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2月7日(金) 17:22










家族以外のひとの体温を感じることなんて、久しぶりで。

小野寺くんに手を握られたら、不思議と気分が落ち着いた。




「――――ありがと、小野寺くん」

すごく自然に零れた言葉に、自分でびっくりした。こんなに穏やかな声が自分の口から出るなんて、思いもしなくて。

小野寺くんは、静かに頷いた。

「おう」

ぶっきらぼうだけど、その声は手のひらと同じくらいあったかくて。声だけ聞いてたら、その人が茶髪でピアスが3つもついてるなんて、誰が思うんだろう。

ふと考えた刹那、何かが腑に落ちた。


……そっか、今まで私、そんなとこばっかり見てたんだ……。


重なった手を見つめて、そんなことを思った私の口元が綻ぶ。

その時、苦笑を浮かべた私に向けられた視線に気がついた。そっと顔を上げて目に入ったのは、小野寺くんの顔だ。

「酔った感じは、もう大丈夫か?」

心配そうに問われるけど、私はあっさり頷いてみせる。船酔いみたいな感じもだいぶ治まったし、何かがせり上がる不快感もスッキリ消えた。

「うん、小野寺くんのおかげ」

「そっか、良かった」

私の返事に、小野寺くんの表情が少し明るくなった。そして、思い出したように一瞬強張った手が、ゆっくり離れていく。

それとほぼ同時に、どこかに行っていた犬が戻ってきた。口に咥えているのは、たぶんカラーボールだ。尻尾をふりふりしながらやって来た犬は、そのボールを、ぽてん、と小野寺くんの足元に落とす。

「なんだよ~」

自分の足元でお座りをして、尻尾をふりふりしてる犬を見た小野寺くんが目じりを下げた。心なしか声が甘く蕩けて聴こえる。

なかなか衝撃的な図に、私は少し体を引いた。きっと、この生暖かい視線には本人は気づいてないだろう。そうであってほしい。

小野寺くんは「しょーがねーな」と嬉しそうに零してボールを拾い上げた。犬の涎まみれのそれでも、彼は気にしないらしい。犬が苦手な私からすれば、いろんなツッコミどころが満載である。

「ほらリク、いくぞ~」

おどけた声で言った小野寺くんは、犬よりも少し向こうにボールを放り投げた。その瞬間、飛び上がった犬が豪快にキャッチする。体を捻って反応する姿は、野球選手も顔負けだろう。

「リク……くん? っていうの?」

あんまり楽しそうだから、つい興味が湧いた私は小野寺くんを仰ぎ見た。

すると彼は、尻尾を振ってボールを咥える犬に視線を向けたまま頷く。

「そ、リクくん。男の子。

 ひとりっ子の俺に、ある日突然母さんが連れて来た、可愛いおとうと」

「そうなんだぁ……リク、かぁ……」

温かい眼差しを横から眺めて、私は相槌を打った。

トラウマがあるはずなのに、ただの犬から“リク”という名前がついて家族になると、なんだか可愛らしく見えるから不思議だ。小野寺くんを見つめるリクの瞳にも、信頼感が浮かんでいるような気すらする。

……小野寺くんの犬なら、もしかしたら仲良くなれるかも……。

そんな気持ちが空気に溶けだしたんだろうか。リクが私に近寄ってきた。そして、咥えていたボールを私の足元に、ぽてん、と落とす。

「え?」

唖然として絨毯に落ちたボールと、尻尾を振っているリクを見比べる。

すると小野寺くんが、小さく笑って言った。

「田部さんと遊びたいんじゃね?

 ……お前さぁ、ほんっと目聡いよなぁ」

言葉の後半をリクに向けて、小野寺くんは手を伸ばす。真っ黒で艶々した毛並みを撫でた彼は、ボールをどのへんに投げたらいいのか、私に教えてくれた。





それからしばらくボールで遊んだリクは満足したのか、犬用のクッションの上で丸まって目を閉じた。真っ黒なもふもふの塊、ものすごく魅力的だ。顔をうずめて一緒に寝たい。

気づけばもう、ネコミミはしっかり前を向いていた。


「ほら、これ。

 もう大丈夫だと思うけど、一応飲んどいた方がいいよ」

そう言いながら小野寺くんが差し出してくれたのは、あったかいココアだ。湯気と一緒に甘い匂いを吸い込んだ私は、ほぅ、と息を吐きだした。

「ありがと、コレ飲んだら帰るね。

 ……もうすぐ夕飯の時間だし、お家の人も帰ってくるでしょ?」

「あー……まあ、そうだな。

 もうちょい腹が減ったら何か作るかも」

何気ない質問をしたつもりだったけど、返された意味深な言葉に私は小首を傾げた。頭の中に疑問がぽつぽつ浮かぶ。

……作るって、小野寺くんが?

……小野寺くん、料理出来るの?

すると私の視線を受けた小野寺くんは、溜息混じりに口を開いた。

「母さんは海外出張で、次帰ってくるのは3月末くらいの予定。

 ……だから作るのは俺の分だけ」

そう言った彼は、言葉の最後に「こういうのって、食べてくれる人がいないと張り合いないんだよなぁ」とぼやく。

それを聞いた私は、思いもしなかった事実に気がついて戸惑った。ぎこちなく視線を彷徨わせることしか出来ない自分が、もどかしい。

「え、あの、」

「父さんは、俺が中学校入る前に事故で死んじゃったから。

 ……ほら、そこに写真があるだろ。

 仏壇は近所のばーちゃんちにあるから、ここには遺影だけなんだけど」

何か言わなくちゃ、と思って言葉が空回りした私が何か言う前に、小野寺くんがさらっと教えてくれる。そのカオは、何とも思ってないように見えるけど……。

気持ちが喉でつっかえた私に、彼は苦笑を浮かべて手を振った。

「や、そんなカオしなくていいって」

「そ、なの……?」

ココアの入ったカップの縁を指でなぞりながら、私は俯く。そうしたら、なかなか顔を上げられなくなってしまった。

たぶん、お父さんのことを聞いてことを謝るのも違う気がする。でもだからって、どんなカオをしたらいいのか分からないし……。

考えながら、カップに口をつける。滑らかで濃い甘さが胃に沁みていく。

すると、小野寺くんがおもむろに立ち上がった。

咄嗟にその姿を目で追いかけて、彼と視線がぶつかる。

「送ってくよ。

 準備してくるから、ここで待ってて」

彼のカオは、私を落ち着けてくれた時と変わらず優しくて。それだけが救いで、私は「うん」とだけ言って頷いた。



小野寺くんの背中を見送った私は、ゆっくりと立ち上がった。気をつけたつもりだったけど、人の気配に敏感な犬のリクは顔を上げて、私の動きをじっと見てる。

「またね」

猫と違って、犬とは話せないみたいだけど、一応言葉はかけておこう。真っ黒だけど小野寺くんの弟なんだから、挨拶はしておきたいし。

立ち上がった私は、のそのそ動いてコートを羽織る。そして、ソファに置いておいたニット帽を被って髪を整えた。鞄は見当たらないけど、きっと玄関にでも置いてあるんだろう。

カップに少し残ったココアを飲みきった私は、視線を巡らせた。

ちゃんと確認したわけじゃないけど、ここは小野寺くんの家で。ひとの家の中を、あんまりじろじろ見るもんじゃない、っていうのは分かるんだけど。

たまに親と買い物に行ったら入るカフェみたいな雰囲気が、すごく大人っぽい。テーブルもソファも、本棚も素敵だ。

それに、全体的にとっても整頓されてて綺麗で。お母さんが長期の海外出張をしてるなら、きっと家のことをこなすのは小野寺くんなんだろう。家政婦さんが来てるようなことも言ってなかったし。

……ということは小野寺くんの家事レベル、私よりずっと上か。

洗濯機の扱いですらまともに出来ない私は、感嘆の溜息をついた。

……なんかもう、小野寺くんのイメージが右肩上がりに再構築されてくな……。


小野寺くんの家事スキルに関して想像するのをやめることにした私は、さっき彼が言っていたお父さんの写真を見せてもらうことにした。

そろそろと近づいて、写真立ての中にいるその人を探す。

「この人、かな……?」

木で出来たフレームの中、薄い水色を背景に微笑んでいる男の人がいる。私はその人のことを覗き込んで、小野寺くんの面影を見つけようと目を凝らした。

「……口元とか……あ、ちょっと目つきも似てるかも」

呟くのと同時に頬が緩んだ私は、写真の人と目が合った気がして、小さく笑う。

そして、そっと手を合わせて、目を閉じた。








携帯の時計を見たら、17時半を少し過ぎたあたりだった。

白い息が暗い空に溶けていくのを見て、そういえば昨日もこんな感じだったよなぁ……なんて。思い出しながら、私はぼんやり小野寺くんの隣を歩いてる。

小野寺くんの家はマンションで、ここらでは高層の部類に入る。そういえば帰り際、エレベーターのボタンの階数がすごいことになってて絶句してしまった。エントランスも広かったし……。

思い出して、溜息が出る。



「1人でも帰れるのに……」

「うっせぇ」

何回目かの独り言に、小野寺くんの乱暴な言葉が返ってきた。

まあ確かに何回もしつこいとは思うけど、それにしても「うっせぇ」ときたもんだ。弟のトモがそんな口聞いた日には、ゲンコツものである。


面倒くさそうに放たれたひと言に溜息をついた私は、小野寺くんを仰ぎ見た。

彼は今、私の自転車を押して隣を歩いている。もちろんカゴには、私の鞄を入れて。

「だって小野寺くん、私を家までおんぶしてくれて……。

 そのあと学校に戻って、私の自転車持って来てくれたんでしょ?

 ……もう、それだけで十分なのに。疲れちゃうよ、私のせいで」

私だったら、とてもじゃないけど出来ない。体調の悪い人を運んで、戻って、今度は自転車持って来て。帰りは送って。どんだけ歩いたらいいんだ。

ほんとにもう、運送会社のお兄さんみたいだ。あの、青だか水色だかのボーダー制服の。

……似会っちゃうかも知れない、なんて思ったことは置いておこうと思う。


小野寺くんは、ずり下がった眼鏡……ちなみに今日は黒縁じゃなくて銀縁だ。細いやつ。すごく似合ってるから心憎い……を直しながら溜息をついた。大げさに肩を落として。

「だーかーらー……」

レンズ越しの瞳が、すっと細められる。

その時私は自分が言い過ぎたことに気がついたけど、すでに時遅し、である。

「俺が好きでやってんの!

 もともとプリント取りに行かせたのも俺だし。悪かったと思ってる。

 ……だからまあ、今日は尽くされといて。たいしたこと出来ないけど」

言葉の最後の方で視線を逸らされたけど、その声は優しい。

「うーん……言われてみれば小野寺くんが発端なような気もするけど。

 でも私だって中庭で春日先生に、その……ごめんね」

なんとなく小野寺くんに負い目を感じてほしくなくて、私はごにょごにょ言葉を濁す。なんかもう、申し訳ない気持ちで。

押さなきゃいけない自転車もないから、手袋をはめた両手が手持無沙汰だ。ぽふぽふ、と何気なく手を叩いていたら、ふと視線を感じて私は小首を傾げた。

インテリ眼鏡の小野寺くんが、ふっと笑みを浮かべる。

ニット帽の下で、ネコミミがぴくぴくした。

「なんだかんだで、俺達うまくやれてんのかもな」




携帯をポケットにしまいながら、小野寺くんは言った。

「連絡しろよ、交換したんだから」

「小野寺くんも、既読のままで放置とかしないでね?

 ……なんか、そういうの面倒とか言いそうだけど」

珍しくチクリと言い返した私を見て、小野寺くんが噴き出す。

むぅぅ、と口を尖らせれば、顔を背けた彼の肩が小刻みに揺れた。

ひとしきり笑った小野寺くんは、むすっとしてる私に向かって口を開く。ぷくく、と堪えてるのを見ると、思い出し笑いだろうか。

……どっちにしろ、すっごく不名誉だ。

「こないだは小心者だなんて言って悪かったなー、と思っただけ」

「え?」

唐突なことで意味が分からず、声が零れる。

言われたことを反芻していたら、小野寺くんが嬉しそうに一歩踏み出した。ぐっと近づいた距離に思わず体を逸らすと、彼がそれに負けない勢いで体を寄せてくる。

……なんだなんだ。近いぞ。

至近距離で見下ろす小野寺くんの銀縁眼鏡のフレームが、街灯に照らされて光ってる。

よく分からないまま息を飲んだ私を見下ろして、彼が口の端を持ち上げた。

「思ってることはちゃんと言ってくれた方が嬉しいですよ、田部さん」




小野寺くんは、私が眼鏡に弱いってことに絶対気づいてると思う。










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