29話
内定式も終わったので、書きます
29話
「………ぅえ」
朦朧とする意識の中、懐かしいあの子の声が聞こえた。
もう5年も会うことが叶っていない我が子──ヒマリの声だ。
いや、これはまやかしだ。あの子は今ウロボロスの元にいるはず。決して会うことは叶わぬのだ。
「もう、起きてください父上!」
しかしもう一度会えるならばまやかしでもいいと、ワシはゆっくりと目を開いた。
「…………ほんとうに、ヒマリなのか?」
艶やかな黒髪に、ワシに似ても似つかぬ優しい黒眼。
あの時から5年も経つからか、ヒマリはすでに女性としての成長も見せており、かなり記憶と違う見た目をしていた。
けれどワシの魂が言っているのだ。彼女はヒマリだと。
「そちらこそ、本当に父上なのですか?」
私が最後に目にした時よりも、だいぶ老け込んでいるようですが──と言いながら、ヒマリは怪訝そうな顔をしてジロジロとワシの顔を見つめてくる。
「クッ、ハハハ。確証がないのにヒマリはワシを父上と呼んだのか。傑作だな」
「むっ、私だって9割9部父上だと確信しているからこそこうして呼んだのですよ!いざ起こしてみたら、ちょっと怖くなっただけです」
ヒマリはぷくりと頬を膨らませて、ワシの背中をぽかぽかと叩いてきた。
はは、変わらない。5年前と変わらない。この子は、間違いなくヒマリだ。
──気づくとワシはヒマリをギュッと抱きしめていた。
「大きくなったなあ、ヒマリ。できれば、この成長はワシが見届けたったのだがな」
「ふふ、父上ったら。……父上こそ、お変わりないようですね。本当に、よかったです」
ボロボロと溢れる涙を我慢することはできなかった。むしろ、神となったこの身に涙を流す機能があったことに驚いたくらいだ。
「ずっと、ずっと会いたかったんですよ。みんな頑張れば父上に会えますよって言うのに、もう5年も頑張っていたのに、何度言っても、会えなかったんです」
ポロポロと涙をこぼしながら、ヒマリは訴えかけてくる。
そんなヒマリの頭を優しく撫でながら、もう一度彼女の身体を抱きしめる。
「ワシも、ずっと会いたかった。何度行っても、預言者とウロボロスに邪魔されて──」
そこまで言ってワシはハッとなり、じっとヒマリのことを見つめる。
「……ワシは確か、”災厄の悪魔”によって捕えられたはず。ヒマリに会えたのは嬉しいが、一体どういう状況じゃ?」
「私にもわかりません。私自身もウロボロスに呼ばれ、回廊を歩いている最中のことでしたから」
ヒマリはワシの元からスッと抜け出すと、しゃがみ込んで真っ白な床をコンコンと叩いた。
いや、コンコンという音はしていない。なぜなら、ヒマリの手は床をすり抜けてしまったからだ。
これはおかしいお冷静なった頭でよくよく辺りを見回してみれば、あたりは全て境界線なんて存在しない白だけであった。
「……ここは、神域に近いですね。隔離された空間、いや、精神世界?だから父上に会えた……?」
「おそらく、災厄の悪魔によるものじゃろうな。やつは空間転移ができるほど空間に精通し、ワシを洗脳できるレベルで精神干渉にも精通しているようだからの」
一瞬にしてワシの目の前に現れた空間転移に加え、その瞬間ワシに使われた精神干渉。
神の領域に達しているワシの抵抗をモノともせず、肉体の支配権を奪われてしまったのだ。
このようなことをできる悪魔なら、ワシとヒマリの精神に干渉し、精神世界に引きづり込むことくらい容易いだろう。
ワシの言葉に何か思うことがあったのか、ヒマリはうーんと唸りながら首を傾げた。
「先ほどから父上がおっしゃっている、災厄の悪魔とはどのような存在なのですか?私、聞いたことがなくて」
「……聞いたことがないじゃと?」
ウロボロスに聖女として召し上げられたヒマリが、災厄の悪魔のことを知らない……?
「預言者が予知した存在じゃよ。"蒼き悪魔が降臨せし。その者世界を滅ぼし得る存在なり"──ヒマリもウロボロスから聞いておらんのか?」
「……聞いてないですね。私が預言者からつい最近聞いた予言は"南にて異教徒の気配あり"ですし」
たしかにその予言ならワシも聞いたことがあった。しかしその予言をワシが耳にしたのは──いまから2年ほど前だ。
いったいどういうことか、ヒマリは一年前の予言をつい最近のことだと言った。
このことが示しているのは、ヒマリは何らかの理由でここ2年間の記憶がないということだ。
実はヒマリが悪魔の用意した偽物という可能性も考えたが、それはありえない。いくら精神と空間への干渉に優れていれど、記憶領域に存在しないものを作り出すことはできないからだ。
もしヒマリが偽物であるのならば、ワシが最後に見た10歳頃のヒマリで再現されるはず。
ではなぜ彼女の記憶が2年間分ないのかと考えると、答えは明白だ。
ヒマリの意識が何らかの理由で2年前から今の今まで消失している。それ以外にない。
だがしかし、ヒマリの聖女としての活動はつい最近耳にしたばかりだ。
A級指定種魔物の討伐や、治療不可能と言われた難病の治癒など。
直接目にすることは叶わなかったが、市政の噂や兵士、聖職者たちから話は聞いている。
つまりヒマリはきちんと聖女として今の今まで活動しているのだ。
そこまで考えて、ワシはようやく一つの考えに至った。
「……そういうことか」
フッと笑みが溢れてしまった。もちろんいい意味の笑みではない。不甲斐ない自分に対しての笑みだ。
頑なにウロボロスと預言者がワシをヒマリに会わせなかったのも、これが理由か。
ああ、本当に、本当に──最悪だ。
「……どうしたんですか、父上?」
急に顔色を悪くしたワシを心配してくれたのだろう。ヒマリはワシにかけ寄り背中を摩ってくれた。
その変わらない優しさに、ますますワシは深く自責の念を覚える。
ああ、ワシは父親として失格だ。こんなことになるならば、強行突破してでもヒマリを取り返すべきじゃった。
ありえないと勝手に思いつつ、もしかしたらと頭の片隅にはあったのだ。
──ヒマリが、ウロボロスの依代となる可能性を。
依代とは神がより強大な力を発揮するための、簡単に言えば外付けできる力だ。
依代が生まれる確率は非常に低く、またその神が支配する領域でしか生まれない。
ありえないと思っていた。しかしいざ直面してみると、たしかにヒマリは依代たり得る要素を持っていたと思ってしまう自分がいた。
人間にすれば異常なほどの魔力。また幼子にはありえない知性。思い出せば正直キリがない。
そしてワシの知る限りでは、依代となってしまった人間の魂は消えてしまうはずなのだ。
しかしながら精神世界にいるヒマリは、きちんと存在を確立している。ということは、どういう理由かは不明だが、彼女の魂は消えていない。まだヒマリ自身の身体の中に存在しているのだ。
ならば迷うことはない。ワシがやることはただ一つだけだ。
「──ヒマリよ」
「……?はい、父上」
「ワシが必ずお主を救い出す。それまで、待っていてくれ」
「えっと?いったいなんのことを──」
いつヒマリの魂が消えるかわからない。事態はきっと、一刻を争うものだ。
「聞こえているのだろう、”災厄の悪魔”。現時点をもって、ワシはヌシの剣となろう。その代わり──ヒマリを取り戻すのに手を貸せ!」
「ふふ、契約成立です。悪魔との契約は、高くつきますよ?」
その瞬間、ワシの視界は暗転した。




