2月11日(火) 13:20
お賽銭を投げ入れたその人は、手にしていた赤い椿の花を賽銭箱の横に置いた。そして鈴緒を掴むと、シャラシャラと鈴を鳴らす。
ゆっくり、大きく2回乾いた音を響かせた彼女は、そのまま静かに俯いた。
ぴくりとも動かないその人を眺めていた私は、あんまり凝視するのも不躾なことに気がついて視線を彷徨わせる。
朱色の鳥居はちょっと年季が入ってるけど、社殿は小奇麗だ。それに、狛犬の代わりなのか対になった猫の石像が、鳥居の傍に鎮座している。その向こうには、いくつもの絵馬がぶら下がる紐が見える。目を凝らせば、絵馬の隅に猫の絵が描かれているのが分かった。
どうやらここが、猫返しのご利益がある、っていう社みたいだ。
……胡散臭い、なんて思って悪かったかも……。
そう心の中で独りごちた私は、一歩踏み出した。
その瞬間、じっと佇んだままだった女性が勢いよく振り返った。
うぐいす色をした着物の裾が翻って、後ずさった草履の土を踏みしめる音がする。
「あ、すみません……っ」
きっと一心に拝んでいたんだろう。
驚かせて申し訳ない気持ちで、私は咄嗟に頭を下げた。
「い、いえ……」
戸惑いの色を浮かべた彼女は、掠れた声をしていた。
目が合ったものの、それっきりというのも気まずくて。どうしたもんかと視線を彷徨わせた私は、そっと口を開く。
「え、っと……。
猫返しの、お願いですか……?」
控えめに尋ねれば、その人がぎこちなく頷く。
「ええ……」
返事をしてくれて、ようやく私はその人の顔をまともに見ることが出来た。ほんの少し吊り上がる目じりからは気が強そうな印象を受ける。だけどその声も表情も、ものすごく控えめでしおらしい。和風美女、という雰囲気だ。
彼女は視線を落として、口を開いた。
「大事な家族が、いなくなってしまって」
家族、か。今やペットも家族として一緒に生きる時代だ。それは金魚がペットの私でも理解出来る。小野寺気のリクを見ていて実感したばかりだし。
「そうなんですか……」
彼女は、きゅっと握ったこぶしを口元に寄せる。きっと胸を痛めているんだろう。口元が少し歪んで、なんだか辛そうだ。
同情した私は、ただひと言だけ口にして頷いた。
「……ちょっと目を離した隙に、見失ってしまったんです。
毎日出歩いて探しているんですけれど、呼べども返事がなくて。
まだ小さいし、もしかしたら知らない人について行ってしまったのかと……」
言葉にも悲壮感が漂っていて、なんだか幼児の誘拐事件みたいな言い方だ。今にも身代金要求の電話がかかってきそう。
「早く帰ってくるといいですね」
ありきたりな慰め文句で申し訳ないと思いつつ、私は彼女に言葉をかけた。ニット帽の下では、ネコミミがもぞもぞ動いている。
すると私の言葉に頷いた彼女が、ふいに眉根を寄せた。
「あら……?」
何かに気がついたらしい彼女の目が、私を射抜いている。覗き込むようでもあり、訝しむようでもあるけど……。
思わぬ視線の強さに気圧されて、私は一歩後ずさる。
「な、何ですか……?」
小野寺くんに詰め寄られるのとは、何かが違う。目の鋭さ……ううん、そういうんじゃない。何か、もっと冷たいもの。
影を縫われたみたいに、動けない。
なんだ、なんなんだ。初対面の人に睨まれるようなこと、してないと思うんだけど。
ああでも愛猫家にとっては失礼な言動があったのか。あったのかな。ないよね。どうなんだ。分からないけど、もしそうなんだったら見てないで教えて下さい謝るから。
じゃり、と草履が土を踏む音がするのと同時に、うぐいす色の着物の裾がゆらりと揺れる。彼女の一重に流れる目は、その間も私を見ていて。
私は、ごくりと生唾を飲み込んだ。何て怒られるのかと考えただけで、心臓がきゅぅぅと縮んでいくような気がした。
「あ、あのぉ……」
かろうじて声を発した私を見て、何かに思い当たったように目を瞠った彼女が、掠れた声で言葉を紡いだ。
「もしやあなた、ね――――――」
その時だ。
はっ、と彼女が息を飲んだ。そして、勢いよく後ろを振り返る。
「――――――あ」
振り返った彼女の向こうから歩いてくる人影が見えて、私は思わず声を漏らした。
小野寺くんだ。なんか知らないけど、ものすごくこっち見てる小野寺くんが来た。
……来てくれて嬉しいけど、なんだか怒られる予感もする。複雑だ。
どんなカオをしていればいいのかと考えていると、ふいに和風美人さんが私に向き直った。
緊迫した空気が流れていたのを思い出した私は、咄嗟に直立不動になる。決して怒られ慣れてるわけじゃないけど、なんとなく、よそ見は禁物な気がして。
だけど息を詰めて、投げつけられる言葉を待っていた私に、彼女は言った。
「……ご、ごめんなさい」
急に気もそぞろになったらしい彼女が、言葉も半分で歩きだす。
「え?」
突然のことに戸惑う私の声は、もう耳に入らないらしい。彼女はパタパタと着物の裾を揺らしながら、庭を抜ける小道を駆けて行った。
「なんだったんだろ……あの人……」
うぐいす色の着物が遠ざかっていくのを見つめて、ぼんやりと呟く。
……とりあえず怒られなくて良かったかも……。
「――――――おい」
着物美女の行方を目で追ってぼんやりしていた私は、低い声に体を震わせた。
声の主は分かってる。分かってるんだけど……。
「えっと……」
恐る恐る肩越しに振り返ってみると、そこにはやっぱり小野寺くんが。
黒縁メガネがお日さまの光を反射して、その向こうにあるはずの瞳がよく見えない。だけど、不機嫌なのは見て分かる。
「は、早かったね……?」
窺うようにして声をかけたら、体を屈めた小野寺くんの顔が、私の目と鼻の先まで近づいてきた。キスシーンみたいな甘さなんか皆無で、文字通り詰め寄られる。
黒縁メガネをかけてても、どこまでいっても小野寺くんは小野寺くんだ。
「田部綾乃」
「は、はいっ」
ぐ、と出来る限り顎を引いて顔を背けたら、がしっと頭を掴まれた。
「ひゃ……っ」
「その辺にいろ、って言ったよなぁ?」
大きな手でバスケットボールみたいに掴まれた私の頭が、ぐわんぐわん揺れる。地を這うような低い声で、小野寺くんのご機嫌が沸騰してるのは分かるんだけど……。
「ごっ、ごめんにゃひゃい……!」
舌を噛みそうになりながら、私は必死に言った。
やっと手を離してくれた彼が、溜息混じりに呟いた。
「ったく……心配させんじゃねーよ……」
くわんくわん目が回って涙目になりながら、私は小野寺くんを見上げる。言いたいことはあるけど、とりあえず心配をかけたのは謝っておこう。この際、ちょっと口が尖ってしまうのは仕方ないとしても。
「……スミマセンデシタ」
形だけでもと謝った私を見て、小野寺くんはまた溜息をつく。黒縁メガネの向こうの瞳が、ジト目になった。
だけど思わず身構えた私と目が合った小野寺くんの顔は、すぐに普段通りに戻って。その口から、ぼそっと言葉が零れた。
「で? ここで何してたの田部にゃんは」
その口調からようやく普通の会話になるんだと感じ取った私は、ほっと胸を撫で下ろして頷く。
「あ、うん。
ふらふら歩いて来てみたら、猫返しの神様を見つけて……」
「ふらふらってあのなぁ……」
溜息混じりに呟きながら、小野寺くんが言う。その視線は、社殿やその傍に奉納された絵馬に向けられたまま。
「そっか、ここが……」
呟きながらひと通り視線を走らせた彼は、私に尋ねた。
「で、田部にゃんはもう拝んだ?」
「ううん、まだ……。
私が来た時、熱心に拝んでる人がいたから」
首を振りながら、脳裏にうぐいす色の和服美女の姿が翻る。
あの寂しそうなカオは、しばらく忘れられそうにない。必死に神頼みをする様子には、ただならぬ悲壮感が漂っていた。
思い出しながらの私の言葉に、小野寺くんが「ふぅん」なんて相槌をくれる。
彼はおもむろに、ポケットに差し込んでいた長財布を取り出した。
「せっかくだから、一緒に拝んどくか」
「え、あっ」
戸惑う私をよそに、彼は10円玉を2枚、ぽいっと賽銭箱に向けて放り投げる。からんからん、と軽い音が響いたのを聞き届けた彼が鈴緒を軽く振って、わたわたする私を一瞥した。
「ほら、早くしろよ」
「う、うん」
鈴の余韻が耳に残る中、口の端に笑みを浮かべた小野寺くんに言われた私は、慌てて手を合わせたのだった。
どうか、灰色の仔猫がちゃんとお母さんのところに帰れますように。
出来れば、穏便な解決方法が見つかりますように。
手を合わせて目を閉じていたら、小野寺くんが「腹減ったなー」とのたまう声が聴こえてきて。なんだ怒りっぽかったのは空腹のせいなんだ、なんて思いつつ、駅に戻るまでの道のりで見つけた牛丼屋さんに入った。
生卵の卵黄だけを乗せるか、それとも全卵かけるか。そんなことを言い合いながらも、お腹がすいていた私はしっかり普通盛りをたいらげて。
ちなみに、紙一重のところで私の方が伝票を取るのが早かったから、支払いは私もち。貴重な祝日を私に費やしてくれたお礼だ。
……小野寺くん、ちょっと不機嫌そうにしてたけど。なんでだ。もしかして牛丼じゃ、お礼には安過ぎたのか。
そうして駅まで戻った私達は、来た時と同じ道のりを戻ることになって。
なったんだけど。
なったんだけど……!
ぴるる、とネコミミがニット帽の中で動いてる。
私は息を潜めるように、電車の揺れに身を任せていた。
こめかみのあたりからは、小野寺くんの規則正しく息をする気配が伝わってくる。頭にのしかかる重みは、思ったよりも軽い。
電車に乗って座るや否や、小野寺くんが言ったのだ。「俺、ちょっと寝ようと思う」と。そして、ほんとに寝てしまった。私が口を挟むよりも早く、私の頭にその頬を乗せて。
小野寺くん、それは早過ぎる。3秒で眠りに堕ちるなんて漫画の世界の話だよ。
私はいろいろ考えた。
そして、思い至った。
これはきっと、授業中の居眠りで頬杖をつく時の自分の腕の代用品として、私の頭を利用したに過ぎないんだ、と。
代用品、代用品。私は代用品。
起こしたら怒られる。それはやだ。
そう念仏のごとく頭の中で無限に唱えていたら、ふいに小野寺くんが身じろぎした。そして、その口からかすかな声が零れる。
どきん、と鼓動が弾けた。今ので寿命が、少なく見積もっても5年は縮まったに違いない。
胸のあたりが辛いのを堪えようと、私は膝の上でこぶしを握った。
同じ車両の乗客がほんの数人しかいないことが、せめてもの救いだ。これは電車の乗り方として、明らかに間違ってる。
そんなことを考えていると、小野寺くんがもう一度身じろぎした。
「んー……」
むにゃ、と何かを言ってるような気配に、また心臓がばくばく煩くなる。これじゃ私の寿命、あっという間に尽きてしまう。
堪えようもなくなった私は、とうとう震える息を吐きだした。
「もぉぉ……」
すーすー寝息を立てる小野寺くんを詰りたいような、起こしたくないような。いろんなものが入り混じった気持ちを吐き出した私は、声には出さずに唇だけで呟いた。
……ぎゃふん。




