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2月13日(木) 17:20









カラーペンでたくさん書き込んで彩り豊かになった自分の教科書を、机の上で開く。図書室の、咳払いすら躊躇わせる空気が漂うなか、私はこっそり溜息をついた。




教室の自分の机よりも大きなそれは、古ぼけてはいるけど天板の上にアクリル板が重ねてあって書き物がしやすい。その大きな机はくっつけるまでもなく、ひと繋がりになっている。

お客様用のような雰囲気の椅子に浅く腰掛けて、私は隣でプリントの束と戦っている小野寺くんを盗み見た。

今のところ彼に支給された課題は、生物と数学と国語だ。それぞれ容赦のない量のプリントの束だけど、その中の生物はなんとか終わらせたらしい。小野寺くん、やっぱりただのサボり魔じゃなかったみたいだ。


私は真っ白なルーズリーフを見つめて、手の中でシャーペンを遊ばせる。勉強するつもりで座ってるのに、全然集中出来そうにない。情けないことだ。

理由なんて分かってる。小野寺くんが隣にいるからだ。

さっきの部室での出来事が頭から離れなくて、どうしても落ち着かないのだ。

彼の方はプリントの山をお持ち帰りしたくないそうで、シャーペンを走らせるのに夢中になっている。ぱっと見た感じ、部室でのあれこれを受けて動じた様子はあんまりない。

それはそれでちょっと悲しいものがある……けど。普通にしてくれてるなら、その方が私だって一緒に居やすい。ネコミミのお祓いのこともあるし。


部室でラグビー部員とニアミスした私達は、ぶち猫の捜索を一旦諦めることにした。いくら耳を澄ませてみても、ぶち猫の声が聴こえてこなかったからだ。

そこで小野寺くんが、日が暮れたら改めてグラウンドをぐるりと探してみよう、と言い出した。日が沈む頃になればニット帽を脱いでも目撃される可能性は低くなるだろうし、と。

そういうわけで、夕方まで図書室で勉強して時間を潰そうということになったのだ。教室でも良かったんだけど、「教室に残って何かしてる生徒は珍しいから、そんなことをしたら悪目立ちする」って、小野寺くんが言うから。




テスト前だからなのか、自習スペースで黙々と勉強する生徒は少なくない。図書室に入ってきた時もそうだけど、今はさらに輪をかけて視線を感じる。猛然とプリントと戦う小野寺くんが、よっぽど珍しいみたいだ。

まあ、たしかに。うちの高校には小野寺くんみたいな外見の生徒は少ないから、テスト前のこの時期に図書室に現れて真面目に勉強し始めたら、みんなびっくりする……かも。

彼は周囲の視線も気にすることなく、ガリガリ問題を解いている。脇目も振らずに、って、こういうのを言うのか。

明るい茶色の髪は、よくよく見ると根元が少し黒い。前髪、目にかかって邪魔じゃないんだろうか。ヘアピンで留めてあげようか。

真剣な眼差しは、問題を解くのに手こずっているようには見えない。やっぱり、普段しないだけで勉強は苦手じゃないみたいだ。

私は、頑張れ、と心の中で呟いた。

そして彼の、シャーペンを握る手を見つめる。


……あの時、この手が――――。


背中や腰に感じた小野寺くんの手のひらの感触は、今でも思い出せる。むしろ忘れる方が難しいんじゃないかと思うくらい。頭にこびりついて離れない。

触れたブレザーの硬さや吸い込んだ匂いまでが、自分の中に残ってる。

指先から手の甲へと視線を這わせていた私は、脳裏に翻った光景に思わず息を止めた。同時に、顔に熱が集まってくる。頭のてっぺんから湯気が出てないか心配だ。

ふぅ、と息を吐き出して、ぺちぺちと頬を叩く。思い出して真っ赤になって、動揺して。私は変態か何かか。


するとふいに、猛然と机に向かっていた小野寺くんが横目で私を見た。ちら、と投げられた視線にひやりとして姿勢を正す。

ずっと見てたのがバレたかもと思うと、何も言えなくて。私はごくりと喉を鳴らした。

どうしよう。ものすごく後ろめたい。満員電車で自分の周りの女子高生に睨まれるサラリーマンの気持ちって、こういうのなんだろうか。


そんな下らないことを考えていたら、小野寺くんが小首を傾げた。

「……た?」

図書室の雰囲気を気にしてか、その声は授業中のお喋りよりも小くて。囁きが空調や本を捲る音、人の足音に紛れこんで聞き取りづらい。

私は眉をひそめて、自分の座る椅子をそっと動かした。彼の囁きが聞き取れる距離に。ひと繋がりの机には、机同士の境界線がないから簡単だ。

「どした?

 ……なんかあった?」

近づいた私に、小野寺くんがやっぱり小声で言った。

そっと首を振った私は、手に見惚れて部室でのことを思い出してました、とも言えずに言葉を探す。

「ううん……課題、終わりそう?」

私は、ちょっと疲れた様子の小野寺くんのカオを覗き込んで、当たり障りのない質問をした。








「うん、それじゃ――――」

あんまり遅くならないようにしなさいよ、という母の言葉に頷いて、電話を切る。

コートのポケットに携帯をしまって溜息をついた私は、昇降口のガラス戸を開けて、冷たい風が吹くなか待っていてくれた小野寺くんに駆け寄った。

首を竦めてマフラーに口元を埋めていた彼が、私の気配に気づいて振り返る。

「おまたせしました」

「ん」

かけた言葉に頷いた彼が、目で校門とは反対の方を指す。

「じゃ、行くか」

「うん」

神妙な面持ちで頷き合った私達は、夜の気配が漂うグラウンドに向かった。


ネコミミが、ニット帽の中でひくひく動いてる。右に左に、何かを探すみたいに。

木々の葉が揺れる音や、私達が土を踏む音に反応してるんだろうか。それとも、何かがあることを本能的に感じ取ってるんだろうか。

さすがにグラウンドの真ん中を歩くのは、校舎の見回りをしてる守衛さんの目に留まるかも知れない。そう考えた私達は、フェンスに沿って目隠し代わりに植えられた木の並ぶあたりを歩いていた。

見上げれば、雲のシルエットがすごい速さで流れていくのが見える。その切れ目からは、月が覗いている。まんまるになるのは、明日だろうか。美味しそうな色だ。


「ん……?」

私は小首を傾げた。

強く吹いた風に乗ってどこからか、チリン、と鈴の音が聴こえた気がして。だけど耳を澄ませても、二度目が聴こえてくる気配はない。空耳、だったんだろうか。

「うーん……」

なんとなく視線を巡らせた、その時だ。

「――――わっ」

木の根が土を押し上げてるんだろうか、こぶのようなもので躓いた私は、思わず小さな声を上げた。そして。


ぱしっ


「あ、ぶね……っ」

宙を掴もうとした手が着地したのは、焦りを含んだ言葉を零した小野寺くんの手だった。ぎゅ、と握られて、心臓が跳ねる。

「前見て歩けってー……」

溜息混じりに言われて、私は咄嗟に口を開いた。

「ご、ごめんなさい」

まさか、お月さまが丸くて美味しそうで見惚れてました、なんて言えるわけがない。俯いて呟けば、握られた手が引っ張られる。

その時ふいに、チリンという鈴の音が響いた。まただ。今度は、さっきよりも近い所で聴こえた気がする。

だけどその小さな音を、小野寺くんは不思議には思わなかったらしい。彼は私の手を引いたまま、部室や倉庫の隙間を見ながら歩いていく。

「いないよなぁ……」

ぶち猫のことを本気で心配してることは、6時間目の筆談で十分わかってる。

ネコミミのついてない彼が、薄暗くて視界がよくないなか自分の目で必死に探してるのを見た私は、ものすごく後ろめたい気持ちになった。

手を繋いでドキドキして、転びそうになって良かったとか、そんなことを考えてしまう自分がなんだか情けない。

私は視線を彷徨わせてから、そっと口を開いた。

「あの、小野寺くん……手……」

「ああ……ごめん」

改めて言葉にしてみたら、手を繋いでるのを意識して彼の顔を見ることが出来なくて。恥ずかしさと、気まずさと。いろんな気持ちがない交ぜになった。

そうして視線を落としていたら、小野寺くんの硬い声が聴こえるのと同時に、手が離れていった。あっという間に吹いた風が手のひらから体温を奪っていく。

「えと、こっちの耳で聴いてみるね」

両手を擦り合わせて冷たさを馴染ませた私は、おもむろにニット帽を脱いだ。ぱち、と静電気が起きて、吹いた風に下ろした髪が乱される。


「え、おい……っ」

髪を撫でつけた私に、小野寺くんの慌てたような声がかかった。

ずっと帽子の中に隠してるのは、やっぱり窮屈だ。ぴるぴるぴる、とネコミミが風に揺れる。思えばネコミミが生えてから、屋外で帽子を脱いだのは初めてかも……。

私は、珍しくわたわたしてる彼を見て小首を傾げた。一体何を慌ててるんだろう。

すると目が合った彼が、ぽかんと口を開けて。だけどすぐに我に返ったらしく、開いた口を慌てて手で押さえて、視線を逸らす。

なんだか落ち着きのなくなった彼の口から、くぐもった声が聴こえてきた。首を捻った私は、まわり込んで彼の顔を覗き込む。ネコミミが、ぺたん、と倒れた。

何か変なことでもしちゃったんだろうか。

「小野寺くん?」

「な、なんでもない」

気を悪くさせたかと不安になって尋ねた私に、彼はぼそりと言いながら手を振る。やっぱり、まだどこか挙動がおかしい気がするけど……。

「うん……なら、いいんだけど……」

腑に落ちないながらも私が頷いた、その時だ。


「え?

 ――――え?」

突然聴こえてきた声に、私は弾かれるようにして視線を走らせた。

「田部さん?」

真剣なカオで辺りを見回す私に、小野寺くんが躊躇いがちに声をかけてくる。私はその声をひとまず放っておくことにして、とにかく注意深く周囲に目を遣った。

グラウンドには、人影はないみたいだ。部活がないから照明もほとんどついてなくて、あんまり遠くの様子までは見ても分からない。こういうところに、ネコミミ効果が現れれば良かったのに……。

ひと通り視線を走らせても声の主が近くにいないのを確認した私は、心配そうにこちらを見ている小野寺くんに向き直った。

「……ぶち猫の声、聴こえたの。ちょこっとだけ」

その言葉を聞くや否や、彼の目が見開かれた。

「まじか」

「まじです」

掴みかかってきそうなくらいに前のめりになった小野寺くんに、私は即答する。

『だしてよー……』と芯のない声が、ふと聴こえてきたのだ。

「疲れ切った、って感じの声だった……」

きっと、どこかに閉じ込められて寒さでぐったりしてるんだ。ノラ猫だから、もしかしたら悪意がある誰かの悪戯の標的になってしまったのかも。考えたくないけど、そんな最悪のシナリオが脳裏をよぎっていく。

私が声の感じを思い出しながら告げれば、彼が周囲に視線を走らせた。

「どっちから?」



頭の中に『だして、だして』『こわいよ、こわいよぅ』なんて、ぶち猫の弱った声が響いてる。最初に聴こえた時には、うっすら聴こえる程度だったものが、だんだんと近づいてきてるのが分かる。

私達は並んで、倉庫や部室のドアの前で中から物音がしないか耳を澄ます。こうやって、しらみ潰しに全部の建物を確かめていくことにしたのだ。

声を出して呼びかける、というテも考えたんだけど。人の声に守衛さんが気づいてしまったら困るから、ある程度の見当をつけてからだ。

「ここも違うか」

小野寺くんが、中から猫の鳴き声がしないのを確かめて呟いた。

「次、だね」

私も頷きながら、隣の体育倉庫を目で指す。

頭の中に響く声は、まだ私達の存在に勘付いていないみたいだ。ずっと同じ台詞を繰り返している。


部室3つ分くらいの体育倉庫の重々しい扉の前に立った私達は、それぞれ耳を澄ませた。

ずっと聴こえている声はいくらか強くなって、頭の中に響いてくる。私は目を瞑って、ぶち猫の声との距離を想像してみた。

……だんだん近づいてる気はするんだけどな……。

歯がゆい気持ちに唇を噛む。

すると、隣で扉に耳をつけるようにして中の様子を探っていた小野寺くんが、がばっと勢いよく顔を上げた。

「――――ここだ」

半ば呆然と呟くように言われた私は、一瞬の間をおいて口を開く。

「ほんと?」

そんなつもりはないのに、言葉が鋭くなってしまう。だけど小野寺くんは、そんな私の言葉に表情を硬くしながらも頷いた。

「今の、絶対猫の声だった」

ネコミミの生えた私には聴こえない“猫の鳴き声”だ。

確信があるのか、そのカオは強張ってる。もしかしたら、私と同じように良くない想像をしてるのかも知れない。

私は小野寺くんの腕を、そっと掴んだ。

「呼んでみる」


「そこにいるの?

 いたら返事して」

少しお腹に力を入れて呼びかける。

顔の横についてる方の耳を澄ませるけど、物音のひとつも聴こえてこない。もちろん、ネコミミの方にもだ。

ちらりと小野寺くんに目を遣る。すると彼は、険しい表情のまま頷いた。

私それに頷いて、息を吸い込んだ。扉に手をついて、ぶち猫の姿を瞼の裏に描く。

「助けにきたよ。

 ねぇ、聞こえてる?

 返事して、ねぇ、お願い――――――」

……無事なんだよね、ぶち猫。だいじょぶだよね。

そんな気持ちを込めて、呼びかけた。刹那、頭の中に声が響いた。


『ここだよぅ! こわいよぉ!』


ネコミミが突然の大音量にびっくりして、ぴーん、と尖る。

悲鳴は、猫の鳴き声として小野寺くんにも聴こえたらしい。彼は目を瞠ったかと思えば、すぐさま扉に手をかけた。

「待って小野寺くん、鍵……っ」

「開いてる!」

小声でぴしゃりと言い放った彼が、重い扉を開けた。




薄暗い外とは違って、体育倉庫の中は真っ暗だった。上の方にいくつかある小さな窓から、カステラみたいな色の月の光が差し込んでいる。

さっき咄嗟に掴んだままの小野寺くんの腕につかまって、私は倉庫の中に足を踏み入れた。ぎし、と軋む音が不気味だ。

目を擦って、何度か瞬きをする。すると、だんだんと目が暗さに慣れてきた。


「ぶち猫、どこ――――」

どこにいるの、と言おうとした瞬間。


がしゃっ、がたがたがたっ

がたんっ


金属のぶつかる音が、聴こえてきた。

小野寺くんの腕が掴まったままの私を引っ張って、その音のした方へと向かう。普段の体育の授業ではお目にかからない大きな飛び箱やサッカーボールの入った車輪のついたカゴ、三角コーナーやライン引き。そんなものが無造作にごろごろ置かれているところを、縫うように歩いていく。

すると、唐突に小野寺くんの足が止まった。そして小さく息を飲む気配が伝わってくる。

私は彼の背中から顔を出して、視線を巡らせた。

「あ……っ」

視界に飛び込んできたのは、ケージの中で蹲っているぶち猫だった。

暴れて足でも挫いたんだろうか。耳がへたりと倒れてる。

「ぶち猫っ?!」

『いたいよぅ……だしてよぅ……』

その痛々しい声に堪らなくなった私は咄嗟に駆け寄って、ケージの前にしゃがみこむ。そして、丸くなって気だるそうに頭を持ち上げたぶち猫の顔を覗き込んだ。

「だいじょぶ?

 助けにきたからね、出してあげるからね!」

声をかけながらケージの小さなドアについた、かんぬきを外す。

「――――田部さんっ」

かしゃ、と金属のぶつかる音が響くのと同時に、それまで黙っていた小野寺くんが口を開いた。

焦りを含んだ声に、思わず振り返る。そして私が、どうしたの、と尋ねるのを遮るように、彼が口早に言った。

「え、どうし」

「ニット帽被れ、今すぐ!」




初めて見た小野寺くんの緊迫感に満ちたカオに驚いてしまって咄嗟に動けなかった私の耳に、床を踏む音が聴こえた。

私達でない、誰かの。








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