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2月13日(木) 15:50









誰か来るかも――――――小声で叫んだ私の手が、くいっと力任せに引っ張られた。


突然のことに驚いて声を上げる暇もなく、体のいろんな所が何かに絡め取られる。その勢いで、くるっと視界が回転したかと思えば、ぼすん、と硬い布地に勢いよく顔が着地する。

何事かと顔を上げた刹那、間近に迫った小野寺くんと視線がぶつかった。その近さにも驚いて、思わず息を飲む。

そして私が何を言おうかと躊躇った一瞬の間に、彼が動いた。

「しっ……」

険しいカオで唇に人差し指を当てる。

私は反射的に、言葉を混乱する気持ちごと飲み込んだ。


その瞬間、ガコン、という音と共に部室が揺れた。

左のネコミミが、くるりと音のした方に向く。


瞬きほどの間を置いて、部室のドアが開けられたのだと思い至る。息を潜めたまま、ひくっ、と喉が引き攣った。

咄嗟に、手にしたニット帽を被ろうにも小野寺くんの腕の中に閉じ込められて、全く身動きが取れない。両腕が持ち上げられない。

抗議の声を上げるわけにもいかない私は息を詰め、ぎゅっと目を閉じる。自分がどこにいて、どうなってるのかよく分からない。だけど、今は息を殺してじっとしているべきだ。そんなことを察して。


少し離れた所で床が、ぎし、と軋む。

誰かが部室に入ってきたんだろう。

――――見つかりませんように……!

俯いてひたすら祈った。

ぎし、ぎし、と短い間隔で音が続く。

硬い布地につけたおでこから、鼓動の打ちつける音が伝わってくる。その音に不安を煽られた私は、手探りで小野寺くんの制服の裾を掴んだ。


緊迫した空気が肌を刺す。

いざとなったら小野寺くんの背中に隠れてニット帽を被るつもりで、私は毛糸の感触を確かめた。きゅ、と握り締めれば、手のひらが汗を掻いてるのが分かる。ずっと口を閉じてるっていうのに、喉はカラカラだ。

床の軋む音に、ばさばさばさ、と何かを乱雑に扱う音が混じった。おそらく長机に散乱していた雑誌を触っているんだろう。

ネコミミを見られるかも知れない、という緊張がほんの少し遠ざかった気がして、私は目を開けた。

目の前にはブレザーの布地。小野寺くんは名札なんか付けないうえにサボり魔だから、制服も他の2年男子に比べたら綺麗なものだ。


「っかしいなぁ……ここだと思ったんだけど……」


――――男子の声だ。

呟きを捉えて、私はわずかに目を瞠った。

先生じゃなくて良かった。少なくとも、部室に入ったことを怒られたり職員室に連行されたり、担任に報告されたりはしないはず……。

何かを探しているらしい男子が、ぶつぶつ呟きながら雑誌を漁る音が聴こえてくる。

一体何を探してるのか知らないけど、部室にほったらかしにするくらいなんだから、なくて困るものじゃないだろう。早いとこ諦めて、帰って試験勉強に励んで下さい。

そんなことを考えた私が、早く帰れ早く帰れ、と念じていると、ふいに声が響いた。


「おーい、まだー?」


ネコミミがぴくぴく動いて反応する。

どうやら連れがいるらしい。こちらも男子だ。

部室に入ってきた方の男子の舌打ちが聴こえてくる。「あれがないと、勉強に集中出来ないんだよなぁ……」なんて、そんなことを言ってもいた。

参考書でも置いてあったんだろうか。だとしたら、それもなんだかおかしい。だって、こんな男くさい部屋で勉強なんてそれこそ集中出来なさそうだ。

内心で首を捻っていると、少し離れた場所で「あっ……!」と小さな声が上がった。

「あった……!」

感極まったような声だ。

そんなに大事なものを、部室に置き去りにしていたのか。今度からはちゃんと持って帰るようにした方がいいと思う。


ガサガサという物音のすぐあとに、再び床が軋む。そして続いて響いた、ガコン、という硬い音と同時に部室が揺れる。

それがドアの音だと気がついた私は、肩から力を抜いた。

だけどまだ気は抜けない。もしかしたら引き返して来るかも知れないし。

私は目を閉じて、カーテンの閉まる窓の外へと意識を向けた。するとネコミミが、ひくひくと音を探して動き始める。

すると、ラジオのノイズのような雑音が流れ込んできた。

一瞬顔をしかめた私はその中にある、ぼんやりした音に焦点を当てた。聞き取ろうと意識して耳を傾けていると、その音がだんだんとクリアになってきた。

ざ、ざ、ざ――――そんな、砂を踏むような音。さっき聞いたのよりも、ほんの少し軽やか。短い間隔で聴こえて、一音ずつ小さくなっていく。


……帰ったみたいだ。

私がほっとして吐き出した息は、目の前の布地に吸い込まれていった。







ところが胸を撫で下ろした瞬間に、私の体が、ぎゅ、と圧迫された。緊張を吐きだして酸素を取り込もうとしていた肺から、なけなしの吐息が漏れる。

……潰れる。ない胸が潰れちゃう。

ぐむ、と硬い布地が顔に押しつけられて、鼻も潰れそうだ。

そして聴こえてくる、「はー……」という溜息。

吐き出した息が頭の上を通っていく気配を感じた私は、ようやく今まで自分がどうなっていたのか、ということに思い至った。

ほっとして力を抜いたはずの体が、みるみるうちに強張っていく。ぴし、ぴしし……と脳内に響いた効果音と共に、爪先から頭のてっぺんまでが凍りついた。


背中をぐるりと囲む腕と、その先にある手のひらの感触が生々しい。コートの上からでも、片方は腰で、片方は肩甲骨のあたりを掴むようにして引き寄せてるのが分かる。

ずっと緊張してたからなのか、それとも同じ場所に置かれてるからなのか、小野寺くんの手はすごく熱い。

剥き出しの擦りむいた膝にズボンの裾が触れて、チクチクしてる。

鼻先にあるブレザーの布地からは、体育のあとに使うスプレーの匂いがした。どうしよう。なんかクラクラする……。


ふいに彼の体から力が抜けた。くたり、とその肩が傾いで、ブレザー色に染まっていた私の視界の半分くらいが拓けていく。

斜め向かいに、長机の端が見えた。

「あー……」

溜息混じりの声が耳のすぐ上を通過していったのを感じて、私の体が竦む。

不意打ちで羽虫が耳元を飛んでいった時みたいな、肩のあたりが浮いてしまう感覚。だけど夏の寝苦しい夜に驚いて飛び起きる時と決定的に違うのは、その感覚のあとに、火が出るんじゃないか、ってくらいに顔が熱くなることだ。

思わず息を飲んだ私は、心の中で絶叫していた。声にならない声で、一瞬で沸騰した感情を逃がそうと深呼吸をした。

この煩い心臓の音がコート越しに、彼の手のひらに伝わったらどうしよう。

そんなことを考えて、彼の制服の裾を握った手に力が入る。入りすぎて、二の腕がぷるぷる震えるくらいに。


吸い込んだ小野寺くんの匂いに、咽返りそうだ。濃度が高過ぎて体がついていけてない。頭がクラクラして鼻血が出るかも知れない。

どうしよう小野寺くん。バレンタインは明日なのに。もうチョコも作ってあるのに。私、発熱で学校をお休みするかも知れません……。

――――ああでも、もしかしたら。

離れたいと思うのに、同じくらい“今だ”と思ってしまう。

もう明日まで待たなくても、ここでいいんじゃないか。このまま、顔がよく見えないまま勢いで言っちゃえば楽になるような気がする。

でも――――。


「……ごめん」

ぴる、とネコミミが震えて、小野寺くんが溜息混じりに呟きながら体を離した。

今までに何回か聞いてきた言葉なのに、ものすごく重みがある。ぐるぐると頭の中を巡っていた思いが、そうさせてるんだろうか。

「ん……」

感じた寒さに手を擦り合わせた私は、曖昧に頷きかけて我に返った。小野寺くんの制服の裾に皺が出来て、くしゃくしゃになってるのに気がついて。

「わ、ごめ……っ」

慌てて手のひらで皺を伸ばすけど、もちろん伸びるわけがない。

私は申し訳ない気持ちで頭を垂れた。私の23センチの靴と、小野寺くんの靴の爪先が向かい合ってるのが見える。

情けないような悲しいような、自分でもよく分からない気持ちでその光景を見つめていたら、ふいに大きな手が、ぽふ、と頭に乗った。

「ああ、別に気にすんな。帰ってアイロンかければ元に戻るし。

 こっちこそ、その……怖がらせるつもりはなかったんだけど……悪い」


その手は、いつもと違って遠慮がちだった。










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