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2月13日(木) 17:40









床の軋む音が、やけに耳に障る。

宙を漂う埃は月明かりに照らされて、キラキラと輝いている。小窓から差し込むわずかな月の光を頼りに、私は床を鳴らしたその人の姿を睨みつけた。


どこかから、チリンという音が聴こえてくる。学校近くの家の猫だろうか。

『こっちくるなっ』

ケージの中のぶち猫が、唸るように言った。ちらりと目を遣れば、全身の毛を逆立てて精一杯の威嚇をしてる。鼻に皺を寄せて、尖った歯をむき出しにして。

「嫌われたもんだな」

威嚇するぶち猫を見た彼は、わずかに肩を竦めた。ケージの中からの敵意なんて、まるで意に介してないみたいだ。

白衣のゆらりと揺れる様が、ものすごく気持ち悪い……。

そう思って視線を逸らしたら、小野寺くんが一歩踏み出して私の前に立った。

「――――嫌われるようなこと、したんだろ」

小野寺くんの声は硬くて、低かった。犬が相手を威嚇する時みたいに。その顔は私には見えないけど、手が握りこぶしを作っているのが見えた。

緊迫した空気に、きつく閉じていた私の口から震える息が漏れる。

ネコミミが小野寺くんの向こうに立つ人の気配を探ろうと、ひくひくしてる。

「まあ、否定は出来ないな」

そう言った白衣の彼――――春日先生の声は、どこか笑みを含んでいた。


『あいつきらい!』

毛を逆立てたぶち猫が、叫ぶように訴える。

私はそんなぶち猫に、もうちょっと待っててね、と囁いてゆっくり立ち上がった。

小野寺くんは「ニット帽を被れ」なんて言ってたけど、きっともう手遅れだ。春日先生は、私達の秘密に気づいてる。このタイミングで春日先生が現れたということは、私達はぶち猫を探し始めた時点で、春日先生の思惑の中で踊ってたんだろう。

だけど、それならそれで正面から立ち向かわなくちゃいけない。私の中に渦巻き始めた何かが、逃げることを拒否してる。

どうしてなのか自分にすらうまく説明出来ないけど、私、春日先生が嫌いだ。


私が動いた気配を察したのか、小野寺くんが肩越しに振り返った。ネコミミを一瞥した眼差しが少し険しくなる。そしてすぐに、目の前の白衣の彼に視線を戻した。

苛立ってるんだよね、きっと。せっかく背中に隠してくれたのに、その間に言われた通りにニット帽を被らなかったから……。

目を伏せて小野寺くんの背中に手でそっと触れた私は、小さな声で「ごめんなさい」と囁いて、視線を上げた。

そして、小野寺くんの肩越しに言葉を投げる。

「この仔をこんな所に押し込めたの、先生ですよね」

小野寺くんを壁にして、っていうのも申し訳ないけど。正直茶髪にピアスが3つの風貌は、すごく頼もしい。

心強さと怒りがあいまって語気を強めた私を、春日先生は小さく笑った。

「それは……ああ、その猫に訊いてみたらどうだ?」

「綾乃」

小馬鹿にしたような言い方をされて、思わず口を開いた私が何か言うより早く、小野寺くんの鋭い声が飛んでくる。

「は」

「――――んなことするなよ」

呼ばれた私が反射的に返事をしようとした次の瞬間、小野寺くんが間髪入れずに言い放つ。その声の硬さに気づいたら、私の中にあった小さな驚きはどこかに消えていった。どさくさに紛れて呼び捨てされた動揺は、とりあえず後回しだ。

「ん、分かってる」

私は小野寺くんの言葉に頷いて、春日先生を見据えた。


倉庫の中は暗くて、小窓から差し込む月明かりだけじゃ春日先生の表情までは見えない。だけど彼の口元が歪んでるのだけは分かって、私は唇を引き結んだ。

すると春日先生の方はそんな私が見えてるのか、苦笑混じりに口を開く。

「まあ頭についてる耳さえ見れれば、話をするには十分だ」

小野寺くんの鋭い声も意に介さなかったらしい先生の言葉に、私は訝しげに呟いた。

「話……?」

「……という名の要求、だろ」

わずかに振り返った小野寺くんが囁く。

「もしくは脅し」

……分かってたけど、どっちにしても私にいいことはなさそうだ。

だけどそれなら余計に、逃げるわけにいかないじゃないか。ぶち猫を人質にした次は何をされるか、分かったもんじゃない。

私は小さく息を吐きだして、春日先生に視線をぶつける。


風が強くなったんだろうか。隙間風が、ひゅー、と高い音を立てている。それに混ざるようにして、時折鈴の音が響く。

『あ……!』

ケージの中で怯えながらも春日先生を睨みつけていたぶち猫が、ふと声を零した。他の猫が近くにいるのを察したのか。

『きたよ、きたよ。

 ねえ、きたってば!』

私は話しかけられて、思わずぶち猫を振り返る。

目が合うと、ぶち猫は懸命に訴えてきた。

『きたの、きたんだよ!

 だして、だしてだしてだしてーっ』

一体何が来て、どうして出してほしいのか……聞き返したいけど、小野寺くんには“ぶち猫とは話すな”って言われてるし……。

「にゃーにゃーとまあ、よく鳴く猫だな……」

春日先生の耳には、ぶち猫がひたすら鳴いてるように聴こえるらしい。苛立ちを含んだ声で、ぶつぶつ呟いている。

その間にも、ぶち猫は『はやくだして、だしてよー!』と半ば錯乱したように喚いていた。

私は視線を戻して、先生に言った。

「……話、聞きます。

 でもその前に、この仔を逃がしてやって下さい。

 このままパニックになって、暴れて怪我でもしたら可哀相です」


ぎぃぃ、と錆ついた扉が音を立てて開く。

「――――ほら」

猫が通れるほどの隙間を作った春日先生が、私達を振り返った。

私は何も言わずにケージを開ける。

ぶち猫が耳をピンと立てながら、辺りの様子を窺った。そして重心を低く保ちながら、忍び足でそろそろとケージから出てくる。髭がアンテナのように伸ばされた。周囲の気配を探ってるんだろう。

「……足、痛くない?」

私は小声で囁いて、ぶち猫の背に触れた。

ぶち猫は一瞬びくっと体を震わせたけど、『へーき……でも、こわい』と囁き返す。そしてゆっくりとした動作で数歩歩いてから、私を振り返った。少し緊張が緩んだ、静かな瞳で。

『ありがと』

「……ん」

短い言葉に、わずかに頬を緩めて頷く。するとぶち猫は、とててっ、と若干よろけながらも倉庫から出て行った。春日先生の前を通る時だけ、物凄い速さで駆け抜けて。




ぶち猫が出て行って、体育倉庫の中は静かになった。聴こえるのは隙間風の音と、自分の鼓動の打ちつける音。それから、時折聴こえてくる鈴の音だけ。

「それじゃ……」

沈黙を破ったのは、春日先生だった。ぎし、と床が軋ませて一歩踏み出した彼の姿が、月明かりに照らされる。白衣の白が、薄気味悪い。

背中が寒くなって、私は思わず腕を擦りながらネコミミに意識を向けた。ぺたん、と倒れでもしたら最後、春日先生に負けてしまう気がするから。

ごくりと生唾を飲み込んだ私の手を、小野寺くんが握った。

じんわり伝わってくる体温は、背中に感じた寒さを吹き飛ばしてくれそうで。私はほんの少しだけ力を込めて、彼の大きな手を握り返す。そして、言葉を続けようとしている春日先生を見据えた。

先生はひとつ息を吐きだして、言った。

「話だけどな……たいしたことじゃない。

 田部、お前に憑いた猫が欲しい」


私は春日先生のひと言を聞いた瞬間に絶句して、頭の中が真っ白になった。

「――――え……」

声を漏らしたのは、小野寺くんの方だ。

繋いだ手のひらが、じんわり汗ばんでいるのが分かる。なんだろう、この見透かされた感じ。まさか、春日先生にストーカーでもされてたんだろうか。

どこかでまた、鈴の音がしていた。

「せんせ、何言ってんの……」

動揺を隠すかのように、小野寺くんが鼻で笑いながら言う。

だけど先生は、そんな彼の反応すら知ってたみたいに平然としてる。

「そんなに驚くことないだろ。

 たまたま見つけた何百年も昔の本を読んで、実体験を得た、ってだけだ。

 お前らよりも、ずっと前にな」

「何百年も昔の本……」

感情のこもらない声を反芻して、私は考えを巡らせた。

すると、月明かりに照らされた先生の口元が、ほんのりと笑みを刻む。

「高橋古書堂、って小野寺のバイト先か。

 あそこに、化け猫についての記述がある古書があるだろ」

「あれを読んだんですか……?!」

思わず口走って、私は我に返った。

――――今の発言、私達が“あれ”を読んだと言ったも同然だ。

しまった、と思っても時すでに遅し。先生が笑いを堪えながら言った。

「“あれ”を高橋古書堂に売ったのは、俺だからな」

その言葉を聞いた小野寺くんは、息を飲んで顔を強張らせた。

「お前らも読んだんだろ?

 でもまあ、“あれ”に書かれた記述は大した内容じゃない」

春日先生の含み笑いがすごく耳障りで、私は顔をしかめる。一生懸命ネコミミを外そうとしてた私達が、馬鹿にされてる気がしてならない。


私だって、早くネコミミとさよならしたい。普通の生活に戻りたい。あわよくば、ニット帽なんか被らないで小野寺くんと出かけたい。

でもこの仔がお母さんと会いたくて、泣いてるから。だから、お祓いしなくてもいい方法がないか、テストが終わったら探すつもりでいたのに。

万が一、春日先生が私に憑いたこの仔を剥がす方法を知ってたとして。それが、すぐに出来るんだとしても。

灰色の仔猫がこの人の手に渡るのは、なんか嫌だ。だったらお母さんが迎えに来るまで、私の中に預かってた方がずっといい。いろいろ不便で面倒だけど、それでも。


考えていたら、体の芯が熱くなっていた。

その熱を感じたまま、私は小野寺くんの手を、ぎゅっと握る。

小野寺くんは私に何か言おうとしてるけど、今は。彼の目を見たら決心が揺らいでしまいそうだから、振り返らない。

春日先生の目を睨みつけるように見据えて、私は息を吸い込んだ。

「話は聞きました。

 でも、この猫は先生には渡しません」

一語一句噛まないように、くっきりはっきり発音してやった。

「あや」

「――――渡さない」

小野寺くんのどさくさ紛れの名前呼びも封じて、私はもう一度告げる。体の芯に膨らみ続けてる熱を、そのまま言葉にして。

「は……?」

先生が、ぽかんと口を開けた。零れた声が床に落ちる。そして何度か瞬きをして、彼は乱暴に頭を掻いた。

「言ったろ、俺の方がいろいろ知ってるんだ。

 そのまま憑かれてたら、お前いつか正気を失うぞ」

そんなの分かってる。今の私の状態が人間の枠を超えてることくらい知ってるし、実感だって十分してる。

そんなことを考えて口を噤んだ私を見て、先生が舌打ちした。

「……交渉決裂か」


コト


白衣のポケットから小さな皿を取り出した先生は、それを飛び箱の上に置く。そして、チャックのついた透明な袋を月明かりにかざす。

「なんだ……?」

小野寺くんが低く呟いた。

すると次の瞬間、しゅぼっ、という音と一緒に小さくて赤い炎が目の前に現れた。ぼんやりと、月明かりを掻き消すようにして輝いている。

「……っ、おい?!」

焦りを含んだ小野寺くんの短い叫びに、私ははっとした。春日先生がライターの火を、おもむろに咥えた煙草に近づけているのだ。

火事でも起こすつもりなのか。だとしたら、すぐに逃げなくちゃ……!

ぞっとして思わず足を動かそうとした瞬間に、白衣が翻った。

「騒ぐな。何も殺そうだなんて思ってない」

咥え煙草のままモゴモゴ喋った先生の手が、ライターをポケットにしまう。そして今度は、透明な袋から何かを摘まんで取り出した。その乾燥したハーブのような何かを、飛び箱の上に置いた小さな皿に乗せる。


ふわりと香った甘い匂いに、私は思わず顔をしかめた。

すると小野寺くんが、弾かれたように私の口元を手で塞ぐ。咄嗟に出した声が、もがっ、とくぐもって大きな手のひらの中で響いた。

「マタタビだ。

 口で息してろ」

小野寺くんに耳元で囁かれて、私は戦慄した。喉が震えて、ひっ、と情けない音が鳴る。あの気持ち悪さをまた味わうのかと思ったら、変な汗が出てきた。

「それだけじゃないぞ。線香も入ってる」

口で息をしていた私の目の前で、春日先生が火のついた煙草を白い皿の上に置く。ぼんやり赤かったものが細かくされたお香に触れて、一瞬だけ輝きを増す。

そして、もわもわと白い煙のようなものが立ち昇った。



春日先生の白い白衣が、呪術師の衣装に見える。怖い。

「おのでらくん……!」

漂ってきた禍々しい匂いを吸い込まないように出来るだけ呼吸を我慢していた私は、頭がクラクラしてきていた。だんだんと視界が潤んだようにぼやけてくる。

小野寺くんの手の感触だけを頼りに立っていたけど、かくん、と力が抜けて膝から崩れ落ちていく。砂と埃だらけの床は、やっと治ってきた膝の擦り傷に痛い。

「くそ……っ」

小野寺くんの声が、耳元で響いた。私はグラグラ揺れる意識の中で、いつかと同じ温もりを感じて目を閉じる。

「春日、もう分かったから止めろよ!

 憑いてるのはお前にやるから……このままじゃ……っ」

私は掴んでいた小野寺くんの手を握りしめた。

体の芯が熱くて、額に汗が流れる。

「だめだよ……わたしが、かかさまに……」

ああもう、何がなんだかよくわかんないや。

でも暗いところで、灰色の髪の男の子が泣いてるの。それは私にしか見えなくて、聴こえないんだよ。小野寺くん。

「綾乃!」


こんな時まで、疑似彼氏しなくていいのに。

だけど……もしも気絶しちゃったら、また小野寺家に連れてってもらえるかな……。





そうやって現実と意識の中がごっちゃになった時、何かが割れる音が響いた。






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