2月10日(月) 4:55
お湯を掬っては戻し、救っては戻しを繰り返して、私は溜息をついた。
ネコミミが、ぴるん、と水滴を弾こうと震える。
「はふ……」
天井から落ちた雫が、浴槽のお湯に波紋を作った。
それを眺めながら背中を預けて足を伸ばせば、ちょっとした解放感に頬が緩む。今日は1日家にいて勉強三昧だったから、肩が凝って仕方ない。
もうすぐ12時。日付が変わる時間だ。
私はぼんやりと、土曜日の出来事を思い出していた。
バイトの間は、特に記憶に残るような出来事はなかったな。バレンタイン前最後の週末、ってことで、製菓用のチョコレートや生クリーム、スポンジケーキなんかが飛ぶように売れて。30分の休憩をもらった時に自分のごはんと、差し入れ用のお菓子を買ったことくらい。
……そういえば、おばちゃん連中に「何かいいことあった~?」なんて訊かれたりしたけど。差し入れのシュークリーム見られてたかな。
まあそれはともかく、バイトを終えた私は高橋古書堂に向かった。
買い付けに出てしまった高橋さんの代わりに店番をしていた小野寺くんは、カウンターの中に私を招き入れたうえに、お茶を用意してくれて。さらに、古い木の椅子が硬いからって、座布団を持ってきてくれたりして……。
優し過ぎて怪しい……、と思ってたら、やっぱりきた。
どうやら小野寺くんは、私の授業ノートが欲しかったらしい。そういえば、教科書の書き込みに感心してたもんな。
それに、ここ数日はサボってないし。きっと卒業するつもりはあるんだろう。
「も~、下心みえみえ。やけに優しいんだもん、そんなことだろうと思った」って苦笑した私を見て、小野寺くんは「そうじゃねぇ!」とかなんとか喚いてたけど。
それでも、私だって助けてもらってるし、もう書いたものをコピーするくらいなら大した作業じゃないし……ということで、快く引き受けることにして――――。
「結局、まるっと書き写しちゃったけど」
コピー機を頼ればすぐ済む作業だったんだけど、自分の勉強にもなるかと思って、テスト範囲の分をルーズリーフに纏め直したんだ。この際、小野寺くんのためになるのか、という疑問は置いておくとして。
そしたら肩がガチガチに凝った。目も重たいし。
「それにしても……」
私は目頭を指で揉みながら息を吐いた。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、高橋古書堂で働く小野寺くんの姿だ。黒いエプロンをして、黒縁メガネをかけて。腕まくりなんかしちゃって。
あのレンズ越しの眼差しに、私はどうしても弱いらしい。目が合うとドキドキしちゃうなんて、信じられない。自分にそういう趣向があるなんて思いもしなかったから戸惑うばかりだ。
今だって、ふいに思い出して心拍数が上がってきてる。こんなんじゃ困るのに。
「……はぁぁ」
浴槽にもたれかかって項垂れる。
そんなことに気を取られてる場合じゃないんだ。ネコミミの文献はまだ続きがあるし、小野寺くんと協力してても言葉を調べながらだから時間がかかる。もたもたしてたら、あっという間に3年生になっちゃう……!
まだまだ私の前途は多難だ。
いろんな焦りを含んだ溜息が、無意識に口から零れた。
そして、お風呂からあがった私は、早めにベッドに入って目を閉じた。
小野寺くんは明日も学校に来るかな……なんて、そんなことを考えながら。
子どもの泣き声が聴こえた。……気がした。
「う……?」
カーテンの向こうは、まだ真っ暗だ。
真夜中に目が覚めた割に、頭の中はすっきりしている。
でも、何かがおかしい。
「なに……?」
呟いた私はベッドの上で体を起こして、周りを見回した。
自分の部屋で自分のベッドの上なのに、何か変だ。何がなのかは分からないけど、なんか、ふわふわしてる。
気味悪い、とか怖い、という感じでもない。ただひたすら、違和感が背中に貼りついてる気がしてならないのだ。
そういえば今は何時なんだろう。そんな、単純な疑問が浮かんだ。
ふと、ベッドサイドに置いておいた携帯の存在を思い出して、私は手を伸ばした。
ところが、すぐ手が届く場所にあるはずの携帯がない。
「あ、あれ?」
寝てる間に触って落としたのかと思って、私は視線を走らせる。でも見える範囲にそれを見つけることは出来ない。
そして足を床に下ろしたその時、ふわりと重力から解放されたような感覚に飲み込まれた。刹那、足が着いたはずの床がすぽん、と抜ける。
落ちる……!
「――――え……?!」
思わず体を強張らせた私は、自分が置かれた状況に驚いて絶句した。咄嗟に思い描いたのは、宇宙空間で人がふよふよ浮いてる映像だ。そう、抜け落ちた床に落ちることなく、私は浮いていた。
どうなってるんだ、と視線を落とせば、ゲームの画面で足場が崩れる時みたいに、床がべりべり剥がれて消えていく。
「な……?」
背筋が恐怖で凍り付いて、声にならない。
とにかく必死であたりを見回して、私はどこか掴まる場所はないか探した。けど、床もベッドも、私の部屋だった場所には何一つ残されていない。
……なんなのこれ……!
悲鳴に似た声を胸の内で上げて、浅い呼吸を繰り返す。緊張感に、自分の中の何かが弾けてしまいそうだ。
そして、もうおかしくなりそう、と思った時だ。
何かが聴こえた気がして、私は振り返った。
「ん……?」
子どもの声、のような気がする。
私は耳を澄ませた。
黒く塗り潰された空間に目を凝らして、声が気のせいじゃなかった証を探す。そのまま視線を巡らせてみるけど、どこにも人の気配はないような……。
すると、また。
「やっぱり……!」
今度はハッキリと届いた泣き声に、私は思わず声を上げた。
「どこー?!」
その瞬間、真っ黒な世界に突風が吹き荒れる。
私は息を飲んで、ニット帽を押さえた。……つもりだった。寝る前には被っていたはずのニット帽が、なくなっているじゃないか。
「なっ……」
何が起きてるのか、さっぱり分からなかった。
ここ数日の間はニット帽を被り続けることが日常だったから、恐ろしいことが起きたような気がしてならない。あるはずのものがないことが、こんなに怖いことだとは。
私は咄嗟にネコミミを押さえようとして、気がついた。
「――――ネコミミがない! なんで?!」
驚愕のあまりに大声を出してしまった。でももう、そんなこと気にしてられないのだ。
私は思わずネコミミのなくなった頭をぺたぺた触りまくる。
何がどうなって消えたんだ。一体どうした。何があった。嬉しいけどなんか変だ。
自問自答しながらも、手ではネコミミを探して頭をぺたぺた触る。
激しくなるばかりの動悸に息が上がって、何がなんだか分からなくなってきた。脳まで酸素が届いていないような感じだ。
そうして、混乱の渦に飲み込まれそうになった時だった。
唐突に、声をかけられた。
「――――――かかさまぁ」
「へ?」
耳慣れない単語に、私は間抜けな声を上げて振り返る。
するとそこには、灰色の髪をした男の子がいた。
「えっと……?」
髪の色だけでも十分珍しいのに、その子は和服を着ていた。幼稚園や保育園の男の子達がお祭りで着るような、浴衣みたいな……。てゆうか、こんな所にこんな不思議な子がなぜ。
戸惑って上から下へと視線を走らせた私に、男の子はもう一度口を開く。
「かかさま、どこ……?」
「え、ちょ――――」
そもそも“かかさま”っていうのが、よく分からないんですが。
とにかく落ち着いてゆっくり話してもらおうと、私は膝を折って男の子と目線を合わせる。そして、灰色の髪を撫でようと手を伸ばして。
ところが私の手が届く寸前で、男の子は顔を歪めた。
……え。うそ。
「う……う、えぇっ」
「わ、ごめっ……あの、泣かないで!」
わたわたと慌てて男の子の顔を覗き込むけど、彼はその小さな手で自分の目を、これでもかというくらいゴシゴシ擦る。
その光景に罪悪感やら無力感が募った私は、思わず叫んでいた。
「もうやだ、小野寺くん助けてー!」
うー……だるい……。
私は重い体を引き摺るようにして、自転車を駐輪場に止める。
朝の光が目に痛いくらいの中を、愛車で激走してきたのだ。そりゃあ息もあがるし、心臓もばくばく騒ぐ。
でも、私の体が鉛のように重たいのは、決してそのせいだけじゃない。
おかしな夢のせいで、朝の5時になる少し前に飛び起きて。それっきり、目が冴えて全然眠れなかったのだ。
内容をハッキリ覚えてるわけじゃないけど、ネコミミが消えてパニックになったり、男の子が出てきたり。最終的には困り果てた私が、「小野寺くん助けてー!」と叫ぶ夢で。
……なんなの。ほんと、なんなの。
夜更かしが得意でない私にとって、久しぶりの寝不足だ。こんな状態、サッカーのワールドカップや五輪の時くらいのものだ。大晦日だってしっかり眠らないと、翌日の年始の挨拶の途中でダウンしてしまうくらいなんだから。
胸の中でぶちぶち呟きながら、私は下駄箱に向かう。
そして、その途中で擦れ違う生徒達から視線を感じて、小首を傾げた。
「……ん?」
なんだかやけに見られてる気がするんだけど……これは、自意識過剰というやつだろうか。もうそういう時期は過ぎたと思ってたんだけど。
足を止めて考えていた私は、1人の生徒と目が合った。
その瞬間、相手の目が大きく見開く。息を詰めた気配に、私は思った。
……あ、やっぱり見てる。
確信を得た私の口が“あ”の形に開く。
すると目が合った相手は、気まずそうに顔を背けて足早に立ち去ってしまった。
なんだか感じが悪い。
そんな、“何か変だな”という感覚は、教室に入ってからも続いた。
いつもは私が登校しても、まれに声をかけられるくらいなのに。今朝は教室に足を踏み入れた瞬間、空気が音を立てるほどの反応の良さで、クラスメイト達の視線が私に集まったのだ。
これで何もないと思う方が、どうかしてる。
なんかもう、いろんなとこでいろんな人が挙動不審になってるし。誰だそこ、私と小野寺くんの机をくっつけた奴!そうなる可能性は高いけど!
異様な気まずさが教室の中を漂っていることに耐えられなくなった私は、勇気を振り絞って手近なクラスメイトに話しかけた。
もし私が何かしたなら、ちゃんと教えて欲しい。
「あの……」
刹那、私が言葉を続けるより早く、クラスメイト達がどよめいた。
その一体感に思わず、言おうとしていた言葉を飲み込んで私も視線を走らせる。
するとそこには、気だるそうに教室に入って来る小野寺くんの姿が。
……なんだ、小野寺くんか。
ここ数日で見慣れた彼の姿に、私は特に驚くでもなく内心呟いた。そして、再び話しかけようとしていたクラスメイトに向き直って。
口を開くのと同時に、声をかけられた。
「あ、田部さんオハヨー」
この声はきっと、1時間目から居眠り決定だな。鞄もぺっちゃんこだ。筆記用具くらいしか入ってないに決まってる。机をくっつけた人は誰なんだ。正解でしたよ。
そんなことを思いながら、私はとりあえず挨拶を返そうと小野寺くんを振り返った。
その時だ。
「あ、あのっ、小野寺くん!」
ふいに、女子の声が。
いろいろ気を遣って可愛くしてる女子、の1人。たしか、大野さん。彼女が、私の方へ歩いて来ようとしていた小野寺くんに横から声をかけて引き留めた。
小野寺くんは、変わらず気だるそうに振り返る。
「なに?」
茶髪にピアスが3つのオーラ、全開だ。黒々装備をして古書店で働いてるなんて、これじゃ絶対誰も思いもしない。
不機嫌そうに顔をしかめた小野寺くんに、大野さんが上目遣いで目をぱちぱちさせる。
なんかもう、まつ毛にマッチ棒が何本も乗りそうだ。それは天然ですか養殖ですか、なんて訊いたら怒られるかな。
……おとなしくしとこ。
そう心の中で呟いて大野さんから視線を外そうとした刹那、彼女の目が私を捉えた。
檻の外から眺めているつもりだった私は、不意打ちをくらって顔を引き攣らせる。
彼女は私には何も言わずに、小野寺くんを見上げて口を開いた。
「あの、ね。
ただの噂だと思うんだけど。
小野寺くん……田部さんと付き合ってるって、ほんと……?」
なんですとー?!
言うに事欠いて、“付き合ってる”とはなんだ?!
衝撃のひと言に、思わず脳内の言葉遣いが荒れる。
いやいや、どうかしてる。なんで私と小野寺くんが……。
教室の中は“訊いたよあのコ……!”みたいな雰囲気に包まれてて、なんだか騒然としてる。視界の隅には、興奮に腰を浮かしかけてる男子も見えるし。
私は動揺が激しすぎて言葉も出ないから、ただ穴が開くんじゃないかってくらいに小野寺くんを凝視するしかなかった。
質問した大野さんも、固唾を飲んで祈るように彼を見つめてる。そのカオはもう、恋する乙女のそれ以外の何物でもない。
するとふいに、小野寺くんがちらりと私を一瞥した。
彼は不意打ちの質問にも動じなかったのか、落ち着いたカオをしてるけど……。
ノートあげるから余計なこと言うなよ、と目に力を込めた瞬間。小野寺くんの目が含みを持たせるかのように、すっと細められた。
そして、その唇がそっと開く。
教室中が、息を飲んだ。
「――――――ん。ほんと」
おのでらぁぁぁー!




