろう言葉を待った。
『あ、きたー』
校門に向かう途中、お行儀よくちょこんと座るぶち猫が待っていた。
私は思わず駆け寄って、その前にしゃがみこむ。汗と埃でいろいろドロドロなうえに重いカバンを肩にかけていたけど、いつもと同じぶち猫の姿を見つけて、疲れは吹き飛んだみたいだ。
……決して、小野寺くんに頭をぐらぐら揺さぶられて逃げてきたわけじゃない。
「ありがと、ぶち。
お前が志乃さんに知らせてくれたんだね」
『うん、いいこー?』
きゅるんと濡れた瞳で見つめられて、私は思わずこくこく頷いてしまう。
「うんうん、すっごくいい子。
ありがとね、助かったよ」
「――――なんて?」
ざっ、と地面を踏む音を響かせて、小野寺くんが私の隣にしゃがむ。どうやら話を聞いてなかったことに関しては、もう許してくれるらしい。
私は頬を緩めて、彼に目を向けた。
「うん、あのね……」
たいした会話じゃないけど、と通訳をしようと口を開いた時だ。
私が言葉を紡ぐ前に、ぶち猫が言った。
『いい子だから、にぼしー?』
「え、なんだよ?」
まっすぐな瞳を向けられた小野寺くんが、思わず、っといったふうにたじろぐ。
戸惑う彼の姿がちょっとだけ面白くて、私は噴き出しそうになってしまった。それを堪えて、すぐに耳打ちする。
「志乃さんを呼んで偉かったから、にぼしが欲しいって」
夜風の吹く学校の片隅で、私と小野寺くんは顔を見合わせて噴き出した。
ぶち猫が、そんな私達を不思議そうに見つめている……。




