217話:水銀女帝と黄昏の鏡・その2
ミズカネ国の西部にある白靄の虎道。山脈の上から下に流れる水分が何らかの影響で気化し、水蒸気として噴出して、年中靄がかかったかのように白く包まれていると言われる。そのため、この付近に住む帝国の臣民たちすらも近寄らない場所。
シュシャの出身地の近くでもある。ここに来る前に、少しだけシュシャの出身地に向かい、彼女が軽い挨拶するのを眺めていた。わたしにとっては少しばかり画面越しに見たことがある場所ではあるものの、やはり彼女にとっては故郷なのだと思う。
もう少しいてもいい……というか、わたし一人で鏡を取ってくるから、ここで過ごしていていいと言ったのだけれど、そういうわけにはいかないと言って、いまは、2人でこの靄に包まれた道を歩いている。
「さすがに視界が悪いですね」
いっそ、風魔法で全部吹き飛ばしてやろうかと思うくらいには視界が悪いし、そのうえで、湿ったような感じが肌にいいしれない不快感を与える。
魂を冥府へ連れ去るという鏡がこの先にあることを思えば、まるでそこまでの霊道を歩いているかのような気分になる。
「それに……、どこまで続くのかも……」
シュシャが不安そうにつぶやく。確かに、先が見えないから不安になるのもわかる。そのうえ、この白靄の虎道は、地域によっては竜の道とも呼ばれていて、うねうねと蛇行しながら、長い道が続いている……とか。
「大丈夫です。わたくしたちの目的地は、何もこの最奥というわけではありません」
そう、わたしたちが向かうべきは、この長く続く道の途中。ほら穴とでも言うべきか、横道とでもいえばいいか、とにかく、最後まで行くわけではない。
「髪飾りの示す場所を見ればわかりますが、目的地はすぐそこです」
シュシャがそのかんざしをぎゅっと握りしめる。わたしは、岩肌に右手を当てながら進む。このほら穴は、このように注意していないと見逃してしまう。ほら穴に靄が流れ込み、逆にほら穴とは反対方向の靄が若干晴れて、そちらに注意が逸れてしまうので見逃されがちなのだという。
「ここ……、ですね」
シュシャがごくりとつばを飲み込んだ。緊張するのもわかる。
空気が違う。自然現象か、それとも精神的なものか、近づいただけで気温が下がったかのような錯覚を覚える。先ほどまでに比べて、より一層、冥界やら霊界やらにつながっていそうな、ぞくりとするものがここにはある。
本能的に、ここに近づいてはならないと思っているような。
「そう……、この先に『魂を消滅させる暗き鏡』が……」
意を決して一歩踏み出す。ここまで来て、なにを怖気づく必要があるのか。そして、ここまで来て、手ぶらで帰るわけにもいかない。すでに方々に迷惑をかけているのに、怖気づきましたなんて、そんなことあっていいはずがない。
「シュシャ、行きますよ。それとも、そこで待っていますか?」
わたしの問いかけに、シュシャは少しためらってから、それでもわたしの後をついてくることを選んだようだ。まあ、彼女としてもここで行かないのなら村に残っていても変わらなかったという思いもあるだろうし、何より父と母が残してくれた髪飾り、その先にあるものが見たいというのが大きいのかもしれない。
横穴を進むと、すぐに傾斜があり、徐々に下がっていく構造になっていた。もちろん、階段なんてない。ただ、傾斜は緩やかなので、転げ落ちるというようなことはないと思う。そんな道をただひたすらに進んで行く。空気のせいか、なんというか、時間の感覚が分からなくなるような、……そんな気がした。景色が変わらないし、進んでいるのかどうかも分からなくなるときがある。このほら穴がそんなに長いわけがないのだから、そんなに時間も経っているはずがないのに、まるで1時間近く歩いたような、そんな気さえする。
ようやくたどり着いた場所は、どこか神秘をまとっていた。それでいて、重苦しく、凍り付くような寒気もする場所だった。
「っ……」
シュシャが息を飲むのが聞こえた。きっと、わたしも同じように無意識にそうしていたのかもしれない。
「あれが、黄昏の鏡、『魂を消滅させる暗き鏡』……」
わたしの声は多分かすれていたと思う。ちゃんとそう発音できていたかも怪しい。それはまるで見える「死」だった。いや、あくまで、そう感じた。
「あ、あれはなんでしょう……」
鏡に注視していたわたしとは違い、彼女は別の何かを見ていたようだ。わたしは、その言葉でようやく鏡から目を外すことができた。そうでもなかったら、わたしの瞳は吸い付いたようにあれから離れなかったかもしれない。
「壁に……何か……」
シュシャの指さしたそれは「文字」だった。しかし、遺跡のように岩を掘って刻んでいるわけではない。チョークのような何かで落書きされたかのような殴り書きの文字列。だけど、おかしい。わたしはこんなもの知らない。さすがにこんなものがあったのだったら、わたしの知識にあってもおかしくない。それになのに、まったく知らないのだ。
「これもまた違った」
その文字を、文章を声に出して読む。それが何なのかはよく分からないままに。
「この鏡は、その魂を消し去る。正確には『格』を消し去るというべきか」
核ではなく、格。その意味はわたしにも理解できない。ただ書いてあることを口から吐き出すだけ。
「それゆえに、人であろうが何であろうが、その存在を固定するものごと消えてしまう。これでは目的が果たせない」
これを書いた人物にはなにか目的があって、この鏡とは別の働きをするものを求めていたようだ。
「――アルデンテ・クロムヘルト」
文章の最後に綴られていたそれは、おそらく殴り書きを残した人物の名前なのだろう。しかし、クロムならばクロム王国と関連づけられなくもない。この国、いや大陸から流れ着いたものがクロム王国に流れ着いたことを考えると、そういう何かがあってもおかしくはないかもしれない。
だけれど、アルデンテとかいうパスタの湯で加減のような名前が引っかかる。もちろん、偽名の可能性は十分にあり得るし、正直、だからなんだという気持ちがないわけではないのだけれど。
「これを書いた歯ごたえのあるなる人物がだれかは知りませんが、書かれていることが本当だとするならば、この鏡の力が本物であるようですが……」
もちろん、書かれていることが本当だと断じることはできない。そもそも、なんでこんな独り言じみた調査内容を書き残したのかもわからない。鏡を取りに来たものに対する警鐘というわけでも、ここに書き残すことで意味のある文章でもない。
ただ、気にかかることもあった。「核」ではなく「格」というので思い起こしたことが一つある。スパーダ家の継承に隠されていた暗号、その中の一節、「神々そのものではなく、残滓であり、格もないが、それゆえに、ただの災害として降り立ち、まき散らされる」。つまり、旧神の残滓には「格」がない。これはいわゆる「神格」のことを指している。だからこそ、わたしたちは「魂を映す虹色の剣」で「空っぽだったものに便宜上の格を与えた」ことで、「固定する金色に輝く顔」でフェリチータにそれを封印したと推測した。
そう考えるのなら、同じ理屈で、「魂を消滅させる暗き鏡」を用いれば消滅させることはできるはずだ。まあ、そうでもなければわざわざこれを取りに来た意味がないのだけれど。
わたしは、あらためて「魂を消滅させる暗き鏡」へと視線を注いだ。そこにあるのは、まるで銅鏡のようで、いわゆる前世の現代で流通していた裏面鏡とは根本的に違うものの、金属の光沢が反射し、そこに像を結んでいた。
「しかし、あれに映れば問答無用で魂を……、文によれば『格』を奪われるとなると、どうしたものでしょうか」
一応、布で自分の姿が映らないようにして、それを包んで持ち帰るつもりではあったけれど、どこまでが範囲かわからない……、つまり、布を貫通して後ろにいるわたしたちまで魂を奪われてしまうかもしれないので、少しばかり慎重になる。
「あれを安置した人物がいたとするのなら、おそらくそこまで無慈悲なものではないと思います」
シュシャの言葉。まあ、あれを置きに来た人がいるというのなら、それが可能だったということになり、なんでもかんでも問答無用でということではないというのは理解できるが、もしも複数人で置きに来て、魂が消滅したものの死体は持ち帰ったのだとしたら……、なんてことも考えられるわけで。
「……カメリア、それは?」
彼女にそう言われて、わたしの左腕が光っているのに気が付いた。ああ、これは前にも覚えがある。ミザール様の干渉だ。
「ここでご助言くださるのですか、ミザール様」
「助言というほどのことではありません。どちらかというと確認です」
確認?
鏡があるかどうかの確認ということだろうか。いや、でも、わかっているからこそ、ここに向かわせたようなものなのに、そんなことは確認しないだろうし、それとも、鏡がちゃんと機能するかどうかの確認ということだろうか。
「あの壁の文字についてですよ」
予想外だった。特に神が自ら確認するというほどのものだとまでは思っていなかったから。でも、そうするということは、それだけの何かなのだろうか。
「まず、その鏡は何も無作為に魂を消失させてしまうものではありません。取り扱いには
注意するべきですが、剣の権能と同じように、ある程度は所有者の任意で可能となります」
剣と同じようにということは、顔は違う、つまり無差別なのだろう。まあ、そうでなかったら、意識の無いはずの停止したフェリチータに固定するのは不可能だろうし、理屈としてはわかる。
「では、別に映っても問題ないということですね」
それがわかってしまえば気分はだいぶ楽になる。それにしても、それを差し置いてでもミザール様が気にする壁の文字。
「そして、壁の文字です」
なぜ、そんなにも文字を気にするのか。それがわからない。それはもしかして、神々すら知らないことだからなのだろうか。
「あれはおそらく、『漂着物』あるいは『変革者』か、それに類する我々の関与しない異邦から訪れたものが、いつの間にか書き記したもの。おそらくは自らの意思で訪れ、去ることのできる『探訪者』とでも言い表せばいいかもしれませんが」
つまり、異世界間に自分の意思で行き来できる何者かがやってきて、神も知らない間に勝手に書き残したと。一種のホラーとも言えそうな出来事。
「異邦の介入は我々の予測から逸脱する可能性を孕みます。それゆえに、きちんと確認をしたかった」




