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2月13日(木) 18:00









「綾乃!」

――――そう叫んだ小野寺くんの声が、遠くに聴こえた。



自分の輪郭がぼやけて、何がなんだか分からない。意識が浮き沈みして、私はうっすらと目を開けたり閉じたりを繰り返していた。


体の芯が熱い。鼓動の音が内側で暴れてる。

繋がれた手の隙間にお香の甘い匂いが流れ込んで、小野寺くんの手から私のそれを剥がそうとしてる。温もりを失う感覚はないのに、自分が何かから切り離される不安と恐怖がせり上がってきた。

それはうわ言のように、私の口から溢れだす。

「あ……ぅ、あ……」

「もういいだろ!」

困惑と焦りの入り混じったような声が飛ぶ。すごく遠くにいってしまったと思っていた小野寺くんは、まだ傍にいてくれてたみたいだ。

その声がすぐ近くで聴こえたことに安心した私は、そっと息を吐きだした。

ぼんやりした視界の中で、白い何かがゆらゆら揺れてる。

ぶつぶつと低い音が連なって、私に向かって飛んできた。その音は虫の羽音みたいに煩くて不快で。頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわされる。

体の芯から熱が奪われるような気配に、嫌悪感が募っていく。

あまりの気持ち悪さに目を閉じて唸った私の傍で、小野寺くんが何か叫んでるみたいだ。何を言ってるのかは分からないけど、その声は悲痛な響きを纏っていた。それに反論するような春日先生の声も聴こえてくる。やっぱり、何を言ってるのかは分からないけど。


私は目を開けなくちゃいけない気がして、重たい瞼を持ち上げる。

すると、小野寺くんが何かを言った。

聞き取れないし、聞き返すのも面倒で。私は彼の姿を探すのを止めた。

そしてふと、狭まった視界の中に紅いものがあるのを見つけた。暗がりの中で、それはすごく鮮やかに見えた。なんだろう、と思ったのも束の間、治りかけの膝をまた擦りむいたんだと思い至る。

また、お風呂入ったら沁みちゃうなぁ……。

私は全身から力が抜けていくのを感じながら紅いものを見つめて、そんなことを考えていた。


その時だ。

何かが軋むような割れるような、重い音が響いた。

ずぅぅん、という音と一緒に、振動を感じる。


刹那、ボォウッ、という音と同時に、視界の隅で小さな炎が――――うぐいす色の、宝石のように綺麗な炎が上がった。





「――――あ……」

誰のものか分からない声で、私は我に返った。

お香が、白い皿ごと灰になって飛び箱の上に積もっていた。



視界がくっきり、はっきりしてる。月明かりが宙に舞う埃をキラキラと輝かせてる様子も、頬を寄せた小野寺くんのブレザーの布地が擦れて、少し毛羽立ってるところも。それから、再び擦りむいた膝から滲む赤い血も。

認識しちゃった途端に感じた地味な痛みに、私は思わず顔をしかめた。

「痛い……」

なんだか我慢ならなくて呟けば、小野寺くんが弾かれたように私の顔を覗き込んだ。

「だいじょぶか」

その目はものすごく真剣で。なのに、ちょっとだけ悲しそうで。引きこまれるようにして、私の視線が彼の瞳に吸い込まれていく。

言葉が上手く出てこなくて、私はこくりと頷いた。

お香の匂いを嗅いだ自分がどう見えてたのかがよく分からないから、どう言えばいいのか……。でも、きっと心配をかけてたんだろう。

小野寺くんは視線を返した私を探るようにじっと見つめてから、息を吐きだした。

「ほんと、勘弁してくれよ……」

くしゃりと顔を歪めた彼の手が、私の汗ばんで頬に貼りついた髪を払ってくれる。言葉の割に、ものすごく丁寧に。

「ご、ごめんなさい……」

我に返って気づいたけど、背中も汗を掻いて気持ち悪い。もしかして何かと一戦交えたあとなのか。真夏に電車に乗り遅れそうになって、駐輪場から走った時に似てる。

それに、いつの間にか座り込んでしまったみたいだ。小野寺くんもそんな私を放っておけなかったんだろう、抱きかかえるようにして、一緒に座り込んでる。

……制服、2人共埃まみれだ。これは家に帰った時の言い訳を考えないと。


そうして束の間、自分の置かれた状況を考えていると、ぎぎ……という錆ついたものの動く音が倉庫の中に響いた。

春日先生が息を飲んで、数歩後ずさる。かくん、と不自然な動きは、さっきまでの余裕に満ちた彼と同一人物だとは思えないほど。表情までは窺えないけど、声が出ないくらい驚愕してるのは分かる。

全身の倦怠感と不快感で動けない私は、目で先生の見つめる先を辿った。

その瞬間。

風が、勢いよく吹きこんだ。


吹きこんできた風は体育倉庫の中でぐるぐる渦を巻いて、漂っていた埃を巻きあげる。

「わ、ぶっ……!」

疲れ切った私はそれに上手く対応出来なくて、思い切り埃っぽくなった空気を吸い込んでしまった。小野寺くんが咄嗟に腕の中に庇ってくれるけど、咳が止まらない。

「勝手に開いたのか……?!」

けほ、と咳をした小野寺くんの漏らした呟きが聴こえて、私はもぞもぞと腕の中から顔を上げた。

見れば、扉が少しだけ開いている。でもだからって、おかしいんじゃないか。いくら寒い時期だからって、こんな強風が……。

上手く働かない頭で考えて、私は呼吸を整える。

すると今度は、ぎぎ……と音を立てて扉が閉まった。同時に、ちりん、と鈴の音が響く。



あっという間の出来事に、言葉が出なかった。

それは小野寺くんも同じだったのか、絶句したまま私を閉じ込める腕にぎゅっと力を込める。

「く……っ」

呻いたのは、春日先生だ。彼は超常現象を前にしても何とも思わなかったのか、ある場所を睨みつけるようにして身構えていた。

お香がなくなったのに、彼の意識は私じゃないものに向けられてる。


何があるんだろう、と内心首を捻った私は、先生の視線の先を追う。そして、白い灰が残されていた飛び箱の上に、真っ白な猫が座っているのを見つけた。

……一体、いつの間に。どうやって……。

おかしい。

だって、飛び箱はずっとそこにあったのに。ずっと視界に入っていたはずなのに。なのに、瞬間移動でもしたかのように、その猫は突然現れた。

「猫……?」

小野寺くんも、何がなんだか分からないんだろう。眉間にしわを寄せて、白い猫の後ろ姿をじっと見つめてる。


猫背、なんていうけど。

その猫は背筋を伸ばし尻尾を体に巻き付けて、耳をピンと尖らせて。そして微動だにしないで春日先生に向き合っていた。

ちりん、と鈴の音が響く。まただ。この鈴の音が、ずっと聴こえて……。

「あ……!」

何かが繋がった感覚に、私は思わず声を零した。

見覚えがある。放課後、校門の辺りで見かけた猫だ。そして、きっと時々聴こえていた鈴の音も、この猫の……。

もしかして、ぶち猫の『きた』っていうのは、この白猫のこと……?


考えを巡らせて見つめていたら、白猫がゆっくりと振り返った。

真っ黒な瞳は濡れるようで、月の光を受けて輝いてる。


ぽっ、とポップコーンが弾けるような音がして、白猫の周りにうぐいす色の炎が現れた。1つ現れたかと思えば次々と現れて、それらは白猫を囲んでふわふわと浮き沈みし始める。

白猫は、うぐいす色の炎を纏ったまま春日先生に向き直った。


綺麗だな、なんて見惚れていたら、小野寺くんの腕が、ぎゅっと力を込めた。

「今度はなんだよ……?!」

降ってきた言葉はどこかヤケクソ気味だ。

「お前じゃなかったのか……?!」

うぐいす色の炎を纏った白猫を睨むようにして、春日先生が言葉を吐きだした。

そして、緊張に強張った彼の腕の中にいるのが苦しくなって、私がもがいた刹那、目の前でうぐいす色の炎が燃え上がった。



炎は煌々と輝いて、白猫を包む。

綺麗なうぐいす色は、見ていて全然熱そうに思えない。だからなのか、私のなかに恐怖や驚愕が湧いてくる気配はなかった。

ヤケクソ気味だった小野寺くんも、言葉を失ったまま固まってる。


ぱち、と炎が爆ぜた瞬間、火柱が立った。

うぐいす色が、鮮やかで燃えるような緑色に変わる。

「や……っ」

それは眩しいほどで、私は思わず小野寺くんの胸に顔を寄せた。目を閉じても、その残像が眩しい。私は息を詰めた。




光の洪水がふつりと途絶えた気配に、何度も瞬きをしてから視線を投げる。

そして、息を飲んだ。


「さて――――――」

真っ白で滑らかな髪が、月明かりに照らされて揺れている。

静かな、波のひとつも立たない湖面のような声。

小野寺くんの鼓動の音が、耳元でばくばく音を立ててる。




私は覚えてる。

目の前に佇む、うぐいす色の背中を――――――。







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