2月7日(金) 15:52
見られた……?
いや、でもぶち猫と“会話”してただなんて、きっと思ってないはずだ。動物と接する時に言葉をかける人は少なくない。
だからきっと、私を怪しんで声をかけたんじゃない。きっと。
心臓が煩い。喉のあたりが、ドクドクと脈打つのが自分でも分かる。
おそるおそる、ゆっくりと振り返った私は出来る限り平静を装って、背後に立っている人に向かって口を開いた。
「――――春日先生……」
そこにいたのは、白衣を着た生物の先生だった。
タンブラーを握る手に、力が入る。何かに掴まっていないと、震えてしまいそうで。
私は繰り返している浅い呼吸を気づかれないように、口角を上げた。
春日先生は、戸惑ったように私の顔を見てる。目が合うと視線が右へ左へ忙しく動いて、でもまた戻ってくる。
そうして、彼が何かを言おうと口を開く気配を察した私は、かぶせるように言った。
「何ですか?」
なるべく、何でもない会話として。
警戒もしてないし、動揺してもない。ただ先生に声をかけられて、びっくりした、という感じの生徒でいなくちゃいけない。
自分の顔が強張っていないことを祈りつつ、私は言葉と一緒に小首を傾げる。
……こういう時こそ、小野寺くんが隣にいてくれたらいいのに。
半ば神頼みに近い気持ちになって、私は奥歯を噛みしめた。
すると、春日先生が小さく首を振る。
「いや、別に用はないんだけど……。
田部が何かに向かって喋ってるのが見えて、ちょっと気になっただけだ」
ちょっと気になった、という割には顔が真剣だ。
胃に重くのしかかる嫌な予感には気づかない振りで、私は「ああ」とそれらしく頷いた。
「人懐っこい野良ちゃんがいたので……それですかね?」
嘘はついてない。
お腹の底で自分に囁いて、私は春日先生を見上げる。
「そっか、あの猫また来てたのか」
「逃げちゃいましたけどね」
肩を竦めれば、春日先生が頷く。
「猫なんてそんなもんだ。
……良かった、田部の頭を心配しちゃったよ」
「え?」
笑いながら言われて、私は思わず変な声を上げてしまった。
頭を心配、とは全然嬉しくない言葉だ。
春日先生は声を上げた私を見て、笑みを噛み殺す。
「落雷事故のことは、俺も聞いてる。頭に傷があるらしいじゃないか。
その割には、普通に生活出来てるみたいだけど……。
後遺症で、てっきり幻覚でも見えるようになったかと思ってさ」
つまり、先生は私の頭がおかしくなったのかと心配したわけか。
……全く別の所がおかしくなって困ってますけど。
自嘲気味に胸の中で呟いた私は、先生の含みのある視線を溜息でやり過ごす。
「もう……面白がらないで下さいよね。
本人は大変な目に遭ったんですから」
軽く睨みながら言った私は、なっちゃんが近づいてくるのが見えて立ち上がった。
すると先生もなっちゃんに気付いて、口早に言う。
「急に悪かったな」
「いえ」
そっと首を振れば、先生が何かを思い出したように声を漏らした。
「ああ、そうだ。
お前、小野寺と隣の席だったな」
……なんだろう。なんか、すごく嫌な予感がする。
さっきまで纏わりついていた緊張感とは全く別の、嫌な予感だ。
“小野寺”と聞いて思わず口元を引き攣らせた私を見て、先生が笑う。
「小野寺に、休んでた分のプリント取りに来い、って言っといてくれ。
俺は実験の片付けで、放課後は理科室にいるから。
あと……来なかったら、成績どうなっても知らんぞ、ってな」
そう言って、先生は私の肩をぽむ、と叩いて去って行った。
……なんてこった。
それから、またひとつ仕事が増えたことに肩を落とした私は、合流したなっちゃんと一緒にお弁当を食べた。
食べながら、いろんな話に花が咲いた。例えば、もうすぐバレンタインだ、っていう話とか。そこから始まった、好きな人の話だとか。
まあ、女子高生の会話なんて、恋愛、ファッション、バイト……こんなもんだと思う。少なくとも私となっちゃんは、いくつかの話を延々ループさせている。答えなんか出ないけど、それでいいんだ。話してる時間が大事なんだ。
それにしても……なっちゃん、好きな人いない、ってこないだまでは言ってたのに。実は彼氏がいるらしい。もうすぐ本格的な受験生になる、って時に彼氏が出来て、私にどう思われるか不安で言い出せなかったそうだ。
別に、どっちも頑張ればいい話なんだから、気にすることないのにな。
……それにしても彼氏、かぁ。
なっちゃんには「おめでとう、良かったね!」なんて言ったけど、ほんとはちょっぴり寂しかったり、羨ましかったり。
――――でもまあネコミミが生えてる限り、彼氏なんて出来るわけないんだけど。
午後の授業が終わって、HR待ちの時間。
がやがやと人が行ったり来たりして、雑音が教室を埋め尽くしている。
私の席は窓際の一番後ろだから、そういう喧騒とは無縁だ。傍観者を決め込んで、帰りの支度をしていた。
……良かった。なんとか今日も無事に乗り切った……。
人知れず、ほっと息を吐きだす。
すると授業が終わって机を本来の場所に戻した小野寺くんが、私の机を指でトントンと叩いた。
音につられて視線を上げた私は、彼と目が合って小首を傾げる。
「なあに?」
小野寺くんは筆記用具だけが入ってる、ぺちゃんこな鞄を机の上に出しながら言った。
「休んだ分のプリント回収してくるから、教室で待ってて」
「はい?」
言われたことの意味がよく分からなくて、私は眉をひそめる。
すると小野寺くんは、そんな私の反応が気に入らなかったんだろう。一瞬黙り込んだかと思えば、すぐに顔をしかめた。
そして、低い声で囁く。
「……よし。田部さんの担当は理科室」
「えぇっ?!」
半ば脅迫めいた声色だったけど、私は不満を滲ませた声で反論する。ただし、とっても小さな声で。
「なんで私なの?!」
クラスの人達に、小野寺くんと言い合う姿なんて見られたくない。こそこそと声を落として言えば、小野寺くんがにやりと笑んだ。
「いいから行ってこい。田部にゃん」
「おかしい。絶対おかしい」
私はぶつぶつ呟きながら、理科室に向かう。
授業のノートもコピーさせてあげることになったのに、あげくに彼の分のプリントを私が取りに行く、というのはどうなんだ。
“力になる”って言ってくれたのに。嬉しかったのに。これじゃ下僕扱いだ。最終的に首輪を支給されたらどうしようか。「ご主人さま」とか、言ってみたらいいのか。
「無理。絶対やだっ」
そんな想像を首を振って打ち消した私は、「下駄箱で合流な」と職員室に向かった彼の背中を思い出した。
……さっさとプリントをもらって、渡して帰ろう。
帰ったら、借りてきた化け猫の文献を読むんだ。
やるせない気持ちを立て直して、私は理科室のドアをに手をかけた。
ガラガラ、と引き戸が音を立てる。
「失礼しまーす……あれ……?」
すぐそこに春日先生がいるものだと思っていた私は、誰もいない静かな教室を見て首を傾げた。
たしか、ここで実験の片づけをしてるって……。
思い起こした私は一歩中に入って、教室の中を見回す。奥に見えるドアの向こうは、実験器具や薬品がしまってある準備室のはずだ。
「春日先生……?」
静かな理科室は、やっぱり怖い。アルコールのような匂いもするし、焦げくさいような気もする。それに足元から冷気が上がってきてるような気すらする。
かすかに感じる寒気に腕を擦れば、小野寺ニット帽の中でネコミミがぺたんと倒れた。
少し前まで人がいたような気配もない。先生の教材やペンケースなんかも、教壇の上に置かれてはいないみたいだ。
薄気味悪いのを我慢していた私は、準備室のドアをノックした。
コツコツ、という硬い音が、静かな教室にやけに響く。
返事がないのを確認した私は、念のためにそっとドアを開けた。
その時だ。
「――――う……っ」
ふわりと漂ってきた匂いに、眩暈がして私はたたらを踏む。
咽返るような、甘ったるくて重たい匂いだ。
香水なんかの比じゃない。でも臭いのとは違う。甘い、ハチミツのような美味しそうな匂いを充満させて、胃もたれするような匂い。
肺から血に溶けだして全身を駆け巡るその匂いに、私は吐き気すら覚えて蹲った。
「やっ……?!」
頭がクラクラする。
視界がゆらゆらと揺れ始めて、ゆっくりと回り出す。
床を掴もうとする指が震え、呼吸が浅くなっていく。
ここから離れなくちゃと思うのに、腰が砕けて立ち上がれなかった。
こわい……!
私、どうなっちゃうんだろう。
胸の内で叫んだ私のわき腹が、床に落ちる。
冷たいはずのそこに頬が擦れて、痛かった。
そして、だんだんと眠気に似ただるさが襲ってくる。
「あ、う……」
回る視界に酔い始めた私は、抗えなくなって目を閉じる。
視野が狭くなって瞼が落ちる刹那、ぼやけて滲んだ視界の隅に一輪の花のようなものが見えた。
おのでらくん……。
薄れる意識の中で、最後に形を成したのは彼だった。




