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2月7日(金) 17:03










喉がガラガラに乾いていて、思うように呼吸が出来ない。息を吸い込むたびに、酸素の通り道が焼けるように熱くてかなわない。

不快感に手を伸ばせば、爪が肌を引っ掻いて痛みが走った。

そしてその痛みが、ぼんやりとしていた意識の輪郭を縁取っていく。


「――――ん……う、ぅぅ……」

船に乗っている時のような揺れが気持ち悪くて、思わず唸る。

ぐわんぐわん、と頭蓋骨が叩かれているような感覚をやり過ごそうと、私は深呼吸してうっすらと瞼を持ち上げた。

開けた隙間から流れ込んでくる明かりが眩しい。目の奥に突き刺さるような鋭さに、私はもう一度目を閉じる。

すると、自分が暖かい場所に横たわっていることに気がついた。

……え、あれ……?

吐き気と一緒に感じた違和感に、内心首を捻る。

……ええと……。

思い出したいのに、頭が上手く働いてくれない。

私は額に手を当てた。ごちゃごちゃに絡まった記憶を解きほぐそうと、深呼吸する。


小野寺くんに言われて、理科室に行ったんだっけ。

たしか、彼が休んでた分のプリントをもらいに。

だけど実験の片づけをしてるはずの生物の春日先生が見当たらなくて……帰ろうかとも思ったけど……念のために準備室の中も見て――――。


「あ……!」

バラバラに散らばっていたものが繋がった瞬間、私は声を漏らした。

……そうだ、準備室に入った途端に眩暈がして気持ち悪くなって……。

自分の身に起きたことを理解した途端に、頭の中が真っ白になる。

準備室で倒れたままなら、冷たい床の上で目が覚めるはずだ。なのに今、私は暖かい場所に横たわっている。

考えを巡らせた私は、はっとした。

咄嗟にニット帽を掴む。もふ、という手ごたえ。

私は詰めていた息を吐きだして、胸を撫で下ろした。

……とりあえず、ネコミミは無事、ってことでいいのかな……。

緊張が緩んだ途端に、今度は船酔いみたいな気持ち悪さが胃の底の方からせり上がってきた。

「――――うぷ」

こみ上げるものを堪えて、呼吸を整える。

だって、まだ考えなくちゃいけないことが……。

ゆっくりと瞼を開けて眩しさに目を細めた私は、何度か瞬きをした。目頭を指で揉んで、明るさに目を慣らす。

そして、目に入った壁紙に内心首を捻った。

学校で倒れたなら、誰かが見つけて学校の保健室に……っていうのが想像出来る流れだ。あの状況だと、春日先生あたりだろうか。

「よ……、」

手をついて、体を起こす。

頭が動くのと同時に視界が揺れて、船に乗ってるような感覚がぶり返した。

呼吸を深くしてそれをやり過ごした私は、ゆっくりと視線を走らせる。

そして、速くなる鼓動を感じながら呟いた。

「やっぱり……」

寝かされていたのはソファで、天井には建てつけの照明。アイボリーの壁紙に、テレビ。ぎっしり詰まった本棚の横には、大きな鉢の観葉植物。

……絶対、学校でも病院でもない。

確信を持って頷いて、私は誰かがかけてくれた毛布を剥いだ。

ニット帽の中でネコミミがひくひくしてるのを感じながら、あたりの様子を窺う。

目に入るのは生活感もそこそこの綺麗なリビングで、人の気配はない。

鼓動が強く打ちつける音に、自分が緊張しているのが嫌でも分かる。でも手足が震えてるのまで意識したら、一歩も動けなくなりそうだ。

私は息を詰めて、これからどうするかを考えた。

――――そうだ。何はなくとも、とにかく連絡しなくちゃ。毛布をかけてくれるくらいだから、取って食われるような展開にはならないと信じよう。

「……あ。

 と、とりあえず携帯……」

ここがどこかは分からないけど、きっと小野寺くんは私を探してくれてるはずだ。だって、プリントがないと困るに決まってる。

そんなことを考えて、眩暈に耐えて制服のポケットに手を突っ込んだ、その瞬間。


『ウォフッ』


サー、と顔から血の気が引いて、背中が急に冷えていく感じに私は絶句する。

艶やかな黒い毛、そして瞳。コツコツコツ、とフローリングを蹴る音を響かせて、その犬は私の元にやって来た。


私が犬を認識した途端、ネコミミがニット帽の中でぺちゃんと倒れた。

じっと私を見据える瞳には、おそらく敵意はない。犬のことはよく知らないけど、たしか怒ってる時は“ウ~”とかなんとか唸るはずだ。

実は私、犬が苦手だったりする。幼稚園に通っていた頃に大型犬にじゃれつかれ、のしかかられたトラウマが消えずに残ってて。

見てる分には子犬だって可愛いと思うし、盲導犬みたいな働く犬なんかは、すごいなぁ、って尊敬もしてるけど……要するに、1対1の関係になると逃げたくなるくらいに恐怖を感じるわけだ。

「ひっ」

リードもなく飼い主の姿も見当たらない状況で苦手な犬に遭遇した私は、悲鳴に似た声を漏らした。それ以外に、私に出来ることなんかない。

出口まで走ればいいのかも知れないけど、背を向けるのは対面しているのよりずっと怖いんだ。追いかけられたら、私みたいな鈍足はすぐに追いつかれてしまう。

『ワフッ』

黒い犬は、私を見つめて控えめに吠えた。




思い出したけど、この黒い犬……盲導犬や麻薬犬として働くことが多い、あの犬種じゃなかろうか。テレビでは“穏やかで賢い”とか言ってたけど……。

それってほんとですか。

万が一……億に一にでも、豹変したりはしませんか……!


体をがっちがちに強張らせた私は、横目で犬の動きを追いながら考えていた。

そうでもしないと、犬と2人きりだなんて耐えられない。

黒い犬は私を見つめて吠えたあと、ゆっくりと近づいてきた。

そして小刻みに震える私の爪先に鼻を寄せて、すんすん、と匂いを嗅いだ。臭いかも知れない、なんて恐怖に固まった頭のどこかで考えて、私は爪先を丸める。

すると犬は、今度は私の剥き出しの膝小僧に鼻を寄せた。濡れた鼻先が触れて、思わず声が出そうになってしまう。

……絶対舐めないでほしい!驚きのあまり、まかり間違って足が出ちゃったりしたら、ガブっとやられるに決まってる!

心の中で叫んだ私は、犬の動きを目で追う。

すると何を考えたのか、犬はソファに飛び乗った。

大きな体の割に、ずいぶんと軽やかな動きをしてくれるじゃないか……!

座っている私の横に乗った犬が、さっきと同じように鼻を寄せて匂いを嗅ぎ始めた。

スカートのプリーツや指先、袖口、それに耳のあたり。

すんすん、と気配に音が混じって、くすぐったい。でも、それだけじゃない。怖い。

動けなくなって小刻みに震える私に、犬は容赦のカケラもなかった。体中の匂いを嗅ぎまくり、あげくに握りこぶしをベロンと舐められる。

ぬろっとした感触に、思わず悲鳴が零れた。

「ひゃわぁぁ」

もう、腰が砕けそうだ。勘弁して下さい。

内心半泣きで懇願するも、犬に伝わるわけがない。

そして祈りも虚しく、ニット帽に鼻先が近づく気配を感じた私は、天を仰ぎたい気持ちでかたく目を閉じる。

ところが、ふと何の脈絡もなく、犬が私から離れた。


そろそろと目を開けてみれば、犬は部屋の出口をじっと見つめている。

てっきりネコミミを齧られるんじゃないかと慄いていた私は、呆気なく犬の興味が逸れたことに内心首を捻った。

……尻尾、ものすごい勢いで左右に振れてますけど。

……あれ? 犬が尻尾を振る時ってたしか……。

あまりの興奮ぶりに、私はぽかんとしながら考えた。

すると、犬が突然ソファから飛び降りる。小走りに向かう先はリビングの向こう……もしかしたら、玄関かも知れない。

……飼い犬が、玄関に飛んでった……ってことは……。

そこまで考えて、私は慌てた。

「うわ」

思わず声の零れた口を押さえる。

すると、犬の駆けていった方から、にわかに人の気配が漂ってきた。

どうしよう、どうしようどうしよう。

心の中で呪文のように口走るけど、そんなこと言ってても、もうどうにも出来ない。せいぜい、わたわたと手を振り回して挙動不審になるくらいだ。

そして、慌てるだけ慌てた私が、リビングの向こうを食い入るように見つめた時だった。

「あ、起きてたんだ」


わしゃわしゃ、というビニール袋の擦れる音と一緒に現れたのは――――――。


茶髪にピアスが3つの。

「おのでらくん……!」


動揺した割に噛まなかった私は思わず、というより反射的に立ち上がった。

刹那、ぐるりと視界が回り始める。

犬の恐怖に忘れていたものが、一気にぶり返したらしい。血の気が引いて、入れ替わりに喉の奥から何かがせり上がってきた。

「……っぷ」

咄嗟に口を押さえて、しゃがみこむ。

「おいっ?!」

ビニール袋を放り出した小野寺くんが駆け寄って、膝をついた。

少し離れた所で、ごろん、とか、どてっ、なんて音がしてるけど……それでも彼は、荷物のことは見ない振りで。

「どっか痛い?

 気持ち悪いのか?」

質問を連発された私は、ゆるゆると手を振った。

あんまり言葉を一気に詰め込まれると、耳の中がぐわんぐわんする。

私は瞼を閉じて、深呼吸する。

「ちが……、くらくら……」

「くらくら……。

 もうちょい酔いを醒まさないと、帰れそうにないな」

かろうじて絞り出した言葉を反芻した小野寺くんは、目を閉じて眩暈をやり過ごしている私の肩を抱いた。

いじめっ子のはずなのに、その手はとっても優しくて。

支えてくれるのを感じ取って、私は膝から力を抜いた。ぽて、と体重を預ければ、彼の腕がそれを受け止めてくれる。

だから、なんだか気が緩む。

「おのでらくん……」

体は辛いけど、この部屋にひとりだった時とは違う気がする。

瞼の向こうに揺れる視界がある気がして、まだ目を開けることは出来ないけど……。


私は、手探りで小野寺くんの腕にしがみついた。










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