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2月13日(木) 18:15








うぐいす色の着物に真っ白な髪が流れ落ちてる。

月の光を受けて輝く様子は、とても幻想的で心を奪われそうだ。


――――彼女の後姿に、見覚えがある。


あの時も彼女は、うぐいす色の着物を着てた。椿の花を賽銭箱の横に置いた手は白くて、綺麗で。頭を垂れて祈る様子に、私は音を立てないように息を殺した。

そして「見つかるといいですね」なんて、気休めの言葉をかけた。



だけど、あの時の彼女の髪は黒かったはずだ……それに――――。


それに、彼女の頭にはネコミミなんかなかった……。







「……化け猫……?!」

耳のすぐ上で、小野寺くんが呟いた。その声は掠れてる。

私だって、喉がカラカラだ。いろんなことが一気に起きて、混乱しそうだ。

だけど目を逸らしたらいけないんだ、ってことは分かる。だから、私は小野寺くんの呟きに顔を上げることもなく、彼女の後姿を見つめた。

白い頭の上に、ふさふさしたネコミミが生えてる。私のみたいな、こじんまりとしたオモチャサイズのものじゃない。

まるで、獣だ。

背筋をぴんと伸ばした立ち姿には、どこか柔らかさと気品を感じる。それなのに愛玩動物の域を超えたネコミミが、この場の空気を凍らせてる。


「俺は、お前が田部に憑いてるんだとばかり……!」

愕然としてた春日先生が、声を震わせた。

私からは表情までは見えない。だけど、その感情は推し量れる。きっと、恐怖と驚愕。それから、少しの歓喜。

耳をそばだてて先生の言葉を聞いていると、今度はうぐいす色の着物の裾が揺れた。

「たべ……?」

「は、はいっ」

感情のこもらない声でも、誰かに自分の名前を呼ばれたら返事をしてしまう。仕方ない。条件反射だ。

姿勢を正して声を発した私を、彼女はわずかに振り返った。少しだけ見えた口角が、上がってることに胸を撫で下ろす。

「――――そう、やはり……」

言葉が少なくて、伝えたいことが分からない。いや、むしろ独り言か。私の頭についたネコミミが、彼女の声に反応してぴくぴく動いてる。

視線を戻した彼女は、春日先生に向かって言った。

「憑く……か。

 わたしが人間などに憑かねば生きてゆけぬ、弱き者だとでも?」

古めかしい言葉遣いをした彼女が、腰に手を当てて声に棘を含ませる。

先生はその棘に気づいていないのか、ほぅ、と溜息をついた。

「どこにいたんだ、志乃。

 ずいぶん探して……」

ものすごく感慨深げな、溜息混じりの言葉。それがこの場の雰囲気に著しくそぐわないことに、先生は気づいてないみたいだ。まして会話のキャッチボールがちぐはぐなことになんか、絶対に気づいてない。


「――――寄るな!」

じり、と床を踏む音が響いて、硬い声が飛んだ。

どうやら春日先生が彼女に近づこうとして、彼女がきつく言い放ったらしい。

私の頭のネコミミが、ぴーんと張り詰める。


……というか、どうして先生は彼女のことを“志乃”と呼んだんだろう。2人は顔見知りなんだろうか……。

知りたいことはたくさんあるけど、口を挟める雰囲気じゃなさそうだ。私まで彼女に怒られるのは避けたい。


先生の足が、空気を振るわせるような声に止まる。すると彼女はおもむろに、腰に当てていた手を前へと突き出した。

「黙れ。

 言い訳も説明も不要だ。挨拶など論外」

その言葉が響いた刹那、先生の口から呻き声が漏れ聴こえてきた。

「――――ぐ、ぅっ……?!」

他のことを考えていた私は、その苦しそうな声を聞いて慌てて目の前の光景に意識を向けた。視界に捉えていた革靴を履いた足が、バタバタと暴れて……る?

一瞬ぽかんとした私は、はっと我に返った。春日先生が、宙に浮いているのだ。


「あ、おいっ」

小野寺くんの腕を振り払うようにして立ち上がる。膝の擦り傷が伸び縮みして痛むけど、そんなこと気にしてる場合じゃない。

小声で私を制そうとした彼が、たたらを踏みながらも立ち上がった私の隣に立つ。背中の汗が冷たくて、目の前で起こってることが現実味を増していくのが分かる。

彼女の肩の向こうには、苦しそうに顔を歪めて首元を押さえる先生の姿があった。立ち上がって初めて感じた空気に圧倒されて、全然声が出せない。


心なしか、春日先生の顔色や唇の色が悪いような気がする。そう見えるのが、暗い体育倉庫の中にいるせいだとは思えなかった。

「し……」

わずかに開いた唇から、声が漏れる。

……まずいかも知れない。

人が首を絞められる場面なんて、虚構の世界でしか見たことがない。だけど私は、春日先生が足をじたばたさせてる光景を前に、本能的に感じ取ってしまった。

膝が笑いだして、口の中からカチカチと音がする。怖い。

誰の呼吸音なのか分からない音が、耳の中に流れ込んでくる。

自分に何かが向けられたわけじゃないのに、容赦なく恐怖感が襲ってくる。汗を掻いた背中の冷たさが、頭の芯に移動した。思考が凍りつきそうだ。

それでも、私は口を開いた。

その瞬間だった。


「――――やめろよ」

低く掠れて、押し殺した声がすぐ近くで聴こえた。

思わず振り向けば、小野寺くんが強張った顔をそのままに彼女の背中を睨みつけていた。彼の手はぎゅっと握りしめられて、力を込め過ぎたのか、白くなって震えている。手の甲にうっすらと、血管が浮き出るほど。


聴こえたのかどうかすら怪しいほどの小さな声に、彼女のかざした手がぴくりと動いた。そしてその手は先生に向けたまま私達に向き直る。真っ白な髪がうぐいす色の着物の上を、さらりと流れた。

彼女の瞳が小野寺くんと私を順番に捉えて、私は息を飲んだ。ひ、と喉を通った空気が音を立てて消えていく。

……真っ赤……。

訝しげに細められた目は、赤くなっていた。


私は咄嗟に小野寺くんの握りこぶしを掴んだ。両手で、震える塊をぎゅっと包む。あの手が小野寺くんにかざされたら……そう考えたら、体が勝手に動いていた。

すると、私の行動なんて全く気にした素振りもなく、彼女が口を開く。

「なぜ?」

放り投げられたのは、短い言葉だった。

「か……」

一瞬言葉に詰まった小野寺くんが、私の両手の中のこぶしから、少しだけ力を抜く。

「春日が死んじゃったら、あんた殺人犯になるんだぞ」

掠れてはいるけど落ち着いた声で、彼は言った。

「もし俺達が警察から事情を訊かれたら、見たことを言わなきゃならない。

 それでもいいのか……?」

でもそれ、私達のことも口封じしたら完全犯罪だよね小野寺くん。

“恐怖! 放課後の学校で怪奇事件”なんて新聞の見出しを想像した私は、内心で慌てふためいた。ロクに会話もしないで春日先生を締め上げ始めた彼女が、そう考えないとは思えない。てゆうか、その可能性大だ。

私に憑いた仔猫も、そうした方が取り出しが楽だったりするかも知れないし。


これはまずい、とカオを凍りつかせていたら、彼女が小首を傾げた。かと思えば、すぐに目を細めて春日先生を振り返る。

「この男には忠告してある。

 次にわたし達に付き纏ったら、絶対に許さないと」

「う、ぐぅ……っ」

絶対、の部分が重く響いて、宙づりのままの春日先生の口から呻き声が漏れる。

どんなことがあったのかは知らないけど、どうやら一度、先生は彼女の怒りを買ったことがあるんだろう。さっきのやり取りの噛み合わなさを見た感じ、かなり大きな怒りを買ったに違いない。

「そっか、それで……」

小野寺くんが呟いた。

「文献を見つけて化け猫に出遭ったのは、俺達より“ずっと前”……」

その言葉を聞いてか、彼女がまた私達に向き直った。

白い髪に月明かりが柔らかく降る。だけどそれに反して、赤い瞳には少しの怒りが見てとれた。

「10年以上も前の話だ。

 ……今回のことは、ぶち模様の猫の記憶を見て把握しているよ。

 わたしをこの場所に連れてきてくれたのも、あの猫だ」

そのひと言に、私は心の中で天を仰ぐ。


ぶち猫の記憶をどうやって見たのかは、この際置いとこう。彼女の超常的な力なら、まさに今、春日先生を宙に浮かせてるのを見てるんだから。

問題は、ぶち猫の記憶の中身だ。

きっと春日先生のことは、恐怖の大王くらいに思ってたはずだ。もしくは天敵。思い切り威嚇してたし……。


「まじか……」

考えを巡らせていると、小野寺くんが口を開いた。ぽつりと呟いた言葉は、きっと私と同じことを考えて紡がれたんだろう。

お互いに顔を見合わせて、2人して頬を引き攣らせる。

始まりが10年以上も前のことなら、私達がひと言ふた言添えたくらいで彼女の意志が変わるとは、あんまり思えない。

すると、うぐいす色の着物の彼女が、すっと目を細めた。

「あの猫にしたことは、当然許せない」

春日先生が、また呻く。

苦しそうだ。助けてあげたいけど、そう簡単じゃない。

彼女が思い切り、顔をしかめた。

「けれど何より、この男はわたしの可愛い子に手を出した」

「――――ぐ、がぁぁっ」

みし、と何かが軋む音と同時に、先生の口から人のものとは思えない声が上がる。

その異様な響きに私の寒くなった背中を、小野寺くんの手が擦った。

「可愛い子……」

独り言のように呟いた彼に、私は頷いた。彼女の言葉に“やっぱり”と胸の中で呟いてから、彼に囁く。

「ネコミミの、お母さん」

「なっ……?!」

小野寺くんが、私の言葉に目を瞠る。

私は彼女を一瞥してから、彼に言った。

「事情はあとで話すけど……間違いないと思う」




私達の視線を受けた彼女が、真っ赤な瞳を和らげて微笑んだ。

その後ろに苦しむ春日先生が見えるから、なんともいえない気持ちになるけど……。

「だから――――」

きらりと赤い瞳を光らせた彼女は、私達に背を向けた。

「なおのこと、この男をこのままにしてはおけない。

 心配するな。あなた達2人を、どうにかしようなどと思ってはいないよ。

 ぶち模様の猫が感謝していた。だから、わたしが敵対する理由はない」

白い髪が、風もないのにふわりと揺れる。

そして、かざされた白い手が、ぐ、と握られた。

その途端、春日先生の口から悲鳴が漏れる。いや、絶叫というべきか。耳を裂くような声と、苦痛に歪む顔。とてもじゃないけど直視出来そうにない。

顔を背ける一瞬前に見てしまった、先生の血走った目が瞼の裏にこびりついてる。

痛いくらいに握りしめられた小野寺くんのこぶしを包むつもりだったのに、気づけば私の両手は、しがみつくように彼の手を掴んでいた。

「痛いか。痛いだろうな。

 後悔するがいい……これが、忠告を無視した代償だ」

彼女の謳うような台詞が響く。

その言葉だけを聞くと、悪役みたいだ。ダークヒーローは嫌いじゃない。だけど、ここまでされると応援出来かねる。


小野寺くんの手を離したくない。怖い。でも、これ以上人の苦しむ声を聞きたくない。

耳を塞いで、視覚も聴覚も電源をオフにすればいいんだろうけど。小野寺くんの存在を感じていられないと、不安になる。

ぐるぐると考えを巡らせて、私が出来る限りの現実逃避をしていた時だ。

小野寺くんが、ふいに大声を上げた。


「――――もう十分だろ!」


響いた言葉に、私は思わず目を開ける。

「小野寺くん……?」

だけど彼は私の声には目もくれずに、彼女の後姿に向かって言った。

「母親なら、こんなの見せられてる子どもの気持ちも考えろよ!」

そのひと言に、彼女の突き出した手が一瞬強張る。


……子どもの気持ち。

小野寺くんの叫びを口の中で繰り返して、気がついた。

私のネコミミが、ぷるぷる震えてる。

もしかして、怖いのか。自分のことで精一杯だったから、灰色の仔猫のことにまで気がまわらなかった……。

夢の中で会った子どもは、すごく臆病だった。母を求めて、泣き続けてた。

思い出して、胸がチクリと痛む。

私はうぐいす色の背中を見つめて、大きく息を吸い込んだ。

「そっ……そうですっ、教育上よろしくないです!

 この仔も嫌がってますよ……!」

めいっぱいの大声は震えてしまったけど、ちゃんと彼女に届いたんだろう。

少しの間考え込むように動かなくなっていた手が、ゆるゆると下ろされた。だけどその手は、きつく握り締められている。きっと、はらわた煮えくり返ってるに違いない。

彼女の口から舌打ちが聴こえてきた。





べち、と情けなくコミカルな音と一緒に床に落ちて、気を失って呻き声のひとつも発する気配のない春日先生に、彼女が近づく。

どちらからともなく溜息を吐き出して脱力していた私達は、彼女が動いたことに体を強張らせた。

「あのっ」

堪らなくなって声をかければ、彼女が白い髪を揺らして振り返る。そのカオには、うっすらと笑みが浮かんでいるけど……。

ネコミミが、へたりと萎む。

彼女は、私と視線を合わせて口を開いた。

「心配ない。

 わたしも少し、冷静になったつもりだ」


すぐ傍まで近づいた彼女は、立ったまま先生の上に手をかざす。

すると、先生の頭の上に、小さなうぐいす色の炎が現れた。綺麗な炎はゆらゆら揺れながら、彼女の手のひらに向かって飛んでいく。

彼女は浮かんできた炎を手のひらに乗せて、息をひと吹き。ゆらりと炎が揺れて、ぱっとオレンジ色に変わった。

「命拾いしたな、憎らしい……。

 ともあれ――――お前は猫が苦手で、近寄れない。

 化け猫や妖怪の類など、現実世界にいるわけがないと思っている。

 そして、生徒には基本的に興味がない」

そう炎に向かって話しかけたあと、彼女がもう一度息を吹きかける。

色の変わった炎は、ゆらゆら揺れながら再び春日先生の額から、その中に入っていった。

「記憶を書き変えてる……?」

小野寺くんが、隣で呟く。

私はそれに頷きながら、固唾を飲んで見守っていた。


炎が先生の額に吸い込まれていくのを見届けた彼女は、静かな声で告げた。

「今日お前は、残業をして遅くなった。

 怪我があっても、それは帰る途中で酒を飲んで、転んだからだ。

 わたしたち猫の一族のことは、一切忘れてしまえ。

 ――――――さあ、行け」

低い声で呪文のように言葉を並べたあと、彼女が数歩下がる。

すると春日先生が、むくりと起き上がった。


「や……っ」

気絶してるとばかり思い込んでいたから、急に動いたことに驚いた私は、思わず小野寺くんの後ろに隠れる。正直、ぼこぼこの春日先生になら勝てるような気がするけど、条件反射だ。

「え、ちょ……」

小野寺くんがあわあわしていると、起き上がった先生が、今度は立ち上がった。そしてあっという間に、そのまま体育倉庫を出て行ってしまう。

私も小野寺くんも、その光景を呆然と見ているだけで。

……大丈夫だろうか。春日先生、目が虚ろで濁っていたような気がする……。まあ、私が心配する必要なんて全然ないんだけど。

「これで、もう何も憂う必要はない」

おもむろに言った彼女を、私は小野寺くんの影から見つめる。


突然起きて動き出して、息を飲んでる間にいなくなった春日先生の姿が衝撃的すぎた。その光景が頭の中の大部分を占めていて、彼女に言われたことの意味がよく分からなかった。

憂う、なんて。日常生活ではあんまり耳にしない単語だから。


混乱しつつも彼女の台詞を理解しようと、私が内心で首を捻った瞬間。

がばっ、と音がするくらいの勢いで、小野寺くんが私の手を掴んだ。


「小野寺くん?」

咄嗟に顔を上げた私は、小首を傾げて。

突然のことにびっくりして、ネコミミもぴくぴくしてる。

すると目が合った彼が、何も言わずに掴んだ手を思いっきり引いた。

埃まみれのブレザーに、ばふっ、と私の額がぶつかる。

「ぶ」

思わず零した声が、ごわついた布地に吸い込まれていく。

それと同時に小野寺くんの腕が、ぶつかった私を力任せに抱きしめた。

今度は肺が押しつぶされて、いろんな空気が口から溢れ出る。驚きとか痛みとか、一瞬の気持ち。くは、と体から捻りだされていった。


ほんの少し腕が緩んだのを見計らって、私は空になった肺に酸素を取り込む。そして、はぅ、と息を吐きだした。

小野寺くんの心臓の音が、ブレザー越しでもちゃんと聴こえてくる。

そのことに、なんだかほっとする。

私は、そっと手を伸ばした。触れるかどうかの力加減で、抱きしめ返す。

「小野寺くん……?」

囁きに、返事はなかった。

だけどその代わりのつもりなのか、彼の顎が私の肩に食い込んでくる。ちょっと重い。痛いし。痛いけど、それはちょっとだけ心地よくて。

だから、ほんの少しだけ私は腕に力を込めた。

そして手のひらで、小野寺くんの背中をぽふぽふ叩く。

「おのでらくん」

彼の肩越しに、彼女の姿が見える。ちょっと呆れたような、そんなカオの彼女が。

私はもう一度、ぽふぽふと彼の背中を叩いた。今度は少し強めに。

すると彼が、ぼそりと囁いた。

「うるせー」



肩越しの彼女は、やっぱり呆れたカオをしてる。

白い髪と赤い瞳が、いつの間にか黒髪黒目に変わっている。

それを見てやっと、私はいろんなことが片付いたんだと気がついた。




「……よかった」

私は小野寺くんの柔らかい声を、彼の心臓の音と一緒に聞いていた。









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