089話:ファルム王国の密偵・その2
決行日の翌日。つまり、昨日の夜というべきか、それが今日にまで跨っていたのかはわからないけれど、おそらくファルム王国からの密偵を捕らえる作戦が決行されたはずだ。
しかしながら、わたしにその情報は入ってきていない。まあ、捕らえられたにせよ、逃げられたにせよ、ラミー夫人は現在、その処理でとてつもなく忙しいことだけは間違いない。
陛下やファルシオン様への対応もあるだろうから、わたしへの対応が後回しになるのは仕方のないことだろう。
そう思いながら魔法学園で過ごしていたときのこと、わたしの耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「アリス・カード。クロガネ講師から庭園に来るようにと言伝を預かっているぞ」
クロガネ・スチールとは別の事務講師がアリスちゃんに向かってそう話しかけていた。
それはつまり、彼がこの学園に来ているということ。昨日、決行されなかったのか……?
いえ、それならそれで、緊急の連絡がきていてもおかしくない。
なら、クロガネ・スチールは逃げおおせた挙句、未だ、この学園に来ているということだろうか。
そんなリスクの高いことが……。いや、彼らの目的は、……少なくともクロガネ・スチールたちの目的は、ファルム王国にとって邪魔になる存在の見極め。
誘拐事件といい、この呼び出しといい、とりあえずアリスちゃんだけでも取り払っておこうという腹積もりなのかもしれない。
「わ、わかりました」
アリスちゃんはその話をすんなりと受け入れた。
というよりもこの状況でそれを疑問に思う人などほとんどいなかっただろう。何もない日常の一コマとして、記憶から消えていく程度の情報に過ぎなかったと思う。
何せ、公にできないということで、ごく一部しかクロガネ・スチールの現在の立場を知る人はいないし、下手に騎士たちを動かして捜索するわけにもいかない。だからこそなのか、クロガネ・スチールはこの魔法学園にとどまったのかもしれない。
庭園へ向かおうとするアリスちゃんを見て、わたしは別の方向から庭園へ向かうことにした。このとき王子に声をかけなかったのは、王子の安全確保という意味もあるけど、何よりウィリディスさんを連れていくわけにはいかなかったから。
クロガネ・スチールが王子ではなくアリスちゃんを呼び出した現状を見るに彼はまだウィリディスさんのことを知らないのかもしれないけど、それでも。
「それで、何だって庭園に勢ぞろいしてやがるんだ?」
庭園についたわたしにシャムロックのけだるげな声が届いた。
そう、彼の言う通り、庭園には王子とウィリディスさん、お兄様、シャムロック、アリュエット君、クレイモア君、アリスちゃんという「たちとぶ」主要メンバーが勢ぞろいしていた。
「何、少し庭園への呼び出しというのが気になってな。わざわざ呼び出すのにどういった理由があるのかとな」
王子はそういう。ついでお兄様が「ボクは偶然、その移動中のアンディーを見つけてついてきただけだよ」と付け足した。まあ、王子はそのほかに、わたしの言った「クロガネ先生が去ったら」という言葉もあって気になったのかもしれない。
「僕は母より、アリスさんをそれとなく見守るようにと数日前から言われていましたので」
どうやらアリュエット君はラミー夫人にアリスちゃんのおもりを頼まれていたらしい。まあ、こういうことも予期していたということでしょう。
「同じように父から言いつけられていました」
そんな彼と同じようにクレイモア君もファルシオン様の言いつけがあったようだ。ちなみにシャムロックはいつものように庭園で寝ていたようだ。
……しかし、ここで「たちとぶ」の主要キャラクターが勢ぞろいするのは、運命というか何らかの作用が働いているのではないかと勘繰ってしまう。なるべくして、集まったかのように。
「見守るように、だと?
まるで何かあるみたいだな」
そう言って、王子はわたしのほうへ視線を向ける。何か知っているんだろうといったような目で。
だけど、わたしがそれに言葉を返すことはなかった。
なぜなら、困惑するアリスちゃんの後ろからクロガネ・スチールが歩いてくるのが見えたから。
「おや、呼び出したのはアリス・カードさんだけだったと思いますが」
などと白々しく言う彼は、普段の態度をまったく崩していないものの、普段のキッチリとした格好とは違い、服のよれやしわが目立つ。
当然、着替えているような余裕もなかったのだろう。あるいは、その必要を感じていなかっただけかもしれないけど。
「まあ、ちょうどいいと言えばいいですかね。帰還命令が出ていたということは、そういうことでしょうし、宣戦布告には……、嗚呼、ちょうどいい」
やはり、こちらの作戦と同時期には「帰還命令」とやらが出ていたようだ。宣戦布告というのは、もう戦争が起きる前提なのだろう。
「何の話をしている」
王子がにらみつけるが、彼はまったく意に介したようすもなく、ひょうひょうとした態度で言葉を躱す。
「いえ、どのような話かは気にせずともかまいませんよ。いずれわかることでしょうから」
そういって、彼が伸ばした手。
そこから不気味なほどに「黒いもや」が、アリスちゃんに向かって伸びる。わずかばかりの煌めく星のようなものをまとった「黒いもや」。それを見た瞬間に、わたしは持ってきていたカバンに手を突っ込んだ。
「な、なんですか、これ……」
アリスちゃんは「黒いもや」を振り払おうと、手をかざすけど、通り抜けるだけで意味をなさない。
だから、アリスちゃんの目の前にカバンから取り出したあるものを放り投げる。放物線を描きながら、彼女と「黒いもや」の間に割り込むそれは鏡だ。
「何を」
何をするとか、何をしても無駄とかそんなことを言いたかったのかもしれない。
だけれど、「黒いもや」が晴れたことでクロガネ・スチールの言葉は止まる。まるで、それで打ち消せるということを知らなかったかのように。
「どういうつもりですか、アルカイド」
虚空に向かって話しかける彼の物言いは、打ち消されたというよりは、それがそれ自身の意思でやめたのではないかと疑っているような言い方。もしかして、本当に知らなかったのだろうか。
「いまのはこちらの意思ではないさ、クロガネよ。上手い具合に鏡を滑り込ませて、あの魔法の発動を阻害されたことが原因だ」
晴れた「黒いもや」の残滓が集まるように、クロガネ・スチールの付近で形を形成していく。その姿はまさしく死神。
死神アルカイド。月の神ベネトナシュの半身。
「鏡で阻害されるなど聞いていませんが」
「言ったならお前は鏡を気にするようになる。それは敵に弱点を教える行為だ。だからあえて教えなかったはずなのだがな。アルコルにでも聞いたか」
死神は不敵な笑みでわたしを見下ろした。だが、あいにくと天使アルコルからそんなことを聞いた覚えはない。というか、アルコルも知らないのではなかろうか。
鏡で無効化できるという話は、「たちとぶ2」で、ほかならぬ死神アルカイドから聞いたことである。そのときに、アリス……アリス・スートについていたアルコルは知らないようなそぶりをしていたし。
「あいにくですが、わたくしは聞いただけですよ。ほかならぬ死神アルカイド、あなた自身に」
ウソは言っていない。まあ、アルカイドが話した相手はわたしではないけれども。
その言葉に、アルカイドは不可解そうに眉を寄せた。覚えがまったくないからだろう。そもそもこれから未来で話すかもしれないことを聞いていたなどと言われても、いくら天使や死神も信じられないだろう。
「虚言ではないな。だが、あり得ないことでもある。そして、その胸の内に光るまばゆい魂。よもや、ミザール神の介入か」
そう言いながら、アルカイドはアリスちゃんのほうへ視線を向ける。いや、正確にはアリスちゃんのそばに「在る」はずの天使アルコルへ。
「少なくとも私は聞いていません。何より、このような介入が行われることがないことはベネトナシュ神の半身であるあなたが一番知っているでしょう」
死神を鋭くにらみつけながら現れた天使はそのように言った。だが、その声が聞こえているのは、わたしとアリスちゃんとアルカイドにだけのようだ。
「確かに、かつて、お前が死神であった頃、こちらが天使とされた頃より、そのような介入が行われたことはなかった」
……アルコルが死神だった?
ビジュアルファンブックでもそのような記述があった覚えはない。
だけど、ずっと引っかかっていることはあった。それは、天使アルコルの名乗りを聞いたときからの疑問。
――アルコル、輔星、忘れられたもの、死の兆しもつもの、死兆星。
彼女の呼ばれ方として挙げられる名前。アルコルや輔星はわかる。忘れられたものもわからなくない。
だけど、天使が「死兆星」、「死の兆しの星」などという縁起の悪い呼ばれ方をしていたのが疑問だった。
いや、前世におけるアルコルがそう呼ばれていたことは知っている。もうすぐ死ぬ人には見えないとか、逆に死の運命にあるときに見えるとか、そういった言い伝えがあるのは調べたから知っている。
でも、この世界では天使として伝わっているはずのアルコルがなぜそう呼ばれていたのかは疑問だった。しかし、死神であったのならしっくりくる……かもしれない。
「ひくぞ、クロガネよ」
「なぜです、まだ目的は……」
「初撃を打ち消された……、いや無効化された時点で失敗だ」
そう言うや否や、クロガネ・スチールの周囲を「黒いもや」が包む。逃亡する気だ。
……残念ながら止める方法はない。
「待て、お前たちの目的はなんだ!」
王子が怒鳴り、クレイモア君がとびかかろうとするけど、わたしがそれを制す。一瞬、濃く「黒いもや」が淀んだと思った次の瞬間には、そこに何も残っていなかった。




