090話:ファルム王国の密偵・その3
しばらく、その何もなかったかのような空間を眺めていたけど、やはりそこには何もない。わずかな「黒いもや」の残滓すらも。
「お前、こうなることがわかっていたのか……?」
王子の問いかけ。しかし、わたし自身、こうなるとは思っていなかった。結果的にクロガネ・スチールがこの学園を去るということはわかっていても、どうやって去るかまでの検討はついていなかったのだから。
こうも直接的にわたしたちの前に出てきて、そのあとに姿を消すとは考えていなかった。
「こうなるとわかっていたらもう少し計画的に動いていました。予想以上に大胆な行動に出てきたので驚いているところです」
一応、準備はしていたものの、このような形になるとはほぼ想定していなかった。投げた鏡を拾い上げる。鏡は割れてしまい、もはや使い物にはならないだろう。
「なるほど、いざというときというのはああいう状況を想定していたのか……」
お兄様がぼそりとつぶやいていたけど、まあ、その通りだ。闇の魔法使いと戦うことになったときを想定して、わたしは鏡をいくつか常備していた。ただ、無効化できるものとできないものがあるし、マカネちゃんのものとどこまで一緒なのかもわからなかったので、本当にいざというときの手段でしかなかったけど。
「しかし、やつの目的はなんだ。宣戦布告と言っていたが」
「……それに関しては約束通り教えることになるので、もう少しばかり待っていただけませんか。今回の件とその関係の処理をしてからということになると思いますので」
まあ、処理をするのはラミー夫人なのだけれども。そのあたりの顛末しだいでは、様子が変わってくる。だから、それまで待ってもらうことになるでしょう。
「つまり、やつの行動とお前の目的が関係していると?」
「あくまでわたくしの目的の一部にですが。もちろん、彼の……、いえ、彼らの目的とわたくしの目的は相反するものではありますが」
この場合の「彼ら」とは、わたしからすればスパイたちのことを指すけど、王子の感覚としてはクロガネ・スチールとアルカイドととらえるかもしれない。
「まあ、そうだろうな。でなければ、行動を邪魔する必要はない。そこに関しては心配していないが……」
そうだろう。そもそも、わかりやすく敵対していたわけだし、協力関係や協定関係があったようには見えないでしょう。
「カメリア様、これは、母とカメリア様が最近、頻繁に会っていたことと関係しているということでしょうか」
アリュエット君の言葉。それに対して、わたしは頷くべきかどうか迷った。けれど、その部分を隠したところであまり意味がないような気もする。
「そうですね。……わたくしの知るところで、話せる限りのことを説明します。ただ、話せるのは、彼らがどういう立場で、それに対してどういう対応が行われていたのかというところまででしょう。それ以上のことは陛下やラミー様の言がなくては話すことができません」
まあ、というのは方便で、別に話そうと思えば話せるけど、ラミー夫人たちが、おそらく戦争のことまで聞き出していないであろうこのタイミングでそれを口にするわけにもいかないし、そもそもここにいる面々にそれを言う気もないというだけ。
そして、王子は、その部分が真に聞きたい「目的」に関する部分ではないというのがわかっているのだろう。だからこそ、特に口も出さずに話を聞こうとしていた。
「まず、彼らの立場ですが、近隣国から情報を探りに来た密偵です」
それを聞いての反応は、王子やお兄様は「予想通り」という反応。アリュエット君は驚きこそしたものの平静、クレイモア君は特に何の反応もない。シャムロックはそもそも聞いていない。アリスちゃんはピンときていないという感じ。
「どの国だ。ファルムかベリルウム、クロム……、どの国でもおかしくはないが」
「それは後の調査しだいで明らかになるところでしょう」
まあ、わたしは知っているし、その前提で調べていたのだから。でも、一応、調査しだいということにしておく。まあ、この後の発言で、どこかわかる程度にはほのめかすでしょうけど。
「お前でもわからないのか?」
「断定はできません。予想はできていますが。ちなみに、その予想はわたくしとラミー様が同様の見解になっています」
つまり、2人はそう考えているという程度の話。ただ、ラミー夫人がそう考えているとわかれば、その信用度は一気に上がるだろう。
「クロガネ・スチール……、近隣国の密偵……、それだけの材料が揃えば、答えを言っているような気もするが?」
王子はそういえば、わたしが最初にクロガネ・スチールの名前に反応したことを知っていたし、そのときに「スチールと言えば」と言っていたので、そこからファルム王国の宰相にたどり着くのは必然か。
「そもそも、ことの起こりは、ロードナ・ハンド男爵令嬢の一件でした」
王子の言葉に答えることはなく、わたしは、その発端について語りだす。しかし、すでにロードナ・ハンドの名前自体が抜け落ちているであろう反応も多く、苦笑した。「アリスさんに危害を加えていた男爵令嬢のことです」と補足して、「ああ、あの一件の」と納得していた。
「しかし、それと今回の件に何のかかわりがあるんだ?」
話を聞いていなさそうだったシャムロックが、眠たげな声でそんなことを言う。確かに、そう思うのも無理はない。
「あの人……」
アリスちゃんがぼそりとつぶやく。それはロードナ・ハンドを指しての言葉かとも思ったが、違うようだ。
「ロードナ様はあのとき、『あの人もあなたはいないほうがいいと言っていたわ』と言っていたんです。まるで、だれかそそのかした人がいるみたいに」
その言葉は、確かに、あのとき近くにいたわたしたちにも聞こえていた。そして、その言葉でクロガネ・スチールを想起した。
「彼女、ロードナ・ハンド男爵令嬢は平民を虐げる思想をしていました。ですが、商家出身のクロガネ・スチールの言葉には従っています。最初は、出身を知らないだけなのかもしれないと思っていましたが、彼の出身はハンド男爵領シャープ村。そのうえ、ハンド男爵の推薦で魔法学園の事務講師に就いています」
知らないはずがない。そのことは、みんなにも伝わっただろう。それに対して、クレイモア君が口を開いた。
「身内だから例外として扱っていたというだけなのではありませんか?」
「ええ、そうですね。それだけならば、そうだったかもしれません。ですが、その調査の過程で明らかになったのは、別の問題でした」
まあ、別に端からロードナ・ハンドのことは置いておいて、クロガネ・スチールを中心に調査していたのだけど、話の流れとしてそういうことにしておこう。
「ハンド男爵領シャープ村というと以前、僕が母からカメリア様に伝言を預かったものでしたよね」
そう言えばそんなこともあった。そのあと、ラミー夫人がわざわざ実地に赴いて調査をしてくれてわかったことがある。
「はい、そのハンド男爵領シャープ村です。ですが、その村はクロガネ・スチールが生まれるよりも以前に廃村になっていました」
「出身地の偽装か。そうなると商家出身っていうのも怪しいが」
王子の言葉を受けて、「それでも」とお兄様がわたしに対して言葉を投げかける。
「そのくらいのことは、言ってしまってはなんだけど、よくあることだと思うんだけど」
「ええ、ですが、ハンド男爵には不自然な噂もありました。妙に羽振りがいいと」
それに対して反応を見せたのは意外なことにシャムロックだった。いや、家柄を考えれば意外ではなく、正しいことなのかもしれないけど。
「出身偽装と推薦で金銭をもらっていたってことか?
だが、たかが数人にそんなもんをもらったくらいで羽振りがよくなるか?」
「ええ、たかが数人なら。それがもし、他国からだったらどうでしょう」
わたしの言葉に息を飲む。それが近隣国の密偵につながるのだと。そして、その時点で、ハンド男爵領の位置がわかれば、密偵がどの国からやってきたのかも必然的にわかってしまう。
「他国からの密偵の身分を偽装して、国の内部に推薦していたということか……。下手すればこの国の内情は筒抜けだぞ」
「もちろん、確証もなしにそのような決めつけはできません。ですから、校外学習前にわたくしとラミー夫人は王城での資料整理という名目で、ハンド男爵が推薦した人物を探し出して、その中から密偵であろうものを探し出し、証拠をつかもうとしたのです」
別棟での資料整理に参加していたアリュエット君とアリスちゃん、そして、そのことを知っていた王子は目を見開いていた。
「通りで妙だと思った。資料整理ならばお前らなど使わずとも人員はいくらでもいた。オレとしてはいつも通り、彼女が面白いもの見たさでアリスを見たかっただけだと思っていたが……」
まあ、そういう面もあったのは事実なので、あながち見当違いでもない。ただそれだけではなく、スパイ探しという面もあったというだけのこと。
「そして、アリスさんの誘拐事件です。校外学習の間にラミー様が密偵と思しきものたちを調べた結果、わたくし、ラミー様、アリスさん、『黄金の蛇』が邪魔な存在として彼らの中で挙がっていたこと、そして、アリスさんを誘拐することが判明したそうです」
「誘拐事件ともつながっていたのか……。じゃあ、お前があえて先に誘拐事件をつぶさずに、アリスが誘拐された後の解決を充実させていたのは」
「はい、彼らの動きを探るためでした。そして、誘拐事件を防いだ程度では、その裏にいる彼らは、また別の何らかの方法をとるだけだとも思っていました。それゆえに、あのような形で密偵たちをあぶり出そうとしたのです」
そう言ってから「あらためて申し訳ありませんでした」とアリスちゃんに頭を下げた。アリスちゃんは話についていけなくなってきたのか、混乱しているようで、ぶんぶんと首を横に振るだけだったけど。
「あのときおっしゃっていた裏で手を引くものとは、インテスティン子爵のことではなく、さらに裏にいた密偵たちのことだったのですね」
クレイモア君が誘拐事件のときのことを思い出し、納得したようにうなずいた。
そして、ようやくいまの話になる。
「そして、誘拐事件のおかげであぶり出した密偵たちを昨日の夜に一斉検挙する予定になっていました。この件を知っているのは陛下とファルシオン公爵、ラミー様、一部の騎士、そしてわたくしだけ」
「つまり、それを逃れ、自分の国に逃げおおせる前に、邪魔な存在を1人でも消そうとアリスの前にやってきたというのがやつの動きか」
と言い、そのあとつぶやくように「そして、やつらの探っていた情報こそが目的とやらに関係しているということか」と王子が漏らす。
「密偵がいたというだけでも大事件ですが、それが貴族によって国の中枢付近にまで手が伸び、あまつさえ逃したとなれば、国は大混乱に陥ります。くれぐれもご内密に」
わたしの言葉にそれぞれがうなずいたり、軽く手を振ったりして了解の意を示して、もはや講義どころの状態ではなくなったのだろう。各々帰路についていく。
その場に残ったのはわたしとアリスちゃんだけであった。




