2月10日(月) 16:05
6時限目が終わって、私はほっと息をつく。
すぐ隣で、小野寺くんも脱力してるみたいだ。
チャイムが鳴るのと同時に日直に声をかけた春日先生は、号令をするとすぐに教室を出て行った。
授業中、他の生徒が教科書を音読してる間に教壇に立つ先生と目が合って。にやりと不敵な笑みを向けられて、内心ヒヤリとしたけど……。
視線を走らせれば、教室にはすっかり放課後の緩んだ空気が流れていた。疲れた、どこ行く、明日休みだ……そんな言葉が飛び交ってる。いつもの放課後だ。
「おーい?
田部さん、だいじょぶ?」
唐突にかけられた声で、私は我に返った。
……小野寺くんの方こそ、疲れた声してる。
「ん、平気。
マスクしてたおかげ」
目を細めて言いながら、私はマスクを取る。
ニット帽にマスクだなんて、どこの銀行強盗さんだ。……なんて、何も起きなかった今だから言えるんだけど。
「そっか」
ふぅ、と小野寺くんの口からかすかな溜息が漏れる。授業中ずっと気を張ってたんだろう。ノートの端っこに、何回も「大丈夫か?」って書いてくれてたし。
彼のカオを見ながらそんなことを想像していた私は、教室に残ったマタタビの匂いに顔をしかめて、ほんの少しだけ窓を開けた。冷えた空気が気持ちいい。
そして、どちらからともなく目を合わせた小野寺くんと私は、ほとんど同時に噴き出した。緊張の糸が切れたみたいに。
「あー、疲れたな~」
「うん、疲れた」
何も可笑しくないはずなのに笑みが零れてしまう。
そんな私達を見てギョッとしたカオをしてる人が何人か、視界の隅に映った。くすくすと、教室のざわめきに比べればたいしたことのない笑い声なんだけど。聴こえてたみたいだ。
……そういえば私、クラスの中で笑ったことって、あんまりなかったかも。
自覚はあるけど、だからってそんなに驚かれるようなことかな。あれ、もしかして私の笑ってるとこ、なんか変だったりするの。
「ん?」
思わず小首を傾げれば、小野寺くんが私の視線を追うようにして背後を振り返る。
すると今度は、私を見てびっくりしてた人達が一斉に目を逸らした。特に男子、顔が強張ってる。一体どうしたんだろう。
内心で首を捻っていると、背後を振り返っていた小野寺くんが私の方に向き直った。そして、だるそうに肘をついて溜息混じりに口を開く。
「あー、6時間も授業があると疲れる」
「……でもそれが標準だよね」
また、ぷぷ、と噴き出して呟いたら、ジト目になった小野寺くんに軽く睨まれた。
……でも、もう全然怖くないんだからね。
ずしっ……と、紙にしては重たい音を立てたその束を指差して、小野寺くんがものすごく素敵な笑顔を見せた。
「さ、やるぞ」
小野寺くんが“いろいろ話そう”っていうから、学校を出た私達は黄色いアルファベットで有名なファストフード店にやって来た。2階の隅っこのボックス席に落ち着くなり、彼は分厚いプリントの束をテーブルの上に置いて私に言い放ったんだけど。
マタタビの甘い匂いに辟易した私は、カフェラテにふーっと息を吹きかけてる時に言われた小野寺くんのひと言に、思わず眉をひそめた。
「はいー……?」
ぼそりと呟いたら、向かいに座ってカプチーノに口をつけようとしていた彼が動きを止める。そして紙コップを持つ手の人差し指で、器用に私を指差した。
「“彼氏”の進級がかかってんだぞ、手伝うだろフツー」
何言ってんだよ、青は進め赤は止まれだろフツー……みたいな言い方だけどね。
茶髪にピアスが3つの小野寺くんが、不機嫌そうに頬杖をついて私を見てる。
私はそんな彼の視線にも負けずに口を開いた。
「ノート纏めてあげたんだから、あとは自力で頑張って。
……一緒に3年生になろうよ。ね?」
言葉の最後で小首を傾げたら、目が合った小野寺くんが顔を背けた。耳が赤い。
「お、おう……」
ごにょごにょと口の中で返事をしながら頷くのを見て、私は内心ひっそりとガッツポーズをした。なんか今、ものすごく何かに貢献した気がする。
だけど思わず笑みを浮かべて小野寺くんを見た私は、変な達成感を打ち消した。
「あ、暑い?
お水もらってこようか?」
店の暖房が効きすぎてるのかと思った私が腰を浮かせたら、彼に「そうじゃねぇ!」と思いっきり睨まれた。なんでだ。
プリントの束をひとまず鞄の中にしまった小野寺くんが、溜息混じりにカプチーノを啜ってる。
私はそれを眺めながら、彼に倣ってカフェオレをひと口。
それから、なんとはなしに視線を彷徨わせた。
駅前だからか、座席の8割は埋まっている。そのほとんどが学生みたいだ。あんまり観察するのもどうかとは思うけど、自分と違う制服を見つけて、つい見入ってしまう。
そうしてなんとなく店内を見回していたら、女の子達の声が聴こえてきた。耳に引っかかる言葉が聴こえた気がして、ネコミミがひくひく動く。
無意識のうちにその声を探した私の視線が、少し離れたボックス席に座っている女子高生たちのそれとぶつかる。
私は慌てて視線を落として、持っていた紙コップのふちに口をつけた。
……なにあれ。すごく可愛い子だった。
「――――おい、どうした?」
はたと我に返って視線を上げると、そこには訝しげに私の顔を覗き込む小野寺くんがいた。
それに気づいた途端に、カフェオレの苦味が口の中に広がっていく。
「あ……」
ネコミミがぺたんと倒れて、私は苦味を飲み込んで口を開いた。
「そういえば今日はバイト、ないんだね?」
もうすぐ16時15分だ。この時間になっても黒縁メガネの古書店員にならないんだから、おそらくバイトはないんだろうけど。
そんなことを考えながら尋ねれば、小野寺くんは曖昧に頷いた。頬を掻いて、なんか言い出しづらそうだけど……。
「あー……うん、ほんとはあったんだけど。
諒さんから“来客があるから今日はいい”って連絡がきた」
「そっか……」
理由はともかく、予想通りバイトはないらしい。
彼の声が耳に入ろうとしてるのに、離れた所にいるはずの女子高生の声がそれを邪魔する。
それでも気にしないようにと意識しながら頷いていたら、小野寺くんが、また私の顔を覗き込んだ。どちらかといえば心配そうなカオで。
「なんだよ、急に元気なくなって」
私は小さく首を振る。
やっぱりなんか、こうやって一緒にいるのとか、変なんだよね。
さっきから、あっちの席に座ってる女の子達が小野寺くんのことチラチラ見て、何か言ってるみたいだし。いや、もしかしたら私を見て笑ってるのかも。
成り行きで必要だから付き合ってるフリ、してるけど。学校の外に出たら、そういうのやめた方がいいんだよね、きっと。私の方は、もう小野寺くんは怖くないし、むしろ一緒にいて楽しいくらいなんだけど……。
口を開く前の一瞬でいろんなことが脳裏をよぎった私は、曖昧に頷いた。
「うん、と……最近ネコミミのことに時間割いてるでしょ。
もしバイトも休んでたりするなら、申し訳ないなー、って……」
選んだ言葉に嘘はない。考えてたこととは、ちょっと違うけど。
小野寺くんは苦笑混じりで手を振った。
「――――なんだよ、そんなことか。別にいいのに。
田部にゃんは俺の“彼女”なんだし。当然じゃん」
……そのひと言の破壊力ったらない。
びっくりして叫びたいのを、私はぐっと堪えた。そして一瞬呼吸が止まった自分に気づいて、大きく息を吸い込んだ。
「ぎ、疑似ね。疑似彼女」
……面と向かってなんてこと言うんだ。どぎまぎしちゃったじゃないか。
小野寺くんの言葉に心拍数が上がってしまった私は、つい視線を逸らす。顔が熱い。湯気が出そう。もうダメだ、頭の中がぐつぐつ沸騰してる。
気づけばいろんな気持ちが吹き飛んで、私の耳には雑音が聴こえなくなっていた。
「あ、それでさ」
「な、なに?」
ばくばく煩い心臓を宥めながら、私はかくかく頷く。このダメージから回復するには、あと何ターンか時間をいただきたい。きっとステータス画面には麻痺の絵文字が表示されてるはずだから。
だけど、どんなスイッチが入ったのか小野寺くんは上機嫌で。携帯を操作して、映し出された画面を私に見せた。そこに映っていたのは、石で出来た大きな鳥居だ。
「……ココ。行ってみようと思うんだけど」
そう宣言されて、私は小首を傾げる。
「神社に?
えっと……うん、行ってらっしゃい……?」
自分に求められた回答を想像して呟いたら、小野寺くんの口元が引き攣った。たまに見る、ちょっとイラっとした時のカオだ。これをさらに刺激すると睨まれるのはもう知ってる。
……お、怒らないで下さい。
咄嗟に心の中で謝罪した刹那、彼の口が開く。でも最初に出てきたのは、溜息だった。
「……あー……うん、そうだよな。田部にゃんはそういうコだった」
沈痛な面持ちで頭を押さえて、一体何を言いたいんですか。意味が掴めないながらも、なんだか貶された感があるな。
むっとして口を尖らせた私を見た小野寺くんは、苦笑を含んだ声で言った。
「お祓いだよ」
「お祓い……?」
オウム返しに呟いた私は、小首を傾げて彼を見つめる。ネコミミがニット帽の下で、もぞもぞと動いた。なんだか居心地が悪そうだ。
ピンとこない私の様子に痺れを切らしたのか、小野寺くんが立ち上がる。彼は無造作な動作で、私の隣に腰を下ろした。テーブルが少し揺れて、少なくなった紙コップの中身が波を立てる。そして体の両側を壁で挟まれたみたいに、なんとも表現しづらい圧迫感が。
「え、お」
「ほら」
戸惑って彼の名前を呼ぼうとしたけど、私の声は目の前に突き出された携帯の画面に阻まれた。頬の横に現れた彼の肩のあたりから、体育のあとに使うスプレーの匂いがしてる。
近い。今さらだけど何だこの距離感は。ちょっと視線をずらしたら、小野寺くんの襟足のドアップがあるじゃないか。どうしようどうしようどうしよう。
「この神社、“猫返し”のご利益があるんだって。
お参りした人のいなくなった猫が、戻ってくるとか何とか。
……って、おーい?」
小野寺くんが、私の肩を揺すった。
その揺れで我に返った私は、慌てて口を開く。
「にゃんでもないです……!」
しまった。慌て過ぎた。
そう後悔した時には、もうすでに時遅し。小野寺くんが噴き出した。
「また噛んだ……!」
……そういう、笑いを堪えようとひくひくしてるカオ、最低です。




