2月2日(日) 16:48
マシンガンを打つみたいにマウスをクリックしていた、店長の手が止まる。
「――――そっかぁ……」
彼は眉を八の字に下げて、側に立つ私を見上げた。
眼鏡の向こうの瞳が、曇る。
むやみに従業員を叱り付けず“褒めて伸ばす”が心情の、穏やかで人の良い彼を困らせてるのが申し訳なくて。
「……すみません」
思わず頭を下げた私を見るや否や、彼は慌てたように手を振った。
「いやいやっ、田部ちゃんが学業優先なのは最初から分かってたことだから。
そろそろかと思いながら聞かなかった僕が悪いんだよ。
こちらこそ、甘えちゃってゴメンねぇ」
事務所には、しんみりしかけた空気を吹き飛ばしてくれそうな、賑やかなおばちゃん連中の姿はない。普段はいらんことまで詮索してきて、煩いくらいなのに……。
「いえ……」
私が視線を落とせば、店長が「それじゃ、いつにしようか」なんて言いながら、パソコンを操作する。
そして、だいぶ先までのシフト表を見つめて唸り始めた。
「うーん……ちょっとずつシフト減らして……」
店長、また白髪増えたんじゃないかなぁ……まだ若いのに。
自然と私が見下ろす格好で話を始めたから、彼の頭に白いものが混じってることに気づいてしまって、変に同情してしまう。
大人になったとしても、きっと私には、こういう仕事は務まらないな。
スーパーのレジ係は好きだけど、店全体を管理するとか、無理に決まってる。
3日で辞めちゃったバイトさんの代わりを探して休みの人達に電話かけまくって、ちょっと残業をお願いしただけでキーキー煩いおばちゃん達に、ヘコヘコ頭下げて。
それだけで十分大変そうなのに、たまにチェックに来る偉い人にダメ出しされて。
“社員さん”って大変なんだなぁ、なんて。遠巻きにしか見てられない。自分がその渦の中にいるところなんて、想像も出来ない。
私の将来のヴィジョン……高校受験の時はピンボケだったし、進路希望調査書を配られた高2の夏には、深い霧に覆われて真っ白になった。
小学校低学年の頃には“将来の夢”なんて、ほんとに夢みたいな将来しか考えなかったけど。成長するに従って、夢と将来って別物なんだね、っていう現実が見えるようになっちゃって。そしたらもう、進路は迷路でしかなくなった。
……だから、あと4年かけて将来を考えさせてもらうことにしたんだけど……。
ぶつぶつ言いながらパソコンを操作している店長を眺め、考えに耽っていた私は、突然流れた電子音に我に返った。
節電対策で照明の数を少なくした事務所に、一度くらい耳にしたことのあるようなクラシック曲が鳴り響く。
薄暗い中で蛍光の緑色をしたプッシュボタンがチカチカ光って、やけに明るい音楽が流れるのはちょっと気味が悪い。
……びっくりした。
私が詰めていた息を吐き出すと、店長は表示された電話番号を見るなり、がっくりと肩を落とした。
この短い時間で、また白髪が増えた気がする。
「どうかしたんですか……?」
窺うように尋ねれば、彼はため息をついた。
「本部からの電話だ。
……ごめんね、時間かかると思うから、この話はここで。
ひとまずシフト減らしておくから、次に来た時にチェックしてくれるかな」
受話器に手をかけながら言われて、私も頷くしかない。
帰らないと店長の仕事の邪魔になるのは、目に見えてるし。
「分かりました。
……じゃああの、お先に失礼します」
口早に告げて頭を下げた私は、ぱっと踵を返す。
そして、店長が電話の相手に謝っている声を背中で聞きながら、似たような傘がたくさん置いてある中から自分のビニール傘を探し当てて、事務所を後にした。
「さむ……っ」
思わず吐いた息が、白く虚空に溶けていった。
そういえば、と思い出す。
“今日はこの冬一番の寒さだ”って、天気予報のお姉さんが言ってたっけ……。しとしと降る雨が、夜のうちに雪に変わるかも知れない。
綿のような真っ白な雪が舞う光景を想像して、身震いする。
「うぅ、早く帰ろう」
誰にでもなく呟いた私は、傘を広げて歩きだした。
居酒屋を横目に、お惣菜屋さんの前を通り過ぎる。
お腹の空いてる時に揚げ物の匂いを嗅ぐのは、正直つらい。胃の中の虫が反応して、けたたましく鳴くから、つい80円のコロッケを買いたくなってしまう。
でも、そこはグっと我慢だ。お財布と体型のために。
ため息を飲み込んだ私は誘惑を振り切って、街路樹が立ち並ぶバス通りに出た。
音を立てて擦れ違う車のヘッドライトが眩しくて、思わず目を細める。
すると、その一台が通り過ぎたのを最後に、バス通りが静かになった。
枝から落ちた雨粒がビニール傘にぶつかって、耳元で音を立てる。
それがやけに耳触りで、私は肩を震わせた。
子どもの頃に見たアニメ映画の、女の子が暗がりのバス停で父親の到着を待つシーンが脳裏に浮かぶ。
夢がいっぱいに詰まったファンタジー映画のはずなのに、子ども心にその場面にホラー的な何かを感じた私は、しばらく1人で夜中のトイレに行けなくなったんだよね……。
それにしても胸がざわつく。女性が独り歩きを心配するには、まだ早い時間のはずなのに。
――――なんか、気味悪い。
言いようのない気持ちに足を速めて、家路を急ぐ。
ほんとは駆け出したいけど、そうしたら何かが迫ってくるような気もして出来ない。
ブーツの踵が、コツコツと地面を叩く。
それがだんだんと速くなる。
そんな自分の足音ですら奇妙に感じて、私は動機のする胸を押さえた。
その刹那。
ふと視線を上げた先に、目を奪われた。
「ん?」
眉根を寄せて、立ち止まる。
相変わらず人の姿もなく、車が通る気配もないバス通りの街路樹の下に、灰色の何かを見つけたからだ。
……ゴミ、には見えないけど……。
目を凝らしながら、一歩踏み出す。
「なんだろ……?」
引き寄せられるようにして、近づいていく。
雨粒の音も耳に入らないくらいに、私はその灰色に集中していた。
そして、ようやくそれの形が分かるくらいの距離まで来て、私は気がついた。
「――――猫……」
それもたぶん、仔猫。
うちの近所を我がもの顔で歩いてるノラよりも、ずいぶん小柄に見える。
確認するように呟いた私は、ほっとして胸を撫で下ろした。付き纏う違和感は、やっぱり気のせいなんだ……と。
安心した私は、思わず仔猫に駆け寄りたくなってしまった。
でも、と思いとどまる。
驚かせて仔猫がパニックになったら――――車道にでも飛び出したら大変だ。
最悪の場面を想像して、私はふるふると首を振る。
そして、息を飲んで距離を詰めた。
仔猫は動かない。こっちを見つめて、じっとしている。
「こわくないよー……」
囁きながら、仔猫の目の前で腰を下とす。
みゃう、とひと声鳴いた灰色の仔猫は、真っ直ぐに私を見上げた。口元の髭が、ぴん、と張り詰めている。
私は、ゆっくりと手のひらを差し出した。
すると仔猫は、私の指に鼻先を近づける。ひくひくと動いたそれを見て、匂いを嗅いでいるのだと分かる。
ちゃんと手は洗ってるけど、硬貨をたくさん触ってるから、鉄の錆びたような匂いが染みついちゃってるかも知れない。
鮮魚コーナーで働いてれば良かったなぁ、なんて思いながら見下ろしていると、ふと、仔猫が首輪をしていないことに気がついた。
「……お前、ノラなの?」
何気なく、言葉にした瞬間。
首の辺りがヒリヒリと擦れるような痛みを感じて、私は体を強張らせた。
「なに……?!」
思わず後ろを振り返る。でも、何もないし誰もいない。
そんなことは分かってたけど、なんだか釈然としない。
……気のせい、では片付けられないような痛みだったけど……。
痛む場所を擦って、内心首を捻る。
やっぱり今日は、なんか変。気持ち悪いし、早く帰ろう……。
心の中で呟いた私は、視線を戻した。
小さな灰色の仔猫は、まだ私の匂いを嗅いでいるみたいだ。
ひくひくと動く鼻先は可愛いけど、なんとなく、これ以上この場にいるのも落ち着かない気持ちになった私は、手を引っ込めた。
仔猫が、ぴくっ、と首を竦める。
「ごめんね」
そう言って、立ち上がった刹那。
ばぢゅばぢゅばぢゅっ!
耳元で大きな水音のようなものが聴こえたかと思えば、視界いっぱいに光が溢れて、頭の中までが真っ白に染まった。
咄嗟に蹲って、襲いかかってきた体の内側が痛いような、冷たいような感覚に身を捩る。
そのうち息が出来なくなって、白く染まった視界が真っ黒に塗り潰される。
そして、プツン、とテレビの電源を切るようにして、いろんな感覚が順番に消えていった。
痛くない。苦しくない。でも、意識が霞む。
分かるのは、どこかからヒュー、ヒュー、と隙間風のような音が聴こえてくること。それから、すぐそばで仔猫の鳴く声がしていること。
そして私は、混濁する意識の中で祈った。
……だれか……っ。
ふぅっ、と最後のひと息を吐き出した瞬間、祈りも虚しく私の意識は沈んでいった。




