母上と呼ばれること
「母上、大丈夫?」
「ええ。大丈夫よ」
……あの湖での一件の後、クリヒムは私のことを「母上」と呼ぶようになった。ティアヒムも「……クリヒムが呼ぶから、私も」なんていって、同じように呼んでくれるようになった。
まさか、こんなに可愛い子供たちからそんな風に呼ばれる日がくるなんて……! と感激した気持ちでいっぱいになる。
私は前世から、子供が好きだった。いつか、子供を産めたらとそう思っていた。それは私の命が限られているから難しいけれど、こうして私を母と呼んでくれる子達が居るだけで嬉しい。
私はそのことが嬉しいと同時に、この幸せな時間が限られていることが寂しく思う。
紙に旦那様に伝えたいことを記載すること。それを無理して進めているのもあって、私の体調はすこぶる悪かった。
出来れば旦那様や子供達に悟られないように進めたいと思っていたのに、この前の魔物の件があるからゆっくりもしていられない。
本当は倒れそうなぐらいに辛い日が度々ある。だけど私は歯を食いしばって、基本的にはなんとか平然を保っている。
「本当?」
「ええ」
こうやってクリヒムに嘘を口にしなければならないことは何だか申し訳ない気持ちになる。
それにしても母上と呼ばれるだけで、辛い気持ちも何もかも吹き飛んでいくようなそんな風に思える。
自分のことがなんて単純なんだろうと、私は驚く。
湖で魔物にクリヒムが襲われるということは起こったけれど、それ以外は比較的平穏で何も起こっていない。
あの一件に関しては結局バルダーシ公爵家が起こしたことかどうかは分からない。少なくとも表向きは魔物がたまたまあの場に現れてしまっただけだとは言われている。
ただそれは私に情報が与えられていないだけかもしれないけれど。
……まるで嵐の前の静けさのようだと思う。
私に対してバルダーシ公爵家の手の者が、あれ以来接触をしてこないのも余計に怖い。
私は密命を受けて、前世の記憶を思い出して――腹を括ったつもりなのに、やっぱりどうしても恐怖心が芽生えてしまう。
「クリヒム、今日は何をする?」
「んーっとね、じゃあ、一緒に本を読もう」
クリヒムがそんな風に体を動かさなくて済むことを口にするのは私の体調のことを考えてのことだと思う。本当に優しい子。
気遣いが出来て、私のことを慕ってくれて、笑いかけてくれて。
うん、私はクリヒムのことが可愛くて仕方がない。
それから私たちは書斎へと向かって、本を読むことにする。クリヒムは小さいのに、難しい本を読むのが好きみたい。絵本のようなものも、ちょっと難しい本も楽しんで読んでいるようなの。
「母上はどの本読む?」
「そうね、私は……」
そう口にしながら私は本棚に並べられている本の背表紙を確認する。
何度もここには足を踏み入れ、本を読んだりはしているけれど――まだまだ読んだことのない本が沢山ある。
だから何度やってきても飽きもしなくて、本当に楽しいの。
結局私が手に取ったのは、絵も沢山描かれている魔法についての本。
それぞれで違う本を読むのもいいと思うけれど、折角一緒にいるのだから同じ本を読みたいなと思ったの。
だから私はそれを選んだの。
「この本を一緒に読みましょう」
「うん!」
私の言葉を聞いて、クリヒムは嬉しそうに頷いた。
一緒になって本を覗き込む。そして絵や文章を読みながら、色んな意見を交わす。
魔法も好きで、クリヒムも好きで……だからこうやって一緒になって魔法の本を読むのは何だか嬉しい気持ちでいっぱいなの。
「この魔法って、父上も使ってたね」
「ええ。そうね」
丁度、魔法の本には旦那様が魔物を倒した際に使っていたような魔法が描かれている。
クリヒムの表情に怯えなどはなくて、それにはほっとする。
だって初めて魔物と遭遇したのならば、クリヒムが魔法を怖がってもおかしくないとそう思っていたから。
見た目は愛らしいクリヒムだけれども、そういう部分は肝が据わっているのかも。でも本心は恐怖しているのかも……と心配になったから何度も問いかけたけれど、本当にクリヒムは気にしていないようだった。
「魔法の本を読んでいるんですか?」
夢中になって本を読んでいると、いつの間にかティアヒムがやってきていた。
「ええ。一緒に本を読んでいたの。ティアヒムも一緒に読みましょう」
私がそう言ってティアヒムを誘うと、すぐに頷いてくれる。なんだか前より、私に心を許してくれているのが分かって嬉しくなるわね。
「はい。母上」
母上とティアヒムも、私のことを呼んでくれる。
本当になんて幸せなことなのかしら。自然と笑顔になった私は、体の内側の痛みも――なんとか忘れられたのだった。




