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2月10日(月) 12:40









「その膝、風呂入ったら痛そうだな」

擦りむいた膝を眺めながら、小野寺くんが呟いた。

私は保健室で消毒して我に返った瞬間を思い出して、頬を引き攣らせる。消毒液が沁みるのも耐えがたいものがあるけど、傷口の血を見たら、これがまた歯が浮くような感覚で……。

「やだなぁ……」

ネコミミが私の気持ちにつられたのか、ニット帽の中でぺたんと倒れる。

すっ転んだ時は呆然としちゃって、足を引っかけられたことも、それだけの悪意を向けられてたってことにも実感がなかった。さすがに間抜け過ぎると自分でも思うけど。





――――――やだ、といえば。


やっぱり教室にいるのが気まずくて、お弁当は中庭で食べることにしたんだけど……なぜか、ここには小野寺くんがいて。しかも私をなっちゃんと小野寺くんが挟むように座ってるもんだから、お互いの距離が近くて。

……って小野寺くん。そのお弁当美味しそうですね。

アスパラの綺麗な緑が、ちょっと焦げがついて香ばしそうなベーコンに巻かれてる。レンコンと人参のきんぴらに輪切りの鷹の爪が乗って、白ゴマが振ってあるのなんか見ちゃったら涎が出そうだ。しかもその隣に鎮座してるのはハンバーグ。照りがあって、すごく美味しそう。大きいお弁当箱って、いろんな種類のおかずが入っていいなぁ……。


そんなことを考えて、生唾を飲み込んだ瞬間。

「……ん」

突然短い言葉と一緒に、私の口元には美味しそうな匂いを漂わせたハンバーグが。

「え?」

ぽかん、と口を開けて視線を上げる。あんまり近いから、なかなか口元のそれに焦点が定まらない。

すると、小野寺くんが私の口にハンバーグをねじ込んだ。

「ほれ」

「う、うぅ?!」

半ばぶつかるようにして入ってきたそれを噛むわけにも、吐き出すわけにもいかず、私は変な呻き声を上げる。

「……んだよ。

 物欲しそうに見てたくせに文句あんのか」

私の反応に不満があるのか、小野寺くんがむすっと顔をしかめた。茶髪にピアスが3つの迫力は健在で、しかも何がしかのお力を振るったあとなのだ。中身が優しい小野寺くんだと分かってても、ちょっと怖い。

「今さら要らないとか、やめろよな。

 あ、卵焼き」

そう言って私のお弁当箱に箸を向けた彼は、あっという間にカニカマ入りの卵焼きを拉致していった。もちろん私が恨みがましそうに見てることなんて、全然お構いなしだ。それどころか、なんだか勝ち誇ってるようにも見える。

「あのねぇ、そういうのは他でやんなさいよ」

……え、そこ。

斜め上のお小言を放った親友に心の中で疑問を投げかけた私は、釈然としない気持ちを抱えてハンバーグを咀嚼する。お弁当に罪はないのだ。

すると小野寺くんが、タイミングを見計らったかのように私の耳元で囁いた。

「美味いだろ?

 母さんを納得させる味になるまで、3年かかったんだ」

全然嬉しくない情報だ。ハンバーグはものすごく美味しいけど。

……小野寺くん、炊事も掃除も出来るなんて。

家事偏差値で負けた私は、何も言い返せなくてただ頷くしかない。


腑に落ちないものを美味しさで誤魔化していると、なっちゃんが思い出したように溜息をついて口を開いた。

「でもまあ、あんた達が仲良くしてれば周りも冷めるのかもなぁ……」

“仲良く”のひと言に、私は思わず顔をしかめた。

隣では、私の卵焼きをもぐもぐして「おぉー」とか何とか、小野寺くんが感心してる。どうやらうちの母は、その実力を認められたらしい。

「体育のあと、何人かに訊かれたんだよね。

 小野寺が面白がって付き合ってるんじゃないの、とか。

 綾乃が実はすっごく……うーん、男好きなんでしょ、とか。

 まあ要は“ワケあり”なんだよね?……って質問が大多数でさ」

言いながら、なっちゃんは私の顔をちらりと見る。途中で言葉を選んだ感があったけど、ほんとはどんな風に訊かれたんだろう……。まあ、いいニュアンスなんてひとつもなかったんだろうけど。

それにしても、と私は無茶苦茶な質問に項垂れた。

「いろいろ違うのに……」

もう、なんなんだ。


私は溜息をついた。

言葉にならない気持ちはあるけど、噂の原因が自分にもあったのは分かってる。だから、一方的に小野寺くんを責めるのは間違ってるんだ。春日先生の件であれだけ助けてもらっておいて責めるだなんて、そんなことしたら罰が当たる。

それは分かってるんだけど……。


そこまで考えた私は、重たくなった頭を上げた。そして、我関せずな雰囲気を纏っている小野寺くんの顔を覗き込むようにして見つめる。

すると彼は、口に運ぼうとしていたお箸を止める。その目が右に左に行ったり来たりして、最後に私の視線とぶつかった。

「あー……うん。

 ワケはあるけど付き合ってはないよな」

小野寺くんは、曖昧に頷いてアスパラのベーコン巻をその口に放り込んだ。心なしか、目が泳いでるような……。

「ワケ? どんな?」

なっちゃんが、小首を傾げて小野寺くんを見た。一瞬私と目が合ったけど、彼女は私じゃなくて彼の口から聞きたいみたいだ。

私も何も言わずに小野寺くんを見つめる。ネコミミの話はしないでね、と念じながら。

すると口の中のものを飲み込んだ彼が、若干面倒くさそうに言った。

「ま、いろいろ」

「は……?! あのねぇ……っ」

そのひと言を聞いたなっちゃんは、小野寺くんを睨みつけるように声を上げる。そして目をつり上げて、大きく息を吸い込んで。

次の瞬間、彼女が言葉を放とうとしたのと同時に、誰かの携帯が鳴った。





「そういえば……」

携帯を耳に当てたまま速足でベンチから離れていったなっちゃんを目で追っていた小野寺くんが、思い出したように口を開いた。

「言い忘れてたこと、あった」

「ん、なに?」

私は五目豆を摘まんだお箸を置いて、視線を上げる。

すると目が合った彼は、ひとつ頷いて声を落とした。

「金曜日、田部さんを連れて帰ろうとしたら春日に止められて。

 で、咄嗟に俺……田部さんの彼氏です、って言っちゃったんだ」

目を見開いて小野寺くんを凝視する。驚きを越えた衝撃に、私は言葉を失った。

彼はそんな私を見て、ちょっとだけ視線を逸らす。

「しょうがないだろ。

 あの勢いで連れて帰る以外の方法、思いつかなかったんだから」

「それは……」

小野寺くんの言い分ももっともで、私は言葉を濁した。詰りたい気持ちはあるけど、それじゃ八つ当たりのような気もする。繰り返すけど、私を助けてくれたのは他でもない小野寺くんなんだから。

言い返さなかった私を見て、彼は溜息をついた。

「まあ、事後承諾で悪かったよ。

 あの時は、ラクダが田部さんに足かけて転ばすなんて想定外だったし」

「ラクダ……」

……私が足をかけられた、って。それって、大野さんのことですよね。

内心で呟いた私は、じわじわやってきた面白さに噴き出した。

「小野寺くん、それ失礼すぎ……!」

思い切り笑いたいのを堪えて小野寺くんの腕を叩けば、彼が大げさに「いてっ」なんて腕を押さえる。その顔が笑ってるから、私はもう一回、同じ強さで彼の腕を叩いた。

ぽす、という軽い音は、妙に温かくて心地よかった。



失礼だとは思いつつも、まつげの大野さんを笑って少し雰囲気が和やかになったところで、小野寺くんがおもむろに口を開く。

私は彼の言葉をちゃんと聞こうと、瞬きをして意識を向けた。

「まあでも、彼氏宣言はあながち間違ってなかったかもな」

「うん?」

小野寺くんの言葉の意味を掴みかねた私は、思わず小首を傾げる。

理科室での出来事は置いておくとして、私は危機の去った今日も付き合ってるフリをする必要はないと思ってたけど……。

少し離れた場所から、なっちゃんが「うんうん、絶対行くー!」なんて、楽しそうに電話口で話しているのが聴こえてくる。この間教えてくれた彼氏さんだろうか。気持ち、彼女の声が少し高く弾んでるような気がする。

ネコミミがなっちゃんの声に反応して、ひくひく動いた。

そして私が、小野寺くんに言葉の意味を尋ねようとした時だ。


「なんだ、今日もここにいるのか」


突然かけられた声の主を無意識に目で探した私は、白衣を着たその人を見て息を詰めた。

「春日先生……!」








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