44話
次回はヒマリについてちょっと掘り下げるかも
(追記:ちょっとテンポ感悪いところあったので、少し修正しました)
44話
糸。それは一本だと脆く、容易く断ち切られてしまうものだ。
だが束ねれば違う。二本、十本、百本と重なり合えば、やがて鋼鉄をも凌ぐ力となる。
そして──それが数百、数千ともなれば、もはや「糸」ではなく「網」と呼ぶべきものとなるだろう。
糸を使った魔術とは本来ならそれに倣うはずだった。しかし、イアの糸は違った。
その一本一本が、何千、何万と折り重なった糸よりもはるかに丈夫なのだ。
彼女の魔力によって生み出された糸は、もはやその一本一本が常識を逸した存在だった。
鋼よりも硬く、雷よりも速く、炎よりも苛烈に。
触れたものは絡め取られ、切り裂かれ、決して逃れることはできない。
数本でも脅威。数十本なら災厄。
だが今のイアの周囲に奔るのは、数百を優に超える糸の群れ。
それはまるで、世界そのものを編み替えるための神の指先のようであった。
だが、ヒマリもウロボロスも負けてはいない。
天使の如き翼をはためかせ、はるか上空へと飛び上がる。
彼女の背から放たれる光は、闇を裂く雷鳴のように戦場を照らし出した。
やがて光は収束し、やがて雨粒のように地上へと降り注いだ。
だがそれは慈雨ではない。一滴一滴が触れたものを穿ち、焼き尽くす──天より下る鉄槌であった。
聖なる輝きは大地を白々と染め上げ、逃れ得ぬ審判の舞台を描き出す。
一方、地を這う巨躯──ウロボロスは逆巻く黒炎を噴き上げ、地平を黒々と塗り潰してゆく。
その姿はまさしく、大地の奥底に潜む破壊衝動そのものであり、天空を翔けるヒマリと対を成していた。
天空と大地。光と闇。
相反する二つの力が交わり合い、やがてイアの奔る糸へと牙を剥く。
──もし仮に。もしも《始原の青》としてイアが目覚めていなければ、この一撃に抗うことは決してできなかっただろう。
だが今や、彼女の糸は天地を貫く大樹の根のように張り巡らされ、迫り来る光と闇すらも絡め取り、切り裂く準備を整えていた。
「ああ、なんて素晴らしい力の奔流なのでしょうか!」
ヒマリの力も、ウロボロスの力も、500年前よりはるかに洗練されていた。
だが──無駄だ。致命的に、彼女たちは思い違いをしている。
なぜ《始原の青》と呼ばれるのか。なぜ数多の悪魔の中で、イアが《紺碧の主》と呼ばれているのか。
ヒマリは聖女としての力を極め、神獣ウロボロスすらも従える。その脅威は世界に数えるほどしか対抗できぬほどだろう。
だが、イアはその盤の外にいる。そもそも“数”にすら入らない。
始原──その名が示す通り、彼女は悪魔が生まれ落ちた瞬間から、闇の奥底に鎮座していた。
《悪魔の祖》。紺碧の起源。
本来ならば誰も知らぬはずの原点が、いま目前で不気味に息づいている。
その存在を前に、聖女も神獣も意味を失う。ただ、抗えぬ畏怖だけが残る。
……くす、と。
そして──イアは嗤う。
「ですが、足りないですね」
その瞬間──空間がずれる。
ひと筋の裂け目が走り、ヒマリとウロボロス、そしてイアを隔てた。
「これは……?!」
裂け目へ向かって周囲の世界が雪崩れ込む。
光の雨も、闇の炎も、すべては無惨に呑み込まれ、虚無へと化していった。
だが次の瞬間、修復作用が働き、ひび割れは音もなく塞がっていく。
この場において、こんな芸当が出来るのはただ一人。彼だけだ。
「まさか、お父様──」
『ヒマリ、避けろッ!!』
その瞬間、再び空間が断ち切られる。それはヒマリを狙った致命の一撃。一瞬の隙を突かれ、本来なら命を落としていた。
──だが彼女はまだ立っている。左腕を失い、鮮血を撒き散らしながらも、かろうじて。
「おや、殺したと思ったのですが。ふふ、これが親子の絆というやつでしょうか」
焼け付くような傷口を押さえ、ヒマリは必死に前を見据える。
だが──気づいてしまった。
巻き込むまいと遠ざけたはずの存在が、いつの間にか。
イアのすぐ傍らに立っている。
「……お父様……?」
テンドウは答えない。
否──答えることなどできはしない。
そこに立つのは、もはや“父”ではなかったからだ。
眼差しは虚ろで、声なきまま、ただ操り人形のように存在している。
意思も魂も糸に縛られ、残っているのは空洞だけ。
ヒマリの血の気が引く、その刹那──。
「──【操り人形】。ふふ、親を見てそんな顔をするなんて。なんて親不孝者なのでしょうか」
イアは楽しげに囁く。
そうは思いませんか──と、あたかも対等の会話をするかのように、テンドウへ向けて。
「──そうじゃな、ヒマリ。早くあの悪き者どもを殺さねばな」
優しげな声音。父として娘に向けるはずの眼差し。
だが、それはイアに注がれていた。
彼にとって、目の前の悪魔こそが“娘ヒマリ”なのだ。
すり替えられた認識は揺らぎもせず、親愛のすべてを誤った相手に注ぎ込んでいる。
──張り巡られた糸はただのブラフ。イアが見せつけたのは、“操り”の幻影にすぎなかった。
その様子を、ヒマリは呆然と見つめることしかできなかった。
「…………は」
笑っているのか、泣いているのか、自分でも分からない。
父の口から紡がれる優しい声は、ヒマリを呼んでいるはずなのに──。
それが自分ではなく、悪魔に向けられている事実が、頭から離れなかった。
『ヒマリよ、惑わされるでない!テンドウは、《災厄の悪魔》に操られているだけだ!』
──わかっている。頭では理解している。
父が自らそんな言葉を吐くはずがないことも、いま彼が正気でないことも。
けれど。
胸の奥で脈打つ感情は、理解とはまるで別の場所にあった。
その声も、その眼差しも、ヒマリにとっては紛れもなく「父そのもの」だったから。
だからこそ──弱点になることは、誰よりも自分が知っていた。
預言者を使って、ウロボロスを使って、彼を遠ざけた。使命に巻き込まぬよう、決して近づけぬようにと。
それなのに。
テンドウはここにいる。
よりにもよって、イアと、《災厄の悪魔》と共に。
どうして?
なぜ?
何が起きた?
どうして、どうして、どうして……。
怒り。困惑。焦燥。
言葉にできない感情が、次々と胸を打ちつけてくる。
立っているはずなのに、地面が揺れているようだった。
心の奥底まで荒れ果て、どこにも拠り所がない。
「くす。そんな風に呆けていたら、大好きなお父様に殺されてしまいますよ?」
その声で我に返った瞬間──もう遅かった。
テンドウの振るう凶刃は、すでにヒマリの目前へ迫っていた。
味変の新作
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ダンジョンものです




