2月7日(金) 17:12
私が差し出されたコップを受け取るのを見届けて、小野寺くんは口を開いた。
「たぶんだけど……」
黒い犬は、彼の足元に伏せてる。私に構いたくてそわそわしてるのを見た彼が、「伏せ!」って言った瞬間からずっと。
……ほんとはきっと、すごく良い仔なんだろうなぁ……。
毛嫌いして申し訳ない気持ちになった私は、犬に向けていた視線を上げる。すると、小野寺くんの言葉が続いた。
「田部さんのそれ、二日酔いだと思う」
……そんなこと言われても、お酒なんか飲んでないけど……。
身に覚えのない言葉に首を傾げていると、彼の視線が私の手の中に収まったままのコップに注がれる。
「うん、まあとりあえず話はそれ飲んでから」
顎でコップを指されて、私は頷いた。
どうやら小野寺くんは事の次第を理解してる……っぽい。確信はないけど、私はきっと小野寺くんに運ばれて、ここにいるんだろう。ぼんやりした頭でも、それくらいの想像は出来る。
こく、と喉を鳴らしてコップの中身を飲み込む。乾いていた喉に染み込んで、体全体が潤っていく感じが気持ちいい。甘味と酸味、それから少しの苦味。この味はきっとグレープフルーツだ。
一気にルビー色の果汁を飲み干した私の手から、小野寺くんがコップを取り上げた。
「おかわりは?」
私はふるふる首を振る。
「ううん、いい。ありがと」
喉を潤したおかげで喋りやすくなったし、気分もすっきりだ。
……なんか、小野寺くんて。傍若無人な印象が強かったけど、意外と気遣いが出来る人なのかも。毛布もかけてくれたみたいだし……。
そんなことを考えていたら、テーブルにコップを置いた彼が伏せを続ける犬をひと撫でして、口を開いた。
「えーっと……。
それで、どこから話したらいいんだ?」
真剣な目を向けられて、私は姿勢を正した。
「うん。私が覚えてるのは、理科室にプリントをもらいにいって……。
でも春日先生が見当たらなかったから、準備室かなと思って……」
「――――――で、倒れたわけか」
「うん」
頷いて、私は続けた。
「準備室のドアを開けてしばらくしたら、甘ったるい匂いがしたの。
美味しそうなんだけど、すっごく濃い臭いで気持ち悪くなって。
そしたら、くらくらして立ってられなくなって……」
思い出しながらの私の言葉を、小野寺くんは信じられないくらい真摯なカオで聞いてくれていた。まるで一語一句、聞き洩らすことのないように集中してるみたいだ。
彼は視線を左右に振ってから、口を開いた。その目は、どこか心配そうに揺れてる。
「ないと思うけど……。
誰かに後ろから殴られたとか、そういうことじゃないんだな?」
「うん、それはないと思うけど……」
言いながら、私は思い出していた。
理科準備室で気分が悪くなって蹲った時、背後には誰もいなかったと思う。思うけど、なにしろ自分に以外のことに注意を向けられるような余裕はなくて。だから、万が一誰かに何かされたんだとしても、きっとあれじゃ分からないとも思うんだけど……。
考えを巡らせるうちに、私はふと疑問に思う。
小野寺くんの心配そうにしてるカオが、なんだか普通じゃないような気がしたのだ。上手く言えないけど、ちょっと過剰な気がするというか……。
――――思い出した。
そういえば小野寺くん、落雷現場で救急車を待ってる間、私がごにょごにょ言ってるのを聞き取れなかった時のことを「怖かった」って言ってたんだよね。すごく深刻なカオが印象的で、その台詞と一緒に覚えてる。
……もしかして、そういうの初めてじゃなかったりするの……?
「――――――あの……たんこぶとか出来てないか、見てみて」
私はおもむろにニット帽に手をかけた。
小野寺くんに見られたからって、もう別に何も起きない。第一、「俺の前では隠すな」って言ったの小野寺くんだし。
思いきりよく帽子を剥いだ私を、彼が目を見開いて凝視してる。まさか私が自分からニット帽を脱ぐなんて思ってなかった、ってカオだ。
小野寺くんの視線を受けたネコミミが、ぴるん、と動く。
「痛くないけど、一応……って、小野寺くん?」
上目遣いに顔色を窺った私は、彼の目が泳いでるのを見て小首を傾げた。
「やっぱり、誰かに襲われたわけじゃない……ってことだよな」
何かから立ち直った小野寺くんは、私の頭のあちこちを触ってから詰めていた息を吐きだして言った。
思った通りの言葉に、私も息をつく。
「……うん、だと思う」
そして、ふと思い出した。
「そういえばさっき言ってた、二日酔いって……?」
少し前の言葉を繰り返した私に、彼はひとつ頷いてから話し始めた。
「うちの母さん、めちゃめちゃ酒に弱くてさ。
それなのに嫌なことがあると飲むから、潰れちゃうんだけど……」
言葉の途中で、小野寺くんの顔にうっすらと笑みが浮かぶ。きっとその、お母さんが酔っ払った時のことを思い出してるんだろう。
「くらくらして気持ち悪い……って、母さんもよく言うんだよ。
田部さんを連れて帰って来る時、そんな感じだったから」
小野寺くんが苦笑混じりに話すのを、私は不思議な気持ちで聞いていた。だって、この人の家族の話を聞くことになるなんて、思いもしなかったから。当たり前なんだけど、小野寺くんにも親がいるんだよね……。
曖昧に頷いて話を聞いてる私に、彼は言った。
「でも田部さん、酒なんか飲んでなかっただろ?」
それは質問とはまた違う雰囲気。たぶんこれは、確認だ。
これには私もしっかり頷いた。
「飲んでない。
……突然二日酔いみたいになるなんて、聞いたことないけど」
小野寺くんが実感したことでも、まったくもって納得がいかない。首を捻りつつ言った私に、彼は溜息混じりになった。
「それは俺もない。
でも、今の田部さんは普通とは違うだろ」
なんだか、その言い方は嫌だ。たしかに普通じゃない体になっちゃったけど、だからって事実を剥き出しのまま言われるのはちょっと悲しい。
思わずむっとして口を尖らせれば、小野寺くんが慌てたように手を振った。
「ああごめん、言い方間違えた。
……ええと、あれだ。今の田部さんには、猫の部分があるじゃんか。
そっちの部分が酔っちゃったんだとしたら、と思って」
「むぅ……」
尖らせた口から零れた声をそのままに、私は準備室に何か変わったことがなかったかを思い返していた。思い出せるのは、咽返るような甘くて美味しそうな匂いだけなんだけど……。
「たとえば、マタタビとか」
唐突に出てきた名前に、私は目をぱちぱちさせた。聞いたことがあるだけのモノだから、当然何だかよく分からない。
きょとん、とした私を見て、小野寺くんが噴き出した。その視線は、頭上に釘付けだ。
……なんか、愛でられてる感があるんですけど。主にネコミミが。
「え、聞いたことない?
ネコ科の動物にとってのアルコールみたいなもんなんだけど。
摂りすぎれば毒になるみたいだけど、基本的には酔っ払う、っていう」
「ふぅん……」
分かりやすい説明をされても、なんだか腑に落ちない。小野寺くん、さっきから私じゃなくてネコミミばっかり見てるんだもん……。
……間違えた。それは別に全然構わないんだけど。
曖昧に相槌を打った私に、小野寺くんは言葉を続ける。
「まぁ、マタタビが準備室にあるとは思えないけど……。
田部さんを見つけた時、もっとちゃんと見とけばよかったな。
……なんか、気づいたことない?」
「ん~……」
そう言われて、私は準備室で見たものを思い出そうと視線を彷徨わせた。
腰が砕けて崩れ落ちた瞬間に、見たもの……。
「――――――あっ」
瞼が落ちる寸前にぼんやり見えたものを思い出して、私は手を打った。
その音に驚いたのか、うとうとしていた黒い犬が顔を上げる。
小野寺くんは腰を浮かしかけた犬の頭を撫でて落ち着かせてから、私の顔を見た。彼も犬と同じく、少しびっくりしたようなカオをして。
「なに、どした」
茶髪にピアスが3つの小野寺くんの真顔に腰が引けた私は、一瞬口ごもる。
「う、ん……大したことじゃないんだけど、白い花が見えたよ」
そう答えた刹那、彼が突然立ち上がった。
急なことに体を強張らせた私を置いて、小野寺くんがいなくなる。すると今度こそ犬も立ち上がって、彼について行く。
船酔いみたいな感覚が薄らいだ私は、首を巡らせて彼の背中を目で追いかけた。
ソファやテレビのあるリビングから繋がる部屋のドアを開けた彼は、そのまま中に姿を消す。もちろん犬も一緒だ。けれど、ものの数秒で戻ってきた。その手に、ノートみたいなものを持って。
「なに、どうしたの?」
さっき小野寺くんの口から出た言葉を、今度は私が投げかけた。
すると彼は、何も答えないで私の隣に腰掛けて視線を落とす。
その視線の先を覗き込んだ私は、どうやら彼が手にしていたのはタブレットだったらしいことに気がついた。
小野寺くんは、真剣な眼差しで画面に指を滑らせている。とっても話しかけづらい、ついこの間まで私が抱いていた印象通りの雰囲気で。
視線が上に下に、そして右に左に動いて何かを追いかけてるのが分かる。指が画面を横切って、時折踊るように叩く。
「田部さんが見たのって、もしかしてコレ?」
流れるような一連の動きに見入っていたら、彼が映し出された何かの画像を私に見せてくれてるんだと、少しの間を置いて気がついた。
――――――緑の葉に、白い花。
「あ、うん……だと、思う」
画面に映っている植物を見て、私は頷いた。
すると小野寺くんは、深い溜息をついて天井を仰ぐ。
「まじかー」
何事かと驚いてその顔をまじまじと見ていた私に、彼は小さく笑って視線だけを寄越す。綺麗な流し目だ。
「それがマタタビ」
「またたび……」
言われたことを、そのまま反芻する。
でもそれだけじゃ、言いたいことは私に伝わったことにならないみたいだ。小野寺くんは、いつも無造作な茶髪をさらに無造作に掻いた。
……なんか、イライラなさってるみたいですが。私が原因ですか。
流していたはずの目が、しっかりと私を捉える。
「春日には、気をつけた方がいいかも知れない」
ピンと張り詰めた空気が肌を刺す。ちくちくと胃まで痛くなりそうだ。
「あいつにネコミミのこと、バレてないだろうな」
なんかもう、口調が麻薬の取引でもしてるみたいで怖いです。小野寺さん。
低く這った声を受け止め切れなかったネコミミが、へにゃりと倒れた。
それに気づいたはずの彼の目は、私の頭上には向かわない。静かに、でも力のこもった視線は私の目に真っ直ぐ向いていて。
私はただ、こくこく頷いた。咄嗟のことだった。
「だ、だいじょぶだと思います」
小野寺くんは、ひたすら頷いた私を見て目を細めた。いつかのお昼休みも、そうやって目を細めて私を見てた。何かを探るみたいに。
頭のどこかで蘇った光景に気を取られていたら、彼が口を開いた。
「うそつけ。
バレてなくても、きっと何かやらかしてるはずだ」
「そ……っ」
なんて言い草だ。小野寺くんの目には、私が何かやらかすように見えるのか。他人に知られて困るのは私なんだから、やらかすなんてそんな……。
――――――いや待てよ。
心臓のあたりが、ひやりとする。
脳裏をよぎったのは、今日のお昼休みのことだった。
「おい、まじか」
きっと顔色が変わったんだろう。もともと嘘が下手で善良な生徒なんだから仕方ない。取り繕うまでもなく、私は顔を手で覆った。
小野寺くんの溜息が聴こえてくる。
言うか誤魔化すかを天秤にかけたけど、答えは一瞬で出てしまった。だって今の私が頼れるのは、茶髪でピアスが3つの、いじめっ子とみせかけて意外と優しい小野寺くんだけなんだから……。
私は覆った手の隙間から白状した。
「お昼休み、あの野良ちゃんと話してるとこ見られちゃったかも……!」
「田部にゃん……そういう大事なことは、5時間目の前に言っといて」
小野寺くんが盛大な溜息と一緒に呟いた。
そのひと言に、私は体を強張らせる。ネコミミも、くたりと力を失ってしまった。
「うーん……怪しいから確認するためにマタタビを用意したのか……?
それとも、確信があって捕獲するため、とか?」
独り言みたいな小野寺くんの言葉が、私を追い詰める。
春日先生が私をどうにかしようとしてる、というニュアンスを感じたら、もうそこから思考が進まなくなってしまった。考えなくちゃいけないのは、“月曜日からどうするか”なのに。
想像で物を言ってるんだ、って頭では理解してるつもりなのに膝が震え始める。なんだか寒気までしてきた。肩も震えて歯の根が合わなくなりそうで、私は唇を噛んだ。
それでも、得体の知れない危機感と恐怖感は誤魔化しきれなかったけど。
……こんなの、カラスに突かれないか怯える仔猫みたいだ。
「……だいじょぶか?」
小野寺くんが、横から私の顔を覗き込む。
「ごめん、怖がらせたかったわけじゃないんだけど」
目の前に、ピアスが3つ。
私はなんとか頷いて、彼と目を合わせた。情けないカオのまま。すると、ほとんど同時に手のひらに暖かいものを感じて視線を落とす。
思わず、口が勝手に声を零した。
「あ……」
「うん、その……あれだ。俺は田部さんの味方だから」
そんなの、全然問題の解決にならないのに。
顔の割に大きな、小野寺くんの手のひらから伝わる暖かさに、私は小さく頷いた。
重なった手は頼もしく見える。
それが少し力を込めて私の手を握った瞬間、守られているような気がした。
散々振り回されたあとで、悔しいけど。




