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2月3日(月) 8:15









目が覚めて、飛び込んできたのは天井だった。







――――がばっ



朝だ。

音を立てて起き上がった私は、ものすごい勢いでベッドから下りた。

いや、下りたつもりだった。

ぼてっ、という鈍くて残念な音と一緒に、体が崩れ落ちる。

「はぇ……?!」

おまけに声にも力がない。ひょろひょろだ。

自分の情けなさにびっくり、そして戸惑うしかない。

……なんだ、なんなんだ……。

「いたた……」

打ったお尻を擦って、ベッドにしがみつく。

何かに掴まって立ち上がれば、かくかくと揺れる膝も何とか騙せそうだ。

ベッド横のミニテーブルに置かれた時計は、7時40分を指している。

瞬きをしても、針の指し示す時刻は変わらない。

ああ、これはあれだ。

遅刻するかも知れない。



――――遅刻?!


我に返って、顔から血の気が引いた。

遅刻は3回で1回の欠席扱い。欠席日数が増えたら、もちろん推薦枠はもらえない。推薦枠をもらえなくなったら、大学には自力で入学しなくちゃいけない――――!

「うそぉぉ……!」

気持ちは焦るのに、体は思い通りには動いてくれない。

足はかくかく震えてるし、体重を支えてる腕はぷるぷるしてる。

こうしたい、という意思が神経を伝っていかない感覚。体の中の命令系統がめちゃくちゃだ。

「う、うぅぅっ」

唸ってみても、息が詰まって頭に血が昇るだけだった。


……これじゃ自転車なんか、乗れるわけないか……。

ゆっくり息を吐いて、ベッドに倒れ込む。

「あー……いった……」

若干腕がピリピリしてるのは、たぶん気のせいじゃない。

気のせいじゃないし、うっすらと思い当たる節もある。


ひとまず欠席日数のことは頭の隅によけておくことにして、私は深呼吸をした。

うん、まずは落ち着かなくちゃ始まらない。

……とはいえ、だいぶ、記憶があやふやなんだけど────。





昨日、2月2日。日曜日。

私はバイトに出て……チラシに載ってた恵方巻が飛ぶように売れてて……ピークを超えた頃に小野寺くんが来て……帰りに店長とバイト卒業の話をした。

そうだ、帰り道のバス通りで仔猫を見つけて……。

突然体がものすごく痛くなって、息が出来なくて。ああもうダメ誰か助けて、って思ったのが最後の記憶なんだけど……。


「どうやって帰ってきたんだろ……?」

生きてて良かった、それにしても怖かった、とか思うのが普通なんだろうか。

あれだけワケの分からない体験をしたっていうのに、私の心の中は不思議に思う気持ちでいっぱいだった。

一体何が起きたのか、それが気になって仕方ない。

幸いなことに、多少腕や頭がピリピリしてるものの、それ以外に違和感を感じる場所は今のところない。足に力が入らないくらいか。


「ダメだ、思い出せない」

行き止まりにぶち当たった記憶がもどかしくて、思わず頭に手をやる。

すると、手のひらに布の感触が。

「……うん?」

身に覚えのないことに首を捻りつつ、ベッドを支えに立ち上がる。

そしてベッドから椅子へと支えを変えながら、ゆっくりゆっくり歩く。ぷるぷると年老いた犬みたいで、なんとも情けない。

手を伸ばしてハロゲンヒーターのスイッチを入れると、絨毯の上を這う冷たい空気が、じんわり暖められていく。

私は頃合いを見計らって腰を下ろすと、姿見の中を覗き込んだ。



「え?」

鏡の中の私は、頭にネットを被っていた。

包帯が頭頂部と顎を行き来するように巻き付けられて、その上からネットで押さえてあるのだ。

思わずペタペタ触ってしまったけど、血が滲んでる様子もないし痛みもない。怪我をしたから巻いてあるんだろうけど、大したことはないみたいだ。

その時だ。

胸を撫で下ろして大きく息を吐いた私の耳に、母親が弟をどやしつける声が聴こえてきた。下の階からだ。

視線を走らせると、時計の針が7時45分を指している。

弟のトモは毎日7時55分に家を出るから、かなり急かされてるんだろう。

我が弟ながら、だらしのないことである。いや、思春期の男子らしく、毎朝洗面所にこもって入念にヘアスタイルを整えてるのは知ってるけども。

それにしたって朝ごはん、ちゃんと食べた方がいいと思うけどなぁ。成長期だろうに。インフルエンザなんて貰って来てくれた日には、完全隔離してやる。


……なんて、とても平和な感想を抱いた私は、絨毯の上でしばらくじっとして、親子のやりとりに耳を澄ませていたのだった。




飛ぶ鳥をなんとなく目で追っていたら、トントントンと階段を上がる足音が聴こえてきて、私は視線を窓辺から剥がす。

時計はすでに、8時5分を指していた。


控えめなノックのあとに続いて、母親の声が響いた。

「アヤー、綾乃ー?」

彼女は小さい頃の名残で私をアヤ、と呼ぶ。

返事をしようと口を開いた私より早く、母が言葉を続けた。

「入るわよー」

言うなり、部屋のドアがそっと開けられる。

ひょっこり顔を覗かせた彼女は、絨毯の上にぺたりと座り込んでいる私を見るなり、つかつかと中へ入ってきた。

おかしいな。エプロンをした姿が、鎧を身に付けた戦士に見えるのは何故だ。

目の前で仁王立ちになった母は、私の顔を覗き込んで口を開いた。

「気分は?

 頭は痛くない?

 吐き気はしない?」

真顔の母を見上げて、私は小さく首を振る。

「ないけど……」

「そう、良かった」

私の言葉に安心したのか、母は頬を緩めて膝をついた。そのまま手を伸ばして、私のおでこに手を当てる。

洗濯物でも干してきたんだろうか。ひんやり冷たい感触に、条件反射で体がぴくりと反応してしまう。

すると母の目じりにしわが出来て、手が離れていく。

「とりあえず大丈夫そうね」

「んー……」

笑みを浮かべる母と目が合って、私は小首を傾げた。

これは確認しておかないと。

「ちゃんと覚えてないんだけど、私、バイトの帰りに倒れたよ、ねぇ……?」



私の言葉を聞いた母は、大きなため息をついて口を開いた。

「昨日、綾乃は救急車で運ばれたの」

一語一句、噛んで含めるようにして紡いだ言葉が耳から入ってくる。

そしてその意味を理解した私は、ぽかん、と開いた口が塞がらなかった。

「は?」

思わず突いて出た声に、母の顔が歪む。

「意識が戻ってから、やけにフワフワしたこと言ってると思ったけど……。

 寝ぼけてたのかしらねぇ」

「ねえ、ほんとのほんとに救急車で運ばれたの?」

頭に包帯を巻かれてる自分を見たけど、嘘みたいだ。

私は、半信半疑で母を見つめた。

そんな私をまじまじと見つめ返した母は、真面目なカオで言う。

「昨日、バス通りの街路樹に雷が落ちたの。

 その直後に、歩道で倒れてる綾乃を偶然通りかかった人が見つけてくれてね。

 その人が救急車を呼んでくれたみたい」

「かみなり?!」

思わず出した大声に自分でびっくりして、咄嗟に声を落とす。

「私、雷に打たれたの?!」


前にテレビで見た、雷が頭のてっぺんに落ちる映像を思い出して青ざめる。

耳を裂くような音に、眩しい光。それからマネキンの体に残った、痛々しいほどの焦げ跡。

心臓が、きゅぅぅっ、と縮みあがる。


「違うよ、大丈夫」

母は取り乱した私の手を取って、体温を馴染ませるみたいに擦った。

その温かさを感じているうちに、ゆっくりと縮んだ心臓がほどけて戻っていく。

「病院の先生も不思議だ、って仰ってたんだけどね。

 雷がすぐそばに落ちてるはずなのに、ほとんど感電した様子がないって。

 ……いくつか検査をして、問題なさそうだから帰されたの」

私の口から、震える息が漏れる。

瞬きをするたび、雷の映像がちらついて離れない。

「でも、頭の包帯は……?」

恐る恐る尋ねれば、母が苦笑混じりに言った。

「頭のてっぺん辺り、ちょっと傷があるそうよ。

 治療するのに髪を剃ったそうだから、包帯を外してショックを受けないようにね。

 隠しておきたかったら、帽子でも被っときなさい」

「じゃあほんとに、他はなんともなかったの?

 気絶してただけ?」

いくらか早口になった私に、母は静かに頷く。ゆっくりと私の手を擦りながら。

「そうねぇ……。

 頭痛や吐き気がしたら、すぐ病院に来るように、とは言われたけど」

言葉を切った母が、私の顔を覗き込んだ。

眉間には、わずかに皺が寄っている。

「……どこか、変なところでもある?」

その様子を見た私は、なんとなく分かった。

母が私の手を擦り続けるのは、自分も安心したいからなんだろう。

救急車で運ばれただなんて、きっと気が動転したに違いない。

病院の先生に“帰っていい”と言われたって、何もなかったみたいには振舞えないと思う。

「ううん、平気だよ」

ぎこちないながらも口の端を持ち上げて、私は首を振った。






それからも何回か体の調子を確認した母は、1階に下りていった。お腹の虫が鳴いた私を小さく笑って、「何か羽織って下りておいで」と言い残して。


「嘘みたい」

まさか自分の歩いてる所に、雷が落ちるだなんて。

信じられない思いで呟いた私は、頭のネットに手をかける。

……傷の治療のために髪を剃った、って言ってたけど。ちょっとショックだな。手当してもらっておいて、アレだけど。

なんだか悲しい気持ちで息を吐き出したら、外で鳩が鳴いてるのが聴こえてきた。

頭のてっぺんが、なんだかムズムズする。寝てる間に、ムレて痒くなったんだろうか。

「痛々しくありませんように……!」

私は血を見るのが苦手だ。

初めてカミソリで足の無駄毛を処理した時に、手が滑って赤い線がすーっと引かれた光景を思い出しては、未だに背筋が寒くなるくらいに。

母がいる間に一緒に見てもらえば良かったか。いやいや、乙女の頭髪が無残なことになってるのを見られるのも、それはそれで嫌だ。


自分の中で踏ん切りをつけた私は、ネットを外して、くるくると包帯をほどく。

今のところ肌が引き攣れる感じはしない。それに、肌が少しずつ圧迫感から解放されて空気に触れるのが気持ちいい。

私は躊躇うことなく包帯をほどいていった。


そして、ドキドキしながら覗き込んだ鏡に映ったのは――――――髪を剃られて剥き出しになった頭皮じゃ、なかった。


ぴょこん。

三角の形をした灰色のものが、私の頭の上に起き上がる。


思わず、間抜けな声が零れた。

「え?」

頭のてっぺんに2つ現れたそれは、ぷるる、と動いた。

目を、ぎゅぅぅぅっ、と瞑って開ける。

でもやっぱり、目に映る光景は変わらなかった。


流行に疎い私でも、テレビで見たことがある。

こういうカチューシャや髪型がカワイイ、と女性モデルやタレントが話してるのを。

いやいやいやいや、だからって。

これは現実……それとも、ほんとは雷が直撃してて、病院で昏睡状態になって見てる夢だったりとか……。


信じられなくて、そっと手を伸ばす。

すると指先に、ふに、と柔らかい感触。そしてなんだか、くすぐったい。

「えっ?」

まさかと思って、咄嗟に灰色の三角形を引っ張ってみる。

「いたっ」

めちゃくちゃ痛い。

耳が引っ張られたような、キンとした痛みが走って、私は首を竦めた。

そして、もう一度鏡に映る自分の頭を見て、耐えられなくなった私は――――――


「えぇぇぇぇぇっ?!」


絶叫した。




「なんで、なんでなんでなんで……?!」

だって治療のために剃ったはずの部分に、ネコミミが生えるなんて。









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