187話:侯爵令嬢ラミー・クロンダイクの継承・その1
本を読み、勉強に耽る彼に対して、私、ラミー・クロンダイクはため息を吐きながら窓の外、流れる雲を見上げた。
――ああ、なんて退屈なのだろう。
私がこうして、ここにいる意味はわかっている。そのくらいの理屈がわからないほど子供ではない。だけれど、どうしようもなく「つまらない」。
クロンダイク侯爵家。このディアマンデ王国の侯爵家の中でも、そこそこ歴史のある家。もちろん、飛びぬけて古いサングエ家とアーリア家なんかよりは新しい家だけれども。
そして、そんな家に二属性の魔法使いとして生まれた私は、彼の婚約者になった。それは必然というか、当たり前というか、なるべくしてなったのだと思う。望む望まないは別として、この立場にある意味は嫌というほど理解している。
ただ、用意された道を、その通りに歩くことほどつまらないことはない。相手が彼だからこそ尚更のことだ。そして、彼もまた、私がそう思っていることを理解したうえで、こうして一緒にいるのだから、本当につまらない人。
「そう言えば、庭先で魔法の練習をしてしかられたそうだな」
本に目を落としたまま、そんなふうに話題を振ってくる。まるで、社交辞令のように、最近聞いたことについて、そのまま口から出しているみたい。
「ええ、せっかく二属性も使えるのだから、どれだけ使えるのか、どう使うのか、それを調べて、考えて、そうしてこそメグレズ様とアリオト様、神々に応えるということだと思うのよね」
何のために魔法が使えるのか。それを考えるならこそ、魔法というものをもっと知って、考えるべきだ。そうして、十全に使ってこそ、神々に応えるということだと私は思う。だからこそ、みだりに使うなと言われようが、私は魔法を使う。
「殿下は、……魔法の練習どころではないようね」
もちろん、彼も魔法の練習はしているでしょう。専任の教師をつけて、しっかりと安全に。決められた道を歩むように。もちろん、彼の立場を考えればそれが正しいことは理解できる。だけれど、どうしようもなくつまらない。
「最近は情勢のこともあって、いまは北方の資料に目を通しているところだ」
北方。この国の北部を示す言葉。その大部分をジョーカー公爵が領地としていて、隣国との国境でもある銀嶺山脈のある場所。存在は知っているし、いずれ、行くこともあるとは思う。
「……そう言えば、お前はユーク、いやジョーカー公爵の子息と面識があったか?」
そう言われてうっすらと思い起こされるのは、社交の場で遠目に見た姿。正直に言って、はっきりとは覚えていないし、何度か挨拶を交わしたことはあったかもしれないけれど、正直、面識があるといえない程度の関係ね。
「ほとんどないわ。顔も思い出せないくらい」
でも、それに関しては私が悪いわけではないと言いたい。何せ、彼はほとんど北方に籠り切りで、社交の場にもめったに出てこないのだから、それではっきりと覚えておけというのは無茶というもの。
「そうか。珍しく王都に戻ってきているから、機会があったら面識を持っておくといい。変わっているが、悪いやつではないからな」
へえ……。しかし、ジョーカー公爵の子息、確か名前は……ユーカーだったかしら。
でも、彼からすれば大抵は「変わっている」のではないかと思ってしまう。本人は言わずもがな、ファルシオンをはじめ、周囲の人間は大抵がつまらないタイプ。トリフォリウムもグラジオラスもね。
唯一、突飛なのはガーネットさんくらいかしら。なぜか目の敵にされているのだけれど、私は好きよ、彼女。
「ああ、ただ、やつと会うときは、少し気を付けたほうがいいかもしれない。何かに巻き込まれる可能性があるからな」
どういう意味かしら。厄介ごとでも引っ提げてくると言いたいのか。それならそれで、少し巻き込まれてみたい気はするのだけれど。
「おっと、こんな時間か。そろそろ彼女が来るころだがいいのか?」
ああ、そうか、そろそろガーネットさんが来るころだ。私としては、彼女と話すのはやぶさかではないのだけど、彼女の精神衛生上よろしくないので、最近は時間をずらすようにしている。
たまに、会ってからかっているのだけれど、ついついからかいたくなってしまうのは、彼女の反応がいいからでしょう。そのたびになだめる彼やファルシオンとしてはやめてくれと思っているでしょうけども。
「少しお話ししたいところだけれど、この間、少し長話をしすぎてしまったから、やめておくわ」
私の言葉に、彼の頬が引きつった。本音が漏れ聞こえていたみたいね。付き合いも長いし、そのくらいは嫌でも通じ合うのでしょう。
「ほどほどにしておけよ」
やめろと言わないあたり、私の性格がよくわかっている。まあ、あまりからかいすぎてもいけないので、いつもほどほどにはしているのだけれど。
「あなたも彼女のこと、どうするか考えておかないといけないわよ」
ガーネットさんが彼に好意を抱いているのは、だれの目にも明らか。前に、「好きなんでしょう?」と聞いて、「なんでそのことを」って言われたときには、あのトリフォリウムでさえ、「あれで気づかれていないと思っていたのか」と思わず口に出してしまったほどだし。そのくらいの周知の事実。
当然、当事者でありながら彼もわかっているはずだ。
だからこそ、彼女との関係をこれからどうするのか、考えなくてはならない。一応、私が正式な婚約者になってしまっている以上、取れる選択肢は、私との婚約を解消して彼女を正妻として迎え入れる、私を正妻にして彼女を第二夫人として迎え入れる、彼女をフッてしまう。私としては、最初の選択肢が一番面白いと思うけれど。
「まあ、考えておくさ。あまり頭を悩ませたくない事柄ではあるが、避けては通れないのでな」
意外と覚悟の決まった男らしいことを言うのね。まあ、本当に男らしいかどうかは、出した結論にもよるのでしょうけれど。
「もしかして、これから先にどんどん増えていくかもしれないわよ」
そもそも、彼も殿下であり、そして、ほぼ確実に王位を継ぐ予定なのだから、産めや増やせやという精神で行くほうがいいと思うのだけど。まあ、陛下からしても、というか歴代を考えても、あまりそういう傾向にないのは、血筋の問題か、思想の問題か。
「恐ろしいことを言わないでくれ」
そんな言葉を背に受けながら、私は部屋を出る。
入口からの距離の関係上、普通に考えて彼女が来るであろう方向をあえて通らずに、遠回しながら帰ることにした。彼女のことだから、彼に会いたくて、速足に最短の道を選ぶでしょう、いつものように。
そんなことを考えて、彼のいる部屋から距離を空けるように、しばらく歩く。この時間は、城内も落ち着いているため、廊下ですれ違うような人もいない。たまに侍女がせわしなく行き交うけれど。
そう思って油断していたからか、曲がり角で何かにぶつかり、しりもちをつくように転び、何かが倒れこんできた。私に覆いかぶさるように倒れこんだそれは、同い年くらいの少年だった。
この状況で問題なのは、彼の手の所在である。あろうことか、彼の右手は、私の胸をわしづかみにしていた。
しかし、なにがどうなったらこのような状況になるのか。羞恥や怒りよりも何より、そこが気になっていた。何せ、私はしりもちをつく形で転んだのだ。そこに体を支えようと伸ばした手がぶつかってきたのなら、どうあっても後ろに倒れこむうえ、背中は打つし、胸部にも人一人の体重がかかるのだから、かなりの衝撃になるはず。
もっと手前に倒れこんで、手での支えが間に合わなかった結果なら、私のお腹か脚のあたりに彼の顔がぶつかっているはずだし、覆いかぶさる形にはならない。
何がどうなればこんな奇妙なことになるのか。
「痛たた……って、うわっ、え、あっ、ご、ゴメン!」
彼が状況に気が付いたのか、慌てて私から離れる。その前に、数度ほど揉みしだかれた件について、追求するかどうか迷って、この慌てっぷりに余計なことを言ったら、更によくわからない状況になりそうだし、それはそれで面白そうだけど、ひとまずは辞めておくことにした。
しかし、これ、わざとならそれなりに大変なことになるのだけれど、どうにもそういうふうには見えない。もちろん、この態度だけをすべて信じるわけにはいかないでしょうけど。
いまのところ普通に、婚約者のいる婦女の胸を揉みしだいた不審者でしかないし。
「あら、あなたは……、ユーカー。ユーカー・ジョーカー?」
ようやく見えた顔を見て、ぼんやりとした記憶から手繰り寄せた答えは、先ほど名前が出たばかりの少年の名前だ。
「えっと……」
まあ、私の名前を憶えているはずもないというか、そもそも名乗ったことがあったかも定かではないので、当然といえば当然か。
「私はラミー。ラミー・クロンダイク。クロンダイク侯爵家の」
「ああ、あのクロンダイク家の」
さすがに知らないわけがないか。立ち上がった彼は、私に手を伸ばす。その手を取って、立ち上がって、服に付いた埃やゴミを落としていると、ユーカーは不思議そうな顔をしていた。
「どうかしたかしら?」
「いや、こういうとき、たいていの子はボクから距離を取るんだけど」
たいていの子って、やっぱりわざとなのかしら。そう思ってしまいそうな発言だけれど、おそらくはそうではないのだと思う。
「たいていの子って、あなたは会うたびに、女の子にああいうことをしているのかしら?」
まあ、殿下の言っていた「変わっている」とか「巻き込まれる」というのは、こういうことを言っていたのでしょう。
「ああ、いや、えっと、わざとじゃないんだ。なんでか転んでしまったり、床に水たまりがあって滑ったり、急に明かりが消えたり、なんでか知らないけどそんなことになってしまうんだよ」
本当に変わっている。変人というより、奇妙奇天烈といった感じではあるけれど。
「あなた、また、北方に戻るのかしら?」
「ああ、いや、情勢のこともあって、しばらくはこっちにいるよ」
ふうん……、どうやら、しばらくは退屈しなさそうだ。




