第141話 カウントダウン
「アンタ、今日はこれ読んどきな。勿論私が仕事から帰ってくるまでに」
「分かった……」
渡されたのは現代国語の教材。彼の目は輝いていた。これを読めば母が作るご飯が食べられる。
閉じ込められた六畳の部屋には日に日に教材が溜まっていった。それも全て母が仕事帰りにゴミ捨て場から拾って来た物ばかり。ジャンルなど勿論バラバラだ。現代史から世界史、英語に科学。時々全く関係の無い大人の雑誌などもあった。彼は何一つ不満を漏らさずに一日でそれら一冊一冊を読み上げる。
しかしそれも毎日では無かった。新しい本が無い日はご飯が無い。だが彼は空腹に耐えながらも次に渡される本は何かと楽しみにしつつ、過去に読み終えた教材を再び読破する日々を送る。
そんなある日、今日も新しい本は無いが過去の本を読み漁っていた夕暮れ時。すんなりと差し込まれない鍵の先端を擦り、カタンと開錠する音が彼の耳に届く。だがそこにはいつもとは違う音が混ざる。不快な音だった。
「早く準備しろよー。オレもウズウズしてんだー」
「分かってるってぇ。私だって早く飲みたいしユウ君に抱かれたいー。あぁんもー、もうちょっと待ってぇ」
彼の天敵が母と共に玄関で情事を重ねようとする。不快極まり無かった。大人の雑誌を読み耽りながら悶々とする下半身を思い出す。自身では得られる事が無い、相手を交えた快楽。
「なぁ、ところであのガキはどうしたんだよ」
「あ、ちょっと待っててね?」
「おいおい、まだ居んのかよ」
母が六畳の世界に入り込んで来た。
「今日はもう帰らないからこれ読んどいて。明日の朝までに読めたらご飯作ってあげる」
渡された本にはこう書いてあった、『希望を持って生きるには』。勿論著者など知る筈も無い。母から渡された本を見て、彼の心の奥で何か強い衝撃を与えられた様にドシリと痛くなる。
ユウ君と呼ばれたチャラい男が母を押し退けて、彼の世界に土足で入り込んできた。
「おい、どけ。コラガキィ!! いつまで生きてんだ! さっさと死ねよ! じゃねえといつまでたってもお前の母ちゃんがこの部屋から離れねんだわ!」
「ユウ君それは言い過ぎだよぉ。仮にも私の息子だよぉ?」
「はあ? 散々目の上のたんこぶとかゴミとか言ってた癖に、いざとなったら庇うのかよ!」
「だってこの子天才なんだよ? 渡した本を一日も掛からずに全部読んじゃうんだから! 高校の教材だよ? 教えても無いのに全部解いちゃうんだよ?」
「だからなんだってんだ! そんなもん社会に出りゃ必要無くなんだよ! あ、お前は社会出る事はねえか」
「そんな事言わないでよぉ。もしかしたら天才学者にでもなってお金稼ぐかも知れないじゃん」
「んな先も分からねえ希望なんて持ってんじゃねえよ。所詮アバズレのガキなんか先が知れてんだよ!」
男は母を押し倒し、部屋に並べてある教材を蹴り散らかした。
その時、彼の中に辛うじて保っていた一本の命綱に綻びが入った。
「お母さんに、大切な本に触るなぁああ!!」
「んだとクソガキィ!」
必死に男の脚にしがみ付き、母を、本を守ろうとする彼。だが、大人の力に勝てる筈も無い。髪の毛を鷲掴みにされ、痛さに耐えきれずに頭を引き上げられる。しかし、涙ながらに男を睨むその眼は必死に生きる炎を宿していた。
「んだその目は。ムカつくんだよ!」
「ユウ君止めて!」
そこからは一方的だった。
頭を床に押し付けられ、膝が鼻を折った。
拳が歯を砕いた。
つま先が肋骨にひびを入れた。
それでも彼は、この小さな世界を守ろうと立ち上がる。
横から振りかぶられる腕を彼は捉えた。咄嗟にしゃがみ、足元にある渡された本を掴んだ彼は思い切り振り回す。
――『希望を持って生きるには』、がむしゃらに進むしかないのか。こんな未来も見えない生活に希望を持って良いのか。
本の角が男の脛を直撃する。
「痛っ!! こんのガキぁあああ!」
彼の渾身の一撃に怯んだ男だったが、それも束の間。火に油を注いでしまったかの様に、更に暴力の嵐が降り注いできた。
「ハァハァハァ。チッ、クソが! その目が気に入らねえ」
血塗れの六畳に横たわる小さな彼を横目に、男は台所へと足を運ぶ。
「ウソでしょユウ君!? それはダメ!」
「うるせえ! テメエは黙ってろ! どうせ邪魔なんだったら今ここで殺してやるよ!」
鈍色に光る包丁が彼を見据えている。ゆっくりと近付く男の足音。
カウントダウンが始まった。
――十、ゆっくりと握られた銀色が歩行に合わせて揺れる。
――九、必死にしがみ付き狂気を止めようとする母。
――八、今から起こる出来事を理解した彼は、六畳の隅に肩を預ける。
――七、床に散乱した教材を足蹴にし、道を作る男。その目はもはや少年を見ているのではなく、何か別のモノを見ているかの様に薄ら笑いを浮かべる。
――六、尚も止めようとする母の顔面に男の肘打ちが入る。
――五、夕暮れ時の団地の広場で無邪気に遊ぶ子ども達のはしゃぐ声が聞こえて来る。
――四、足の震えが止まらない。だが、このまま膝を折ってしまえば立ち上がる事すら出来ないだろう。
――三、玄関のチャイムが鳴り響く。
「奥さん? 大丈夫ですか? さっきから物音が凄いですが」
――二、男の右腕がゆっくりと後ろに引かれた。
――一、悲鳴が、恐怖が、狂気が部屋に響き渡る。
――零、時間が止まったかの様に静かになる部屋内。外からは扉を叩く音と隣人の呼び掛け。外からは依然として子どもの声が聞こえて来る。
男の身腕から滴る血が一滴、また一滴と床に血溜まりを作っていった。
「ユウ……く、ん。それだけは、ダ、メ」
狂気に晒された少年の壁となったのは母だった。震えながら、痛みに耐えながらも必死に子の壁とならんとする母。だが、刺された腹部からはおびただしい量の血が流れ出る。
「邪魔ナんだよおおおおおお!!」
男は目の前に遮られた壁を突き崩すかの様に、何度も、何度も、何度も右腕を前後させる。もはや息は無かった。だが、男の肩を握った手は離れず壁となったまま立ちはだかっていた。
彼からは何が起きているのか分からない。ただ目の前で母と男が揺れている光景を、瞬きもせずに眺めていた。
何度も、何度も、何度も揺れ動く身体。次第に血溜まりが彼の足元にまで広がった。濡れる足元を見て初めて理解したのだ。
「オレの女を殺したのはお前だ。楽に死ねると思うなよ」
崩れた壁を払い退けた男が右腕を振り上げる。彼は何も出来ない。ただ両手で頭を庇い、防御の姿勢を取った。勿論、刃物が生身に敵う筈が無い。振り下ろされた包丁は彼の腕を切り付ける。
痛みは無かった。何度も振り回された包丁は彼の全身に切り傷を付けていく。全身を切り刻まれる恐怖より、彼は何故母が盾になったのか。それが疑問で仕方が無かった。
「声の一つも上げねえなんて気持ちわりぃんだよ。死ね」
ゆっくりと異物が腹を割いて進んでくる感覚があった。唐突に訪れる息苦しさ。男の殺意が止んだと同時に倒れ込む少年は、既に果てた涙目の母と目が合う。
「チッ、胸糞わりぃぜ」
目の前に捨てられた包丁は未だに殺意を残したままだった。




