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2月10日(月) 12:50









まるでそれは、デジャヴのようだった。

金曜日のお昼休みと同じように、春日先生は背後から近づいて来る。ポケットに手を突っ込んで、飄々と。

肌が、ざわ、と逆立つ。


「もう体調はいいのか?」

隣で小野寺くんが、じっと状況を見守ってる。

何気なさを感じさせる春日先生の口調に、私はゆっくり頷いた。首の動きがぎこちなくて、心許ないけど。

「……はい、だいじょぶです」

その間にも、笑みを浮かべた先生は私達の座るベンチのすぐ後ろまで来ていた。

直接何かされたわけじゃないのに、体が勝手に強張る。背後に立たれると、どうしても逃げ腰になってしまうみたいだ。

ネコミミも警戒しているのか、なんだかそわそわ落ち着かない。

「そうか。なら良かった」

先生は、頷いた私を特に何とも思わなかったんだろうか。会話をあっさり流して、その視線を隣に座る小野寺くんに投げた。

「……で、小野寺」

「なんすかー?」

彼はわざとらしい、軽く演技がかった言葉遣いで返事をした。

ものすごく面倒くさそうにして、ベンチの背もたれに体重を預けてる。なんだか雰囲気が、私の知ってる彼とは違う。

不安と緊張が入り混じった空気を感じて、私は彼の横顔を見つめた。

先生はそんな彼を見て溜息をつくと、呆れたように口を開いた。

「お前なぁ……。

 今日の授業の時にプリントやるから、テスト最終日までに提出しろよ。

 それ出せば、とりあえず2はやるから」

成績の話だ。そういえば、金曜日に理科室に行ったのはプリントを受け取るためだった。

思い出して「あ」と声を零した私を、先生が一瞥する。意味ありげな笑みを浮かべて。

「田部は手伝ったらダメだからな。

 いくら彼氏の進級がかかってるからって、甘やかすんじゃないぞ」

「え~」

不満の声を上げたのは小野寺くんだけ。

私は先生の言ったことを否定することも出来ず、ただ俯いた。改めて他人の口から聞かされると、なんだか恥ずかしくて堪らない。なんだこれ。疑似だって分かってるけど、むず痒くて走り出したくなる。

……彼氏だって、彼氏だって彼氏だって……!

ぷしゅぅぅ、と顔から湯気が出る音が聴こえた気がして、私は小さく息を吐いた。


そして、恥ずかしさを吐きだして息を吸い込んだ瞬間。

鼻先を、甘い香りがくすぐった。

なんだろう……ねっとり絡みつくような、胃がむかむかするような……。

頭のどこかに答えがあるような気がして、私は内心首を捻る。


「――――あ、いたいた」

ふいに春日先生が私達の前に回り込んだ。そして、その場にしゃがみこむ。

弾むような声に思わず顔を上げた私は、突然濃くなった匂いに、はっとした。

……これ、準備室で嗅いだのと同じ匂い……!

たしか、マタタビだったか。意識を失う直前に見たものを、小野寺くんがネットで検索してくれたから覚えてる。

私は背中に冷たいものを感じながら、それが今どこにあるかを探した。そして準備室で見たのと同じものが、ポケットから手を出した春日先生の手に握られてるのが見えて、息を飲む。

不運なことに先生は風上にいるみたいで、匂いがどんどん私の方に向かって漂ってくる。

『いいにおいー。すきー!』

短い尻尾をピンと立て、ぶち猫が駆け寄ってきた。小野寺くんのポケットに入ってる煮干しを目当てにやって来てた、あの仔だ。でも今日は、彼じゃなくて先生目がけて飛んでくる。

それだけ、マタタビの匂いは猫を酔わせるってことなのか……。


私は咄嗟に、持っていたハンドタオルで鼻と口を押さえる。

屋外とはいえ、漂う匂いは弱くない。吸い込んだらまた気絶するかも知れない。そしたらまた、小野寺くんに迷惑かけちゃう……。

するとそれを見ていた小野寺くんが、私の膝の上にあるお弁当箱を掠めるように取る。

「かわいいなぁ、お前」

目じりを下げた先生は擦り寄るぶち猫の背を撫でていて、こちらには気づいていないみたいだ。

片手がハンドタオルで塞がっている私は、空いている方の手を小野寺くんに向かって伸ばした。お弁当箱くらい自分で片付けなくちゃ、と思ったからだ。

だけど小野寺くんの方が速かった。タッチの差でお弁当箱は小さな布バッグの中に収まって、彼の膝の上に鎮座した。

伸ばした手に目を留めた彼が、タオルで半分隠れた私の顔を見て目を細める。それはここ数日で見てきた、私の知ってる彼の優しい時の瞳。

クラクラしつつある頭を、なるべく空に向けて垂直に保つ努力をしていた私は、彼の目を見て少し体から力を抜いた。くたり、と手が落ちる。

小野寺くんは、その寸前で私の手を掴んだ。

ふに、と見た目よりもずっと柔らかい感触と一緒に、この早春の空気の中でも冷え切らない体温が伝わってくる。

きゅ、と握られたら、それが少し心強くて。船酔いみたいに胃の中がむかむかする感覚が、少し和らいだ。


ふぅ、と息を吐きだした小野寺くんが、私の手を握ったままベンチから下りる。そして、少し身を屈めて私に耳打ちした。

「立てる?」

低い声で短く告げられた言葉に、私は小さく頷く。

すると小野寺くんは繋いだままの手をゆっくりと引いた。そして、足の裏に力を入れて立ち上がった私のすぐ横に立って、地面に背中を擦り付ける猫を撫でまわしている春日先生に向かって口を開く。

「春日せんせ、お先に~」

「ん?」

春日先生が振り向いた。

その瞬間、地面が波打っているような感覚がした私は、思わず繋いだ手をきつく握り締めた。小野寺くんの手が、錨の役割をしてくれるような気がして。

ふわふわと頼りない足元を叱咤してなんとか立っている私の顔を、春日先生が覗き込んだ。

「田部?

 お前大丈夫か?」

おもむろに立ち上がった先生が近づいて来る。その手に枝を持ったまま。表情は心配そうにしてるけど、枝を持った手が落ち着きなくそわそわしてるのが分かった。

そのことに気がついた私は、咄嗟にハンドタオルを口元に当てたまま後ずさろうとした。ぶち猫はマタタビの枝を追いかけて先生の足元を纏わりついてるけど、私はそれを持って来られても全然嬉しくない。てゆうか困る。

波打つ地面を大時化の海にされたら、ひとたまりもない。

背中をひやりとしたものが走って、私は生唾を飲み込んだ。

すると私の気持ちを感じ取ったのか、小野寺くんが春日先生の前に割って入ってくれる。

「ストップ!

 動くと足元の猫、踏んじゃうよ」

その言葉に、先生はぴたりと足を止めた。そして、視線を走らせる。

ぶち猫は尻尾をぴんと立てたまま、先生に甘えて擦り寄っていた。時々足元がかくかくするから、きっと酔っ払ってるんだろう。

『うーにゃ、なー』

こんな調子で何て言ってるのかも、もうよく分からない。

春日先生は、数字の8を描くように足元に纏わりつく猫を見て、心底嬉しそうな笑みを零した。そして、マタタビの枝をぽいっと放る。

ぶち猫が、それに飛びついて地面をごろごろ転がった。


「――――これでよし、と」

ご機嫌なぶち猫を一瞥した春日先生が、一歩踏み出した。その歩みを邪魔する猫はもういない。ザッ、と地面を踏む音が聴こえる。

「田部、もうちょい座ってたらどうだ?」

「え……」

おもむろに口を開いた先生の言葉に、私は思わず声を零した。

小野寺くんが、返答に困って口ごもった私が何か言うよりも早く、口を開く。

「や、ここじゃ寒いっすよ」

相手にしてない、と言わんばかりの声色だ。温度がない。

頭の中はぐるぐるしてるけど、小野寺くんが演技をしてるのだけは分かる。だって、繋いだ手はこんなにも頼りがいがあるんだから。

私は握り締めた手に寄り添った。私もそう思うよ、と意味を込めて。

すると先生が、不敵な笑みを浮かべた。

「じゃあ保健室に連れてくか。

 小野寺、お前は教室戻れ。付き添いは俺がするから心配するな」

まさかの発言に、私はぷるぷると首を振る。

断固拒否だ。ここで小野寺くんが退場したら、私は終わる。マタタビにやられて、保健室で寝かされる時にニット帽を取られるかも――――。

果てしなく不安だ。小野寺くん、傍にいて下さい。

そんな気持ちで、彼の腕に自分の肩をくっつける。

その仕草で何かが伝わったんだろうか。小野寺くんは、私の耳元に口を寄せて囁いた。

「ん、だいじょぶ。

 連れてくとしても、俺が一緒に行く」

クラクラする視界の真ん中に彼の顔を捉えた私は、その唇が柔らかく弧を描く瞬間を見て、思わず頷いた。

お日さまの光を反射して、耳を貫通してるピアスが光ってる。

「俺の前でイチャつくなよ。

 ったく……!」

春日先生は私達を見て小さく舌打ちしたあと、校舎の方に向かって歩き出した。地面を転がってご機嫌なぶち猫に、見向きもしないで。

「え?」

小野寺くんが、珍しく間抜けな声を上げる。

すると先生は、肩越しに振り返って口を開いた。

「購買に、ハーブの匂いがついたマスクが売ってる。

 田部は6時限目の俺の授業の時、それつけとけ。

 一応消臭スプレーしてみるけど、あんまり期待出来なさそうだからな」






春日先生の言った通り、お昼のピークが過ぎて人気が少なくなった購買には、ミントカプセルが織り込まれたマスクが売っていた。

もともとは鼻通りを良くするためのものみたいだけど、先生はきっと、マタタビの匂いを誤魔化せる、という意味で言ったわけで……。

マタタビの枝から離れて復活した私は、陳列棚を睨むように見つめて黙り込んでいる小野寺くんの手を引いた。

中庭から繋いだままの手は、最早どのタイミングで離せばいいのか……。

そんなことを思いつつも、小野寺くんの視線がこっちを向いたのを見計らって、私はそっと彼に耳打ちした。爪先に力を入れるのと同時に、彼が少し膝を折ってくれるから助かる。

「春日先生、気づいてると思う……?」

私の囁きに、眉間にしわを寄せた小野寺くんは静かに頷いた。睨むように見ていた陳列棚から、ミントとローズの香りがついたマスクを手に取って。

「それはまあ、ほぼ確定だな。

 ……またちょっかい出されるかも知れないし、離れんなよ」

「う、はい……!」

悪人的な真っ黒笑顔に気圧された私は、かくかく頷いた。









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