第52話 カガリさんと過ごす哲学的な夜
宴の喧噪からちょっと離れたJOXAの社宅は、僅かに届いている篝火の光と、半月の月明かりに照らされていた。
カガリさんの部屋へと続くドアには、きのこのプックリとした厚みのあるマグネットがくっついていた。
「エアっちもいける口だよね? 戸締まりするの、いつも面倒だからさ」
言いながらカガリさんはつないでいた手を離すと、ドアを開けることなく、そのまま向こうへ壁抜けを行った。
僕もカガリさんの後に続いて、壁を抜けた。
「ようこそ、我が家へ。ニンジャ、エアっち君」
カガリさんの部屋は、仄かに明るかった。四枚の窓から差し込む月明かりが床を照らし、淡いハレーションが部屋全体を青白く浮かび上がらせていた。
「アタシのこと、見える?」
[はい。僕も夜目はきくのでよく見えます。ちょっと砂漠の夜に似ているかも]
「堅いのはよそうよ、エアっち、二人の仲じゃないか」
[今日知り合ったばかりだよ]
「いやいやいやいや、もう、数億年のつき合いさね。会ったのは二回目だけど」
[そうでしたね]
僕は自分が甘田花太郎なのか、わからなかった。花太郎と意識が乖離して、二つの人格ができたとき、そしてマナの”個体の意識に反応して変質する”特性を知った時。僕は自分のことを”甘田花太郎の記憶を持った、全く別の何か”と思うようになっていたからだ。
カガリさんは冷凍庫からカップアイスを取り出すと、蓋を開けて食べ始めた。
電気の灯りは点けなかった。月明かりで見るカガリさんの瞳は、真夜中に路上をうろつく猫の様に、丸く、銀色に光っていた。
「エアッちって、何も食べないの?」
[そうですね]
「お腹は空かない?」
「はい、特に」
「堅ーい」
カガリさんにデコピンされた。……ちょっと痛みを感じて、なんかうれしかった。ここでニヤケるとアキラと同列なので顔に出さないように頑張った。
「何か食べたいって、思ったりしない?」
[う~ん。まぁ、美味しそうだなぁってのはあるけれど、食欲とか、睡眠欲、湧かないんだ]
「性欲は?」
[え?]
一瞬何を言い出したのかと思ったけれど、カガリさんはまじめに尋ねているように見えた。
だから正直に話そうと思った。
[……人らしくあるためには……ある、と、いいなって思う。他の二つは、この身体だし、どうしようもないので。性欲だけは、想像を膨らませることができるから。性欲は”持とうとしてる”かな。よくわからない]
すべての欲求がなくなることを、”悟り”と指す人がいる。俗世から離れ、人ではない何かになる過程を指すこともある。僕はすでに”人ではない”。だから、”人らしくありたい”と思っていた。
「……そっか」
つぶやくとカガリさんは、社宅備え付けのベッドにポスンと腰掛けた。きのこのイラストが可愛いシーツだった。
[騒がしいのはあんまり好きじゃないの? お酒、飲んでないみたいだし]
「うん? 宴会は大好きさ。お酒は普段から飲まないよー? 今日も最初の一杯だけ。今晩は、ちょっちエアッちとお話しがしたくてさ」
[恐縮です]
「うむ、苦しゅうない」
カガリさんはアイスを頬張りながら、月を見上げた。
「隣、来なよ」
変わらぬ調子でアイス食べ続けるカガリさんだったけど、さっきまでとは、まとっている雰囲気がまるで違っていた。
初めて見る表情だった。とても寂しそうだった。
僕はカガリさんの傍らに腰掛けたつもりになった。
「……アタシはさ、触感がね、昔と勝手が違うんだ。この身体になって三年くらい経つからもう慣れたけれど。何かに触れていてもイマイチ触っている感じがしなくって。熱も痛みあるけれど、何かもの足りないんだよね。能力の副作用みたいなもの……かな」
[……そう、ですか]
「だからなんだよねぇ、思わずサイッちゃんギュウギュウしちゃうのは。可愛いし」
しばらく沈黙が続いた。
玄関から聞こえる音楽や喧噪は、ドアや壁の遮蔽物に濾過され、肉抜きされながら部屋中を満たした。静かだった。
「……静かだね」
[……はい]
「ちょっと、見てくる」
[え?]
カガリさんは立ち上がると、突然目の前の壁に顔を埋めた。壁の向こうは花太郎の部屋に続いていた。
肩のあたりから上が壁に埋まっていて、左腕は肘を直角に曲げ、右腕を上下に動かしていた。アイスを食べてるんだと思う。
「ヒエッ!」
やがて花太郎の短い叫び声が聞こえると、カガリさんは「ごゆっくり~」と言いながら身体を戻し、ベッドに腰掛けた。
「サイッちゃん寝かしつけてるだけだったよ」
[だろうね]
「ハナザブロウって性欲あるのかなぁ」
[人並みにあると思う。サイアはちょっと特別なんだよ。ってかハナザブロウって]
「ちょっと言い寄ってみようかなぁ、ハナザブロウ」
[え!?]
カガリさんに笑われた。
[冗談だよ?]
[いや、あの男のドコがいいんだろう? って思っただけだから]
「エアっちは寂しがりだけど、見栄っ張りだからな~」
[見栄を張るのは性分なので]
「それも君が求める”人らしさ”?」
[そうです]
「そこは見栄を張らないんだ?」
[カガリさんに嘘をついても、すぐばれそうだから]
「それでも見栄を張っちゃうのが”性分”ってモンじゃないかな?」
[……]
「ごめん、ちょっと意地悪した」
[いえ、そんな]
カガリさんは僕の唇の動きを読んで会話する。必然的に顔をじっとみつめられるわけで、この距離だし、緊張してるなんて言わなかった。これが僕なりの見栄だ。だけど
「なんか緊張してるね、エアッち」
ばれてた。
「理由は、聞かないでおくね」
カガリさんは、アイスの最後の一掬いを匙に乗せて、口に運ぼうとしたところで、止めた。
「エアッち君。実験だ」
カガリさんが「あーん」をしてきた。
「アタシの能力は、体表面から五センチくらいが有効距離。もしかしたら、”食べられる”かもよ?」
僕はカガリさんに促されて口を開けた。
「ほい、あーん」
カガリさんの持つ匙が僕の口中に入ると、ヒンヤリとした空気を感じた。そして、バニラの香りが漂ってきて、僕の舌の上に何か固形物がのっかったような、そんな感触があった。
だけどダメだった。アイスは僕を透過して、シーツの上に落ちた。
[すいません。汚してしまいました]
「うむ、うむ。いや、立ちあがらんでよいぞ」
カガリさんは空になったカップと匙を置くと、座ったままの僕の身体を透過して、シーツに広がるアイスを拭おうとした。
「……あれ?」
カガリさんの手が僕の腿のあたりにふれたまま、止まった。
「ごめん、エアっちは透過できないっぽい。やっぱ立って」
[すいません]
「……はい、どーぞ」
カガリさんが落ちたアイスを拭ってくれて、僕は再びカガリさんの隣に腰掛けた。
「……アイス、どうだった?」
[……甘い香りがしました]
「冷たかった?」
[うん。舌先に何か乗ってる感じがした]
「でも、すぐ落ちちゃったね。匙がいけなかったかな。もっと直に食べさせることができればいいのかなぁ・・・」
[く、く、く、口移しですか!?]
パーンと音を立てて両手で僕の頬を挟んで、見つめてきた。
「本気と判断していいのかな、性欲の権化君? でも残念、アイスもうなくなっちった。だから言えたんだよね? 今の言葉は」
「……はい」
やはりこの人に嘘はつけそうにない。
「君は本当に見栄っ張りだね。冷凍庫にはまだアイスあるけど、試す?」
[またの機会にする]
「またの機会があるといいねぇ」
カガリさんは僕の頬から手を離すと、カップアイスをゴミ箱に捨てた。
「昼間のことなんだけどさ。エアっちは大丈夫だった? アキノシンが言ったこと」
[アキノシン?]
「未次飼君が言ったこと。魔導集石がなくなったら、私たちは消えるって話。実はあの話、前にユリっちとその他大勢を交えて、議論したことあるんだよね。アタシはもう踏ん切りついたけれど、時間はちょっちかかっちゃったからね。エアっちはどうかな? って」
[……そこまでショックは受けなかったよ]
「本当?」
[花太郎の方がヒドかったんじゃないかな]
「そうだね、でもハナザブロウにはサイっちゃんいるし」
[カユくなりますよね、ふたりみてると―]
「アタシ、君の話しがしたいな」
[……僕は、こんな身体じゃないですか。眠らないから、一人で考える時間は、たくさんあった。僕に”死”は内在しているのか、もしかしたら永遠の時間を過ごすのではないか? と、みんなが寝静まった後は、よくそんなことを考えます]
「答えは出た?」
[コギト エルゴ スム(我思う、故に我あり)ということにしてます。なにも考えなくなったときが、死ぬときです」
「そかそか、デカルトに感謝だね。アタシも、そう考えることにしよう。デカルト&エアっちに、礼を言おうゾ。あんがとね」
[じつは僕、”方法序説”は四ページくらいで挫折しました]
「え? あれ哲学書で、一番読みやすいと思うよ。面白いじゃん」
「”こんなもの読まずとも強く生きれるぞ、僕は!”みたいな”見栄”があったんです」
「左様か、左様か。”我思う”のくだりだけは、一人歩きして有名だからね」
[おかげで助かりました、僕の方は]
「……ハナザブロウが心配?」
「はい。アイツにはちゃんとした、身体があります。寝るし、食べるし、性欲だってありますよ」
「アタシの胸、チラチラみてたもんね?」
「見てましたね」
「……妬いてるねぇ? エアッち君」
「……はい」
「そこは見栄張りなよ!」
結構強めに額を叩かれた。
一瞬視点が宙を向くと僕の首筋に絡みつくような体温を感じた。
カガリさんの腕が僕の腕に巻き付いて、引き寄せられた。
「エアっちって軽いね~」
[肉体強化のせいだと思います]
身長こそカガリさんの方が少し高いけれど、肩幅は僕の方が断然広い。だから、パワー負けしちゃったこの状況は、すこし恥ずかしかった。
「そういうことに、しておこう」
僕をガッチリ掴んだままカガリさんはベットに横になった。僕はカガリさんに背中を向けていたけれど、僕の身体が透けて見えているのか、会話が滞ることはなかった。
「エアッちってなんだかんだ言って、ハナザブロウに優しいね。ファウストを惑わすメフィストなんかじゃないね」
「器の大きな男だと、言ってください」
「エアっち。さっきからずっと敬語だね」
「……話を、聞いてもらってますから」
「そんなことないよ」
カガリさんの腕の力が強くなった。キツく締められる痛みはあったけれど、苦しくはなかった。僕は呼吸を必要としていないからだ。
「アタシ、この身体になってから、よくアイスを食べるようになったんだ」
傍からみれば明らかに食べすぎで、面白おかしくツッコムところなんだけど、カガリさんが僕をかき抱く力は強くて、顔は見えないけれど声は少し震えていた。それがこの話題が深刻であることを僕に教えてくれた。
[味覚……ですか?]
「うん。味覚は昔のままだったんだ。熱いのとか冷たい感覚もちゃんと機能していて。だから、アイスを食べるようになった。アイスがないときは、氷舐めてるときもあるのだよ~」
[ごめん、悠里。今は気丈にならなくていい]
「あんがと、エアっち。でも、アタシはエアっちよりも、見栄っ張りだからさ」
[……今は、俺の”見栄”にだまされてほしい]
「……それ、カッコ悪いゾ。ちゃんとだましてよ」
[努力する]
「じゃぁ、騙されるように努めとく」
僕は、カガリさんに抱き枕にされながら、どうすれば”器の大きい男”と見られるか、必死に考えて、言葉を探した。だけど、なかなか見つからなかった。
だから、沈黙を選んだ。カガリさんが話し出すまで、待つことにした。
衰えることのない、肉抜きされた宴の音がしばらくの間、カガリさんの部屋を支配した。
「……ユリっちが今日話していたこと。アタシの能力の正体が”他次元干渉”じゃないかって話。検証のしようがない、初めて聞いた仮説なんだけどさ。アタシ、なんか腑に落ちたんだよね。君の身体が、暖かかったから」
[……]
「君の本体が他次元にあって、そこにはアタシの身体が……触感を持っているアタシの身体があって、それが君の身体に触れているんだって、感じたよ。だから初めて君に触れたとき、実はビックリしてたんだよね」
「ぜんぜん気づかなかった」
「見栄を張ってたからね」
「ちょっと悔しいな」
「君はビックリした顔してたもんね」
[思い出させないでよ、気恥ずかしいから]
「うれしかったんだ。君がそんな表情を見せてくれたから」
[俺は悠里が驚いている顔、見たかったな]
「君は暖かいよ。心も体も、暖かく感じる。君は今、アタシの”触りたい”って気持ちを満たしてくれてる。それと一緒に”もっと、もっと触りたい”って欲望を掻き立ててるんだ。だからさ……今日はこのまま寝かせてね?」
「……うん」
「そこはさァ、”風邪引くから、毛布くらい掛けな”とか言いなよ~。もっと君は余裕を見せなくっちゃね? ”ニセっぱり”さん」
「うん、ごめん」
カガリさんは自身に毛布を掛けると、再び僕をかき抱いた。
「おやすみ、甘田花太郎」
「おやすみなさい、悠里」
「……おやすみなさい。アタシの悪魔」
その夜は、時間が経つのがあっという間で、カガリさんの立てる寝息と体温で、僕の心は安らいだ。
まるで眠りにつく前の一瞬のまどろみのような。強いて例えるなら、そんな心持ちだった。




