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208話:海原と船上の狂騒・その2

 出航を果たした船は、思った以上に揺れていなかった。ただ、経験者であるところのシュシャいわく「揺れるときは揺れる」らしい。まあ、どんなときもまったく揺れない船なんてものはないわけで、いまも思った以上に揺れていないだけで、揺れているは揺れているのだし……。


 一瞬、どうしたら揺れない……揺れづらい船ができるのかなんてことを考えそうになったけれど、考えたところで、おそらく実現は難しいので、その思考は放棄した。難しいことを考えていると酔ってしまうかもしれないしね。


 気候のおかげか、それとも「波乗り」なんていう呼ばれ方の通りに波に乗る技術が上手いのか、アルミニア王国の港を経由し、大海に出るまでの間、揺れは感じるものの、心地の良い旅ができた。



 はてさて、問題は、この大海である。


 大海などと一口に言っているものの、文字通り大きな海。アルミニア王国の港からミズカネ国の港町まで早くて8日、遅くて12日程度かかるとされている。行き帰りだけで最長24日。ほぼ1か月が経過する計算になる。


 1か月で、わたしがディアマンデ王国に戻るには、潮流や風向き、強さのような運も大きく絡んでくるということだ。しかし、まあ、アルフレッドたちはこの航路を非常に熟知した船乗りたちらしく、安定的に10日程度で航海できると言われているので、そこまで大きく遅れることはないはずだ。


 ……などと思うと、フラグになりかねないのだけれど。


 この距離的なことを考えるなら、ディアマンデ王国のある大陸とミズカネ国の大陸までを隔てるこの大海は一概には言えないけれど、前世で言うところの日本とアメリカよりもずっと近い距離なのだと思う。


 もちろん、航行技術の違い、魔法の有無、直線的か否かなども含め、いろいろと違うところがあるので、本当に一概には言えないのだけどね。正確な世界地図とか航空写真なんかがあったらはっきりするのだけれど、そんな高尚なもの望めないし。





 出港してから2日。わたしたちは安定した航海を続けていた。もっとも、船を操るのは彼らであって、わたしは何もしていないのだけれど。特に大海が時化ることもなく、心地よい潮風と波が船を揺らしていた。


 ……しかして、問題は、その潮風。


 なんと……髪がゴワつく。いや、当たり前といえば当たり前で、海水浴の後に、髪をよく洗わなかったらゴワゴワになるし、船にはお風呂なんてものはないわけで……。ただ、髪がゴワつくくらい我慢しろと言われれば、普通は「はい」で済む話なのだけれど、そうもいかない理由がある。


 皇帝との謁見だ。


 わたしたちは、このままミズカネ国についたら、すぐに帝都に向かうことになる。もちろん、その前に身だしなみを整えるくらいの時間はもらえるでしょうけれど、こうしたゴワつきは、すぐに治るものではない。


 つまり、前もってケアをしておかないと、後々大変になるということ。


 さすがに、ていねいなケアをできるような設備はないけれど、それでも軽く洗い流すくらいはできるというものだ。まあ、体も洗いたいしね。


「体を拭きたい?

 わかっちゃいると思うが水は……」


「自前でどうにかしますよ」


 話を持っていくならアルフレッドであろうと思って、アルフレッドにそう話した。ただ、髪を洗いたいとか、体を洗いたいなんて言うわけにもいかないので、あくまで体を拭きたいということで話を通す。


 彼の言いたいことも理解できた。船において水……真水は非常に重要だ。生活に直結する。お貴族様に馬鹿みたいに使われて……なんてことを危惧しているのでしょう。

 もちろん、海水で体を洗うわけにもいかないので、まあ、一番いい解決方法は何かといえば、自前でどうにかする。つまり魔法を使うことだ。


「それじゃあ、ほらよっ」


 彼は鍵の束を投げてくる。どこの鍵の束なのかもわからない、雑多な鍵束。これをどうしろと……なんて思っていると、


「男ならその辺でさっと拭きゃあいいが、嬢ちゃんなら鍵のかかるとこの方がいいだろ」


 さらりと紳士的な対応にびっくりした。まあ、そのあと彼は「この船の男どもは覗きなんてことはしやしねえがな」と笑う。まあ、するしないの問題よりも、わたしの心情を慮ったということだろう。


「ありがとうございます」


 お礼を言ってから、今度はブルームのところに言って、使っていない空樽をもらい、ついでに見かけたシュシャに声をかける。


「シュシャ、あなたも髪や体を拭きますか?」


 わたしの言葉に、少し迷ってから彼女はうなずいた。そんなシュシャを連れて、わたしは船内のある部屋の鍵を開けて入る。空樽を置いて、鍵をかけて、一応、鍵穴からのぞかれるなんてことはないだろうけれど、気分の問題として、ドアからの視線を遮れるようにシーツでカーテンを作る。


「そのタルに水を溜めるんですか?」


 どれだけ水を使うつもりだとでも言わんばかりにシュシャが聞いてくるけど、そんなわけがないでしょう。


「これは髪を洗うときの水受けですよ。体は濡らした布で拭えば多少マシになりますが、髪はそうもいかないので」


 そう言って、とりあえず着ていた服を脱ぎ、綺麗に畳んでから準備をする。もちろん、服に関しては毎日変えているので、そこまで不潔ではない。


 シャワーの要領で、空樽に頭を突っ込んで上から水魔法で水を降らす。……やっていて思ったけれど、これ一歩間違えたら死ぬわ。水の加減間違えたらわたしはこの空樽に頭から突っ込んで、そのまま溺死しかねない。


 良く洗った髪をタオルで拭きながら、わたしはシュシャに樽の中に入るように言う。もちろん、樽の中には、さっきわたしが洗い流したものがあるので不潔なのだけれど、一応、すすいで窓から船外にぶちまけたので、多少はマシでしょう。


「このタルの中に入ればいいんですか?」


 服を脱ぎ捨てたシュシャが樽に入ると、わたしは上から先ほど同様、シャワーのように水を降らす。わたし自身の場合は、自分で加減がわかるからともかく、シュシャにやって加減が間違っていたら洒落にならないので……というか、次からわたしもこのやり方でやるけどね。

 それで、汚れが全部下に溜まっていくので汚いことこの上ないから、体は最終的に濡らした布で拭くことになる。わたしが腕を拭っていると、


「お背中、拭きましょうか?」


 とシュシャが言ってくれる。日本人精神としては、いわゆる裸の付き合い、「お背中流しましょうか?」に通ずるものがあるなあなんてことを思いながら、「お願いします」といって、背中を向ける。髪はタオルで巻き上げているので、普段と違って、背中はさらけ出してある。


「っ」


 くすぐったくて思わず声が漏れそうになる。裸の付き合いなんて日本人精神を口にしたけれど、まあ、ぶっちゃけた話、銭湯なんてめったに見かけないご時勢に生まれ、友達と温泉旅行に行くなんてこともなく、背中を洗いあうなんてそうそうする経験でもない。

 そして、そもそもくすぐったいもんはくすぐったい。


「……っ、ありがとう、ございました」


 くすぐったいのを我慢していたからか、少し絶え絶えに礼を言って、今度はシュシャのほうを向き直る。


「じゃあ、今度は、わたくしがあなたの背中を拭きましょう」


 仕返し……というわけではないけれど、今度はわたしがシュシャの背中を拭いてあげる。ちょっと力を入れるたびに「んっ」とか「あっ」とか声を上げるので、ついつい面白くなって拭いてしまう。


「く、くすぐったいですって……」


 というギブアップの声が出るまで、しばらく拭き続けたのだった。


 後片付けをして、髪を巻いて、……と全部が終わるのには結構時間がかかってしまった。でも、まあ、たまにはこんなことがあってもいいでしょう。





 また、あくる日、その日はやけに騒がしい声で目が覚めた。「帆を畳めえ!」というブルームの声が響き、どたどたと慌ただしく動き回る足音、そして、不意に来る揺れ。地震のようなものではなく、もっと大きく、グワングワンと起き上がりこぼしが行って返ってを繰り返すときのような。


 この船で初めての大きな揺れ。いや、まあ、どこからを大きな揺れとするのかにもよるのでしょうけれど、少なくとも、わたしの体感としては「初めて」だ。


「おう、嬢ちゃん、なるべく何かに捕まってな」


 そんなアルフレッドの言葉を受けて、手近な壁に捕まりながら見上げると、帆が一部を除いて畳まれていた。


「風と波ですか?」


「ああ、だが、これはいい流れだ。少しばかり揺れるが、その分、つくのも早まりそうだ」


 そんなふうに笑うアルフレッド。わたしとしても着くのが早くなるというのなら、それに文句はないのだけれど、この揺れを「少しばかり」などと言われても……。


「きゃあああ!」


 シュシャが転んだのだろう。悲鳴とズデンという転倒音、それから少しばかり木の軋む音。さすがにそのままゴロゴロと転がっていくような漫画みたいなことにはならなかったようだけれど、おしりを軽く打ったらしい。


「この揺れはどのくらい続きますか?」


「さあて、そればっかりはメグレズ様かアリオト様しだいってところじゃあねえか?」


 水の神メグレズ様、風の神アリオト様。船乗りたちはこの二柱の神に船出の安全を祈る。パンジーちゃんの地元なんかでもその風習は強く、それゆえかはわからないけれど、パンジーちゃんもまた水と風の二属性であった。


「まあ、だが、オレの見立てじゃあ、そう長くは続かねえ」


 そして、その言葉の通り、この揺れはそう長くは続かなかった。まあ、それでも数時間は続いたのだけれど。


 やっぱり船乗りのような職業の「経験」というものは凄い。もちろん、現代ならば科学的に解析できることもあるのだろうけど、地風を読むというか、風を肌で感じるというか、波を感じ取るというか、そういったことに関しては、長年の経験や勘というものが、そうした科学に匹敵、あるいは越えることもあるのではないか……、そんなことを思わざるを得ない。

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