2月13日(木) 12:37
冷蔵庫から固まった生チョコを取り出して、まな板の上に乗せる。それからゆっくりと、縦横まっすぐに包丁を入れていく。
切れ目からふんわり立ち昇る甘い匂いを吸い込んだ私は、大きめのタッパーにココアを目分量入れた。その中にひと口サイズになった生チョコを放り込む。
最後に軽く振って、完成。
1つ摘まんで口に放り込む。ココアパウダーのほろ苦さと、甘いチョコレートの滑らかな口どけが美味しい。
……なんて。自分で作っておいて、ちょっと褒めすぎな気もするけど。
でも、これだったら美味しいお弁当を毎日作れちゃう小野寺くんの口にも……。
……合うと、いいんだけど。
昨日の変な小野寺くんは、結局ずっと変なままだった。
心配して理由を訊けば怒るし、かといって目が合えば逸らすし。
私が何かしたのかと思って考えてたら、いきなり謝ってくるし。
……なんだかな。
「それで~?
小野寺と何があったって?」
耳に入ってきたなっちゃんの声に、はっと我に返った。
そうだった。今は約束の、お昼のお話タイムだ。昨日の挙動不審な小野寺くんのことを振り返ってる場合じゃない。
なっちゃんは私の顔を覗き込むように見ながら、にやにやと楽しそうに笑っていた。
面白がられてるのが分かるから、なんだか素直に話しづらい。
「別に、何かあったとかじゃ……」
「小野寺と、ってとこは否定しないんだ~」
「あ……っ」
言葉を濁したつもりが、がっちり捕まった。
ぴたりと動きを止めてうろたえる私を目の前に、なっちゃんは楽しそうだ。
「やっぱりかー。やっぱりなー。てゆうか、ちょっと遅い気もするけど」
「な……?!」
なななななにがやっぱりで、何が遅いの?!
唇だけがわなわなと言葉を紡ぐ。夢の中で喋ってるみたいに、もどかしい。
慌てる私に、彼女が口を開いた。そのカオはもう、“何も言わんでいい、分かってるから”なんて言わんばかりで。
「そっか、まあ、明後日はバレンタインだもんねぇ。
それには間に合わせたいとこだよね!」
てゆうかなっちゃん、あなた絶対自分の彼氏さんのこと考えてるよね。バレンタインのことで頭の中がいっぱいだよね。
言葉の最後を笑顔で締めくくったなっちゃんに、私は頷いていいものか悩む。
「いやまあ、そうなんだけど……」
曖昧に頷いた途端、彼女の目が輝いた。
「それで、綾乃は何あげるの? もちろん手作りでしょ?」
なんだかもう、会話が噛み合ってないような気がしないでもない。でも、この気持ちは親友のなっちゃんにしか話せないんだ。
何かを前提にしたらしい彼女の言葉に、私は唸る。
「一応、用意はしたんだけど。生チョコ、手作りで。でも……」
ぽつりぽつりと言葉を零す。なっちゃんは、それを頷いて聞いてくれていた。
だからなのか、波立っていた自分の気持ちがだんだんと落ち着いていくような気がする。チョコを作りながらも輪郭がぼやけてたものが、ちょっとだけ見えたような気がした。
「渡すかどうか、まだ迷ってるんだ」
私は視線を落とした。
母の作ったお弁当。中でも優しい黄色の卵焼きは、小野寺くん絶賛の味で。
おんなじカオを、私が作ったものでも見せてほしいな。とか。
いつの間にか、そんなことを考えるようになってしまった。
お弁当を見つめて、つらつらと考えを重ねていると、なっちゃんの声が聴こえてきた。
「あー……なるほどね。まだそこだったか。
……渡してあげなよ。待ってるよ、きっと」
半分は呟き、残りの半分を私の肩を叩きながら。
その言葉の意味が掴めなくて、私は小首を傾げる。
すると彼女は何度か瞬きをしてから視線を泳がせて、口を開いた。
「その……チョコもさ、役目を全うしたがってると思うわけよ」
分かるような分からないような、という感じで頷いたら、なっちゃんが咳払いをして言った。
「だって好きなんでしょ? 小野寺のこと」
核心をつくひと言に、私は思わず息を飲んだ。体がガチガチに固まって、顔が茹だりそうなくらいに熱くなる。すごく暑いのに頭の中は真っ白で、呼吸のリズムがおかしなことに。
動揺し過ぎて、膝に乗せたお弁当箱をひっくり返しそうになってしまった。
そんな私を見た彼女は、笑みを浮かべる。
「どーどー。落ち着け綾乃」
からかわれてるのかと思いきや、そのカオに浮かんでるのは困ったような笑みだった。苦笑とも違う、優しさを感じる笑み。
彼女の眼差しを見ていたら、“その気持ち、分かるよ”とでも言われたような気がして、私の中でうねっていた気持ちがいくらか落ち着いてきた。
私が小さく息を吐きだしたのを見計らってか、なっちゃんが言った。
「まあ、あたしは綾乃の味方だからさ。
……小野寺にヒドイことされたら、体育館裏に呼び出してぼっこぼこに」
「なっちゃーん!」
後半部分で突然物騒になった言葉を、私は慌てて遮る。
せっかく背中を押してくれて嬉しいのに、そんな脅し文句もらったら、怖くてチョコ渡せなくなっちゃうよ。
だけど、絶叫した私を見てなっちゃんが笑うから、私もなんだか可笑しくて。結局2人してくすくす笑って、元気が出た。
……チョコ、受け取ってもらえなかったら、なっちゃんに弔ってもらおう。
「いったぁ……」
5時間目に体育、しかも持久走。
食べたばっかりで横腹が痛くなるのが目に見えてるから、ゆっくり走ってるつもりだったんだけど……案の定、である。
「ちょっと歩こうか」
ほんとはもっと早く走れるのに隣を伴走してくれてる親友が、心配そうに声をかけてくれる。
私はそれにありがたく頷いて、走るのをやめた。
「ごめんね、なっちゃん」
息はそれほど切れてない。でもお腹は痛い。
横腹を擦りながら言った私に、彼女は小さく首を振った。
グラウンドで監督してる先生からも、「むりすんなー」なんて声が飛んでくる。先生も、5時間目の辛さは分かってくれてるらしい。
校舎裏の辺りまで歩いたところで、なっちゃんがフェンスの向こうに目を遣る。その足は、もう止まりそうだ。
「今日もやってるかなぁ~」
「何が?」
お腹の痛みが少し治まった私も、彼女の視線につられて歩を緩める。すると、フェンスの向こうからホイッスルの音が聴こえてきた。
2人の足が、自然と止まる。
「お、いたいた」
先に声を上げたのは、なっちゃんだった。
彼女はフェンス越し、物置みたいな部室がいくつか立ち並ぶその隙間を指差す。
「ほら」
「ん?」
言われるままに彼女の指差す先を見て、私の唇が“あ”と開いていく。
そういえば、月曜日にもここで小野寺くんの姿を見つけたんだった。あの時は、見たいけど見ちゃいけないような気持ちだったけど……。
小野寺くんがゼッケンをつけてサッカーボールを追いかけているのを見つめながら、私はさして遠くもない日のことを思い出していた。
するとなっちゃんが、グラウンドを見つめる私に耳打ちする。
「――――かっこいい?」
その瞬間、頭の中が爆発した。少なくとも、したと思うくらいに恥ずかしくなった。別に自分のことじゃないのに、顔に熱が集まってきてどうしようもなく暑い。
弾かれたように彼女を見つめた私は、慌てて視線を落とす。そして、どうしたらいいのか分からないまま、頷いた。だってもうバレンタインの話もしたことだし、なっちゃんの前で取り繕っても意味がない。
しょうがない。好きになっちゃったんだもん。
ところが、こく、と私の頭が振れたのを見て、なっちゃんがよろける。
……なんでだ。
小首を傾げた私の隣で、よろけついでにフェンスをがっしと掴んだ彼女は頭を垂れた。がしゃん、とフェンスが揺れて、その口から「くはぁぁぁ……!」などと何やら苦しそうな吐息が漏れる。
「なっちゃん?
だいじょぶ?」
心配になった私は、自分が恥ずかしいのも忘れて親友の肩を擦った。
すると彼女は頭を上げることなくプルプルと肩を振るわせて、「あかん、こんなんみせたらすぐにたべられてまう……!」なんて口走る。しかも何故か関西弁めいた口調で。
よく分からないまま、とりあえず関東生まれ関東育ちの親友の体調に問題なし、と結論付けることにした私は彼女のジャージを引っ張った。
「分かったから、遊んでないで行くよ。なっちゃん」
思いのほか、自分でも驚くほどハリのある声が出た。自分の気持ちを改めて認めたら、なんだか吹っ切れたみたいだ。
「はぁーい」
そんな私に気づいているのかいないのか、なっちゃんがフェンスから手を離した。
校門が近づいてきたところで、私達はどちらからともなく走り出した。
すると私の目がふと、なっちゃんの胸に留まる。たゆん、と効果音が鳴りそうな揺れを、思わず凝視してしまった。
「……なっちゃん、胸おっきくなった?」
何気ない女子の会話。
月末31日に安くなるアイス屋さんで何を食べよう、くらいの何気ない質問に、なっちゃんは大きくうろたえた。
「え?!」
持久走中とは思えないくらいの大きな声だ。
そんな自分の声に驚いた表情を浮かべた彼女は、慌てて後ろを確認する素振りを見せる。そして、私に向かって両手を振った。
「いやいや、そんなこと」
赤い顔が不審だ。目が泳いでるし。明らかに何か隠してる。
そう目星をつけて、私はなっちゃんの顔を覗き込んだ。
「……何かサプリメントでも飲んでるの? 運動とか?」
「う、うんどう……?!」
「あ、運動なの?」
彼女の口から零れた言葉を捕まえて、その目をじっと見つめる。
すると彼女は、はっと目を瞠った。かと思えばすぐに、つー、と私から目を逸らした。たゆん、と胸が揺れる。
「……やだもう聞かないで……!」
真っ赤な顔をしたなっちゃんは、小さな声でそれだけ言うと一気に走るスピードを上げた。持久走レベルとは思えない。私からしたら全力疾走だ。
さすが運動部。その背中がどんどん遠のいて、小さく……。
「……え」
置いてけぼりをくらったんだと気づいたのは、彼女の背中がだいぶ遠ざかった頃だった。
慌てて私も、地面を蹴る足に力を入れる。
真っ赤になって動揺してたのも不思議だけど、“とてもじゃないけど言えません”みたいな雰囲気だったのが気になって仕方ない。変な宗教の怪しいサプリメントとかに手を出してたら、親友として放ってはおけない。
ところが、これは追いついて問いただすべし、と意気込んだその時だ。
「え?」
思わず、私は足を止めた。
聴こえた気がしたのだ。ふいに、ぶち猫の声が。
横腹の痛みに力を失って、さらに小野寺くんのことで恥ずかしくて震えていたネコミミが、ニット帽の下でピンと尖る。辺りの様子を探ろうと、ひくひくと向きを変えようと動く。
嫌な予感に、心臓がぎこちなく打ちつける。
一度だけ聴こえたその声は、助けを求めていた。




