2月11日(火) 12:09
電車の揺れと、ぽかぽか陽気。それから、小野寺くんの肩。
ふわふわして、夢とうつつの間を行ったり来たり。
ほんとは、あんまり電車で寝たりしないんだけど。ネコミミが生えてから、どうも眠くて仕方ない。
ぼんやりとした話し声や車内アナウンス、ドアが開閉する音。それらが、まるで分厚いガラスを1枚隔てたような遠さで響いてる。
昨日擦りむいた膝は曲げたり伸ばしたりすると引き攣って痛いけど、そんなこと気にならないくらい、このまどろみは気持ちがよかった。
そうして、私は眠気に誘われるまま意識を手放そうと息を吐きだした。
てしてし、てしてし。
デニム越しに膝を叩かれてるのが分かる。
とはいえまだ頭は朦朧としてて、瞼がものすごく重たい。気だるいし、まだ小野寺くんの肩に寄りかかってまどろんでいたい。起きたくない。
「んー……」
眉根を寄せて、もう一度眠ろうとした時だ。
『ねぇ』
波のように揺れる声が、聴こえてきた。
――――子どもの声だ。
聞き覚えのあるような、ないような。
『ねぇ』
再び、同じ声に膝を叩かれた。
これは、目を開けないと諦めないかも知れないなぁ……。
私は観念して、重たい瞼をこじ開ける。
「うん……なぁに……?」
そして、はっとした。
隣にあって、私が寄りかかっていたはずの気配がなくなってる。
「え……?!
小野寺くん?!」
小野寺くんが、隣にいない。
それだけじゃない。他の乗客もみんな、いなくなってる。
何が起きたんだ。事故か。いや、そんなわけない。じゃあどうして、小野寺くんがいなくなっちゃったの。
「なに、なんなの……?!」
気味が悪い。
怖くなって顔を強張らせた私は、咄嗟に立ち上がろうとした。
そして気づいた。目の前に、和服姿の子どもが佇んでいることに。
開いた口が塞がらなかった。
子どもは、無垢な瞳で私を見上げてる。どうやらこの子が、私の膝を叩いて起こしたらしい。今もその小さな両手は、私の膝に置かれてる。
「あの……?」
何をどう尋ねればいいのか。
いや、そもそもこの子に訊いて何か分かるんだろうか。
そんなことを考えて、私は口ごもる。
するとその子が、私の顔を覗き込んだ。そのカオは、なんだか悲しそうで寂しそうで。
『かかさま、どこ?』
泣きだすのを必死に堪えているんだろう。揺れる声がいじらしい。子どものこういう姿には、バイト中たまに遭遇する。
親を見失って泣きそうになっている子どもを思い出した私は、よく分からないながらも目の前の不思議な子どもに手を差し伸べた。
私の膝の上で力む小さな手のひらに、自分のそれを重ねる。
少し高めの体温が、重ねた手に馴染んでいくのが分かる。それは、私の中にあった不安や恐れを少し溶かしてくれたような気がした。
「かかさま、って……お母さんのこと?」
自分で思ったよりもずっと優しい声が出たことに驚きつつ、私はその子を見つめる。
小さな頭が、こく、と頷いた。
拙い言葉を理解してもらえたことが、嬉しかったんだろうか。無垢な瞳に期待の色が浮かんで、わずかに身を乗り出した。灰色の髪が、さらりと揺れる。
『かかさま、どこ?』
「えっと……」
私は視線を彷徨わせる。
どうにかしてあげたいけど、私はこの子の母親の居場所なんて知らないし、そもそも今日は小野寺くんと約束が……って……。
あれ……?
頭の中に浮上した彼のことを考えて、私は首を捻る。そして、顔を強張らせた。
……小野寺くんは、どこ?
彼の存在がないことに恐怖を覚えた私は、咄嗟に手を離す。
すると目の前の子どもが、私の動揺を感じ取ったのか泣きだした。
『ふ、ぇ……っ』
その子はぽろぽろと小さな目から涙を零して、母親を呼んでいる。
やめて欲しい。私だって泣きたいよ。
そんな気持ちが伝わってしまったのか、子どもの泣き声が激しくなった。
力の限り泣き叫ぶ子どもの声が、私の耳を裂く。
その声に不安を煽られた私は、耳を塞いで口を開いた。
「おのでらくん……!」
どこに行っちゃったの、小野寺くん。
耳を塞いでも、頭の中に直接声が送られてくるみたいに泣き声が響いてる。
怖くて、私はきつく目を閉じた。
「小野寺くん……っ」
がくんっ
電車が大きく揺れた衝撃に、はっと目を覚ます。
一瞬何が起きたのか分からなかった私は、せわしなく視線を走らせた。だけどこちらの緊張とは裏腹に、小春日和の日差しが差し込む車内は温かな雰囲気に満ちている。
自分の中に膨れ上がっていた何かが、この車内におよそ似つかわしくないものだと気がついて、私はそっと息を吐きだした。
……なんだ、夢か……。
心臓がどくどく打ち付けているのを、呼吸を整えて宥める。
「どうした?」
私が目覚めたことに気づいた小野寺くんが、小さな声で言った。
……やっぱり、どこにも行ってなかった。
声がすぐ近くで聴こえたことに安心していると、彼が続ける。
「まだ寝ててもだいじょぶだけど」
ありがたい申し出だけど、さすがにこれ以上目を閉じる気分にはなれない。手のひらが汗を掻いてることに気づいた私は、そっと手を擦り合わせて頭を持ち上げた。
少しの間だったはずなのに、マラソンを完走したような気分だ。すごく疲れてる。
頭が若干くらくらするのを感じながら、私は小さく首を振った。
「うん、もう目が覚めたから。ありがと」
汗が乾いた手が、小刻みに震えてる。体は、あの言い知れない気持ち悪さを覚えてるみたいだ。背中が寒い。耳にこびりついた子どもの泣き声に、物悲しい気持ちになる。
……あの時、あの子の手を取って電車から降りたら良かったのかな。
夢に“たられば”なんて、不毛な想像でしかない。私は内心で首を振った。
「今、何時かな」
気を紛らわそうと、私は携帯を取り出す。
すると大きな手が、私の手を携帯ごと掴んだ。
急なことに驚いて視線を上げれば、そこには黒縁メガネにピアスが3つの小野寺くんが。
思いの外近いし、ここは電車の中という公共の場で。だからいくら疑似彼女だといっても、手を取り合って見つめ合っちゃったりしない方がいいような……。
変な夢から覚めて混乱してる頭でぐるぐるとそんなことを考えていると、小野寺くんがおもむろに口を開いた。
「なんかあった?」
「あ……えと……」
逃げることを許さない目で問われて、私の口から声が零れる。
何を答えたらいいのか考えていると、彼は掴んだ私の手に目を遣った。
「震えてるじゃんか」
囁きは、すごく的確で。
私は観念して、そっと口を開いた。「笑わないでね」と前置いて。
気味の悪い夢の話を覚えてる範囲ですべて話した私に、小野寺くんは頷いた。「そっか」なんて、相槌を打ちながら。そして、話しているうちに落ち着きを取り戻した私に耳打ちした。
「そういえばまだ、ちゃんと話してなかったよな」
車内のアナウンスが、私達の乗り換えるはずの駅の名を告げてる。座っている乗客の中には、もう降りる準備をして立ち上がる人の姿もある。
頭のどこかでは“あれ、降りないのかな”なんて呟いていながらも、私は小野寺くんが耳元で囁く言葉を聞き取ろうと耳を澄ませていた。
彼の目は、開こうとしているドアを見ている。
……えっと、やっぱり乗り換えるんだよね。
言った方がいいのかな、なんて思っていたら、電車の揺れと車内のざわめきの合間を縫うようにして彼が言った。
「雷が落ちた日に俺が見たもの、の話。
……あ。田部さん、ここで乗り換え」
……やっぱりか。
言いながら、小野寺くんは握ったままの私の手を引いて立ち上がった。
「わっ」
半ば引っ張られるようにして腰を上げる私を一瞥した彼は、そのまま電車から降りようとする。そうなると当然私は流されるようにその後を追うことになって、ホームに足を着けた。
ふぅ、と息をついた私を見て、小野寺くんがなんだかご機嫌だ。
そして私は、いつの間にか手の震えが消えていることに気がついた。




