2月13日(木) 15:25
『せまいよ、こわいよ』
『ここからだして』
たしかに、ぶち猫の声だった。
煮干しをおねだりする時の声とは、全然違う。弱々しい声――――――。
教壇に立っている国語担当の樋口先生の声が、耳の奥に残っているぶち猫の叫びを引き剥がそうとしてる。
私は先生の声を振り払うように、窓の外を眺めていた。耳を澄ませて、かすかな呼び声でも聞き取れないかと、神経を集中して。
ネコミミもその気なのか、ずっとピンと張っている。
持久走が終わって着替えて、6時間目。
お昼ごはんを食べて、運動したあとだからなのか、教室には気だるい雰囲気が満ちていて、男女関係なく船を漕いでる後ろ姿が目に入ってくる。
最近は居眠りなんて滅多にしない私も、ネコミミ効果でうつらうつらしてしまう日が続いてたけど。今日ばかりは、ぶち猫のことが気になってそれどころじゃなかった。
隣では、最近先生達からのプリント攻撃を受け続けている小野寺くんが、与えられた課題をこなそうと必死に手を動かしていた。私の教科書にイタズラ書きをするでもなく、レシートの裏で筆談をするでもなく。
今はサボり魔の小野寺くんも、もともとお勉強は出来る方のようだ。私に助けを求めることなく、ひたすら1人で頑張っている。
ちなみに私達の通う高校は、学力の高い方に分類されることが多い。だから入試を通過するのも、それなりに大変。
……下手したら、小野寺くんの方が勉強出来るんじゃ……。
「このページ、試験に出すからなー!」
窓の外の世界に感覚を向けつつ、小野寺くんの気配を感じていた私の耳に、カツカツと勢いよくチョークがぶつかる音と熱血先生の大きな声が飛び込んできた。
ふと視線を戻せば、樋口先生が黒板に何かを書いているところだった。
いくら気を張っても聴こえてこない声を諦めた私は、ノートの上に放り出されたままのシャーペンを手に取って、先生が黒板に書いている内容を写す。
赤ペンや蛍光ペンに持ち換えながら書き写すうちに、だんだんと耳の奥に残して置いたぶち猫の声が薄らいでいく。
ノートに自分の書いた文字が増えるごとに、よく分からない不安がかさを増す。それは重たくて、頭がグラグラしそうだった。
……探しに行きたい。
黒板の文字を写し終えた私は、物凄い勢いでプリントを処理し続けている小野寺くんの方へと手を伸ばした。そして、私と彼の机の境界線のあたりを、指でそっと叩く。
トントン、という音が、机に吸い込まれて。
機械みたいに動いていた小野寺くんの手が、ぴた、と止まった。
彼は少しびっくりしたようなカオをして私を見ると、目頭を指で揉んだ。それから何回か瞬きをして、その瞳がしっかりと私を捉える。
「……ん?」
集中して書き続けて疲れたんだろう、声が少し掠れていた。
息を吸い込んだ私は、自分のノートの隅にシャーペンを走らせる。“邪魔してゴメン”と前置きをして、ちらりと小野寺くんの顔を見た。
目が合った彼は、頬を緩めてノートに書きこむ。“へーき”と。
その文字がさらっと優しくて、私は頷いた。背中を押されるようにして、彼の書いた言葉の下にシャーペンの芯を当てる。
そして、ひと思いに書きこんだ。
“体育の時、ぶち猫の声が聴こえて、助けて、って言ってた”
早く伝えたくて、文字が乱れる。気持ちと手の動きがちぐはぐで、すごくもどかしい。
書き終えた私は、小野寺くんの横顔を見つめる。こんなに真っ直ぐに彼を見たのは、もしかしたら初めてかも知れない。それくらいに。
……授業中に何してるんだろう、私達。こんなに険しいカオして。
樋口先生の声が、遠い。ぴったりくっついた2つの机の外が、まるで別の世界になってしまったかのようで。
外の声に、ネコミミが反応してる。見張りでもしてるみたいに。
ノートを見ていた小野寺くんの目が、険しくなった。視線が上がって、私にぶつかる。ちょっと怖いけど、でもそれは彼が私の言葉を信じてくれた証だ。だから平気。
「まじか」
思わず、といったふうに零れた言葉に、私は頷いた。
きっと今のは、疑問じゃなくて確認だ。もしくは驚き。
“でも1回聴こえただけで、空耳かと思ったけど、気になって、
ごめん、言うタイミングなくて”
“体育のあとだから、しょーがないだろ
学校終わったら、探すか”
再びノートに書き込めば、言葉が返ってくる。
「……ん」
小さな声で返事をすれば、小野寺くんが頷いてくれた。
それだけのことだけど、胃の底でかさを増していた不安が少し軽くなった気がする。
「――――この辺?」
「うん……」
注意深く視線を走らせる小野寺くんに頷いて、私も辺りを見回す。
校門に向かう生徒が大勢いる中を、私達は校舎に向かって歩いていた。持久走の時と同じようにグラウンドから校舎裏に抜けて、校門から敷地内に戻ってきたわけだ。
手ぶらで校門から入ってきた私達に、時折奇異の目が向けられる。でもそんなこと、今は全然気にならない。
声の聴こえた辺りを見回しても、やっぱりぶち猫はいない。
私が溜息をついていると、小野寺くんが口を開いた。
「教室の中にいる時は、聴こえなかったんだよな?」
問いかけに、こくりと頷く。
「そっか。
外にいる時に聴こえた、ってことは、やっぱり外なんだろうな」
「うーん、たぶん……」
独り言のように呟いて歩きだした彼を目で追いかけた私は、もう一度、と辺りを見回した。だけど視界にあるのは、帰ろうと校門へ向かう生徒ばかり。葉が落ちた木々の枝や花壇にも、それらしい影はない。
電線にはスズメやハトがとまってるけど、私は鳥とは話せないし……。
……やっぱりこの辺りじゃないか。
声の聴こえた周辺にいるだなんて、ちょっと考えが甘かったらしい。
そっと溜息を吐き出して、私は辺りから視線を剥がそうとした。
その時だ。
視界の隅に、サッと動く小さな影が。
「あっ……!」
「どした」
思わず声を上げた私を、グラウンドに向かおうとしていた小野寺くんが振り返る。そのカオは、事情が事情だけに真剣だ。
数メートル先にいた彼が、小走りになって私の所まで引き返してくる。それを足音と気配で感じながらも、私の目は動いた影の行方を追っていた。
ネコミミも、もぞもぞ動いて落ち着かない。
「猫が……でも、どっか行っちゃった……」
校門の外、フェンス越しに見えた猫の姿はあっという間にどこかに行ってしまった。
背後に彼の気配を感じながら呟けば、声が返ってくる。
「アイツじゃなかったんだろ?」
「うん。尻尾、長かったから」
ちらりと見えた影を思い出して答えた私は、小野寺くんに向き直った。
「話、聞ければ良かったんだけど……」
同じ猫なら、ぶち猫の行方を知ってるかも知れない。少なくとも、“怖い人”とか“怖い物”がなかったかだけでも聞けたかも……。
「気にすんな。追いかけたら逃げるだろうし。
とりあえずグラウンドの方、見に行ってみるぞ」
俯いた私の頭をぽふぽふ叩いて、彼が言った。
乾いたグラウンドには、ぶち猫どころか人の気配すらない。当然といえば当然だ。今はテスト前で部活が休みなんだから。
トラック競技に野球やサッカーもここで行うから、やっぱり広い。風が強く吹き抜ける夏の日なんかは、砂埃が舞って大変だったりする。
「真ん中歩いたら目立ち過ぎるよなぁ……」
ただ広いグラウンドを見つめて呟いた小野寺くんの目が、その脇に立ち並ぶ部室に向けられる。そして、何かを考える素振りを見せたあと、「あ」と口を開いた。
どうやら何か思いついたらしい。
私は口を開けた彼を、じっと見つめる。
「田部にゃん、埃っぽいの大丈夫?」
期待していた言葉からはずいぶんかけ離れた台詞に、私の目が点になる。
そんな私を見た小野寺くんは、苦笑を浮かべた。
埃っぽい、っていうか。なんか臭うよ小野寺くん……。
正直な感想を心の中にしまって、ぎしぎし鳴る床を踏む。プレハブ小屋だからなのか、壁のいろんな部分がへこんでる。
無造作というか、散らかってるかというか。誰がいつ持ち込んだのか分からないような物が、そこには溢れていた。
何部なんだか分からないけど、小野寺くんに手招きされるまま入った部室には鍵がかかってなくて。不思議に思っていたら彼が、にしし、と笑った。
「ここ、ラグビー部の部室」
「……そんな部あったんだ……」
「だよな。俺も知らなかった」
聞いたことのない部の名前が出て呆然としていると、小野寺くんも肩を竦める。
「うん?
小野寺くん、ラグビー部だったの?」
彼が私をここに連れて来れた理由が思い当たらず、小首を傾げる。すると彼は、ぽりぽりと指で頬を掻いた。少しずつその視線が、宙に浮いていく。
「たまに、ここでサボってんだ。
部員の奴と知り合いでさ……鍵、かけてないっていうから」
「えぇぇ……」
しょうもない理由に、私は脱力して声を漏らす。
小野寺くんらしいと言うべきか、何というか……。
言葉の出ない私を見兼ねたのか、慌てた様子で彼が口早に言う。
「今はいいじゃんか、役に立ったんだし!
てゆうか今日もちゃんと課題頑張ったし!」
「まあ、そうだけど……」
いつもより大きな声を出した小野寺くんに適当な相槌を返した私は、なんとはなしにラグビー部の部室だという部屋を見渡した。
雑然としていて物が多いけど、人の出入りも多いみたいだ。長机の上には雑誌がたくさん置きっぱなしになのに、その見出しは“3”になってる。人が過ごす場所だけは、ちょっとだけ掃除もしてるみたいだし……。
ここが学校の中にある、っていうのが信じられない。生活感というか、男子がたむろして楽しんでる感がすごい。
何とも表現しづらい感想を抱いた私は、手近に広げられたままの雑誌を閉じようと手を伸ばす。すると、その中のある写真が目に飛び込んできた。
「ん……?!」
ぱち、と瞬きしてピントが合って。
それが何なのか理解した瞬間、物凄い勢いで手を離す。
自分が真っ赤になってるのか真っ青になってるのか分からないけど、とにかく尋常じゃないくらいに心臓が煩く騒いでる。
なんか、変な汗が出てきた。
そうして息も出来ずに目を泳がせていたら、小野寺くんが様子のおかしな私に気がついたらしい。
全身の血が逆流しそうだ。
……あああああ、それは見ちゃダメです!
そんな私の声が届くわけもなく。
「どした?」
小首を傾げた小野寺くんは視線を走らせて――――固まった。そして、ぎこちない動きで雑誌の上にファッション誌を重ねる。
目が泳いでる。小野寺くん完全に目が泳いでる。
それが済むと、何かを堪えていたらしい彼は、息を吐きだした。
「え、と……だな。その……なんかごめん」
ごめん、てことは、あの卑猥な雑誌は小野寺くんの管理下にあったものですか。だとしたら管理不行き届きで「ごめん」が相当かも知れませんけど……!
いやいやそんなことより、小野寺くんもああいう雑誌を読むんですか。お家の本棚には、真面目そうな文学作品がずらりと並んでましたよね。まさか、まさか。もしかしてベッドの下にあるとか。
ああでもでも、万が一バレンタインにチョコを受け取ってもらえて“疑似”でなくなった場合、そういう展開もありえるのか。えーでもまだ早いよね。うん、早いよね。どうしよう、ダイエットしないといけないかも知れない。
小野寺くんの謝罪に対する返事を頭の中で練りに練った結果、私は燃えているのかと思うくらいに熱くなった頬を押さえて俯いた。
「……いえあの、こちらこそ……」
心臓が煩くて声が震えてしまう。
それでもなんとか声を振り絞った私も、最後には目を泳がせた。
なんかもう、ものすごく複雑な心境だ。
……ごめん小野寺くん。ほんとごめん。
哀愁の漂う背中を見つめて何度も懺悔を繰り返していたら、ふいに彼が振り返った。
「いや違うんだ、そうじゃなくて」
「え」
唐突な台詞に驚いて瞬きを繰り返した私に、小野寺くんは頭をばりばり掻いて口を開く。
「あーもー……お互い忘れよう。さっきのエロ本のことは」
「ああうん、そうしよそうしよ!」
思い出した。すっかり頭から抜け落ちてたけど、ぶち猫のピンチだったんだ。
私は頷いて、彼の言葉を待つ。するとすぐに、彼が言った。
「ニット帽脱いだらネコミミの性能がアップしそうだな、と。
それでここに来たんだった……けど、どうだろ?」
すぽん、とニット帽を取る。
部室の窓は2か所。でも着替えることを想定してなのか、どっちにもカーテンがついてるから、外から私のネコミミは見えない。
滅多に外に出ないネコミミが外気に触れて、ぴるる、と震えた。
私はばさばさと頭を振って、ぺしゃんこになった髪を手で梳く。やっぱり、ずっと帽子を被っているのは息苦しいものだ。
その時だ。
「……ん?」
ふいに雑音が聴こえてきて、眉根を寄せる。
ネコミミが、ある方向を向いて動かなくなった。
「どうした……?」
訝しげな小野寺くんの言葉に、私は答えられなかった。雑音にピントが合って、他の感覚が鈍くなっていく。そしてぼんやりとしたものが、音として輪郭を纏って……。
ざ、ざ、ざ、と砂を踏むような――――――。
はっ、と我に返った。
「小野寺くん、誰か来るかも!」
口走った数秒後、部室がガコンと揺れた。




