7世界が変わった日
連れてこられたジルの部屋は、想像以上に散らかっていった。ベッドと大き目の机は一緒だけど、いたるところにわら半紙が落ちている。それは描きかけの絵だったり、デッサンの練習の切れ端だったりと、さまざまだった。
ジルはそれらを気にすることなく、私をベッドに座らせた。そして淡い唇をしめらせてから、膝をついて私の手を取る。
「ララ、あと二年、待つつもりだったんだ」
「二年?」
具体的な数字だけど、思い当たることがない。首を傾げればジルは「そうだよ」と真面目に頷く。それからいつくしむように、私の手を包み込んで、手の甲に額を押し当てた。まるで神に祈る信徒のようで、居心地がわるい。どうしたんだと問えば、「二年だよ」と頓珍漢な返事。
いや、だから二年ってどういう意味なんだ。
「ぼくは二年、待って結婚を申し込むつもりだった」
「……結婚……?」
ぎゅっと心臓が縮こまった。二年を待つって……結婚って……相手は十四歳の少女なのか。ジルの大切な人の話に眩暈を覚える。もう、私は保護者ではいられない。だって、腹が煮えくり返るように熱い。どうして、ってなじりたくなる。あの貴族のお嬢さんのように。
「ジルが言っていた大切な人は年下だったんだな」
「そうだよ、でも。とてもしっかりしていて、自分にちょっとだけ自信がないんだ」
「そうか……じゃあ、ジルが支えないと」
笑みを作ってみせるけど、上手にできるわけがなかった。ほっとしたのは、ジルがまだ顔を上げずに、うつむいたままだからだ。
「何度も頼ってって言ってる。なのに、頑固なんだ。でも誰よりもぼくを見てくれている」
「そう、いい人じゃないか。応援するよ」
「本当に?」
「もちろん。私は……ジルの幸せを一番に思っているからね」
嘘じゃない。ジルの幸せは喜びだ。例え、私の臓腑が嫉妬でねじれてしまっても、ジルとその想い人を見て辛苦を味わおうとも。だって、ジルとはずーっと一緒だった。師匠が拾ってきてから、側にいるのが当たり前の存在。
「ジル、顔をあげなよ」
「……ララ」
ジルの顔を覗き込めば、グリーンの瞳はまだ不安で揺れていた。けれど深呼吸して、決意を固めたようだ。
「結婚してほしい。これからもララの隣にいることを許してほしい。そして、ララもぼくの隣にいて」
「……え、ジル? それ」
「どうか頷いて。それだけでぼくは、この世の誰よりも幸せになれる。そして君を幸せにすると誓うから」
真剣に告げられた求婚。それは練習じゃないことは、ジルの声と雰囲気でわかった。しかも、それが私に告げられているってことも。
「……ジル……大切な人って」
「ララのことだよ。出会ってからずっと、ぼくの一番はララ。君がぼくを犬猫扱いしていたときも、子分みたいに面倒を見ていたときも、唇にキスをしてくれたときも、いつでもララが一番だったよ」
じんわりと頬が熱をもつ。とくとくと心臓が脈打って、頭が霞がかったようにぼんやりする。ジル以外、なんにも見えなかった。
好き。いつも言っているし、言われている。無邪気な好意のやりとりは、いつの間にか男女の熱をはらんでいて。しかも、私はつい先日に想いを自覚したばかりだった。そっとジルの手から手を抜き出して、見上げるその顔にそっと指先を滑らせる。
「私もジルが何よりも大切で、愛しいよ」
「ララ……!!」
ダイヤのほくろにキスをした。
「私からもお願い。そばにずっといてほしい」
そう言った瞬間、ジルに強く抱きしめられた。ジルの匂いがして、私は肩先に頭を預ける。似たような身長なのに、私の身体はジルの腕の中にすっぽり収まっていた。身体で感じるジルの腕や、胸のかたさ、意外にしっかりした骨、それらがなんて愛おしいんだろう。
背中に回ったジルの手の熱さを感じながら、私たちはそっとキスをした。ほんの少しだけかたくて、湿っぽい唇の感触。初めてじゃないような気がする。けれど初めてを思い出すのが億劫で、ぽいっと意識の外に捨てる。
だってジルが再び唇を合わせてきたから。
今度は長くてとろけるようなキスだった。お互いの息があがって苦しいのに、唇を擦り合わせることがとても気持ちいい。ずっとこうしたかった。そう言ったのはどちらだろう。
「……ジル」
吐息まじりに名前を呼べば、甘ったるい声で囁かれる。耳に唇を寄せて、すりすりと輪郭をなぞられた。じわりと生まれる熱がどんどん大きくなっていく。不思議なことに、私の少年みたいな身体は、ジルが触ると驚くくらい柔らかかった。頬も、首筋も、背中も、腰も、すべての肌が柔らかくて、私はちゃんと女だったのだとわかった。
「今夜はだれもいないからぼくのベッドでおやすみよ。ララを抱きしめて眠ってみたかったんだ」
うん、と頷くほかない。気を回して出て行ったみんなには苦笑してしまったけれど。私たちはそれほどまでにわかりやすかったんだろうか。そっと横たえられたベッドに潜り込んで、私とジルは指を絡めて眠った。
*
目の前にあるものを認識したのは、一年という月日が流れてからだった。
自分の名前はわかるし、どこで暮らしていたのかもわかる。父と母の顔だって覚えていた。父は貴族、母は仕えるメイドで、炊事場を担当していた。ぼくは父に存在を認められない私生児。
母の立場とぼくの存在があやうくなったのは、父の本妻にぼくという子どもの存在を知られたからだった。証拠はない。けれどぼくの顔に父の面影を探そうとすれば、容易に見つけられるだろう。
本妻は嫉妬に狂い、母を鞭打った。父は母親にほんの少しの情けはあったらしく、彼女を遠くに住む親せきの家に預けた。そこは僻地といってもいいくらいで、冬になると雪で閉ざされる厳しい世界だった。
ぼくはというと、母についていくことはせず、ひとりで屋敷を逃げ出した。父がぼくを愛していなければ、母も同じことだった。産んで育てただけ。いつか父の愛情を取り戻すきっかけになるかもしれない。母がぼくに期待したのはその程度のことだったように思う。
逃げ出したぼくは川伝いに町を降りていって、それから河川に止まる立派な船にこっそり乗り込んだのだ。何の準備もないまま乗り込んだので、夜中に食料をもとめて船を徘徊しなければならない。
ぼくはパンのかけらを盗むのでさえ、心身を削る思いだった。盗み慣れていないから、バレるのも時間の問題だ。それでも五日間は持ったけど、密航がばれて、男たちに殴られて。ぼくは船がとまった町で捨てられた。ふらふらになりながら町をさまようのは、どうしようもなく惨めだったと思う。
幸いなことに、そのころのぼくは生きていても死んでいる状態だったので、辛いとか苦しいとか……そんなもの、全然感じていなかった。
そしてぼくはアウグスティーノ・ヴェゼンティーニに拾われて、奇跡の出会いをはたす。拾われた当時、ぼくはものを見ているようで、まったく意識することはなかった。
ものを口元にだされたら食べて、手を引かれたらついていき。
そんな人形みたいな毎日を過ごしていた。そのうち、なんだか妙に暖かいことに気がついた。なんだろう、誰かがずっとぼくに呼びかけている。
すき。
だいすき。
初めはなにを言っているのかわからなかった。すき。それはどういう意味だったろうか。ぼんやりした頭のなかで、誰かはひたすらにぼくにすきと言い続けた。その間にも誰かはぼくを邪険にしたりせず、抱きしめて、子守歌をうたって、それから左の目のしたに……やわらかいものを押し付けた。
「ジル、好きだよ」
世界が変わったのは、なんでもない日の午後だった。とびきり明るくて暖かい午後三時前で、甘いココアの匂いがしていた。まどろみから覚めたぼくの目の前にはココアブラウンの髪。ぱっちりした目の、とても色白な女の子。ぼくと同じ背丈で、彼女は楽しそうに笑いながら「おはよう」と言って、ぼくの左目の下……そこにあるダイヤ型のほくろに口づけをした。
ぼくはこの感触を知っている。
「ララ……」
「……ジル! はじめて呼んでくれたね!」
そうだ、ぼくは彼女を知っている。いつも一緒にいてくれた。認識はしていなくても、ララから与えられる言葉のひとつ、温もりのひとつ、それぞれが空っぽだったぼくを満たしていった。
誰からも愛されない。
本当は愛されたかった。ぼくが勝手にいなくなれば、もしかしたら母は慌てて探しに来てくれるんじゃないかって。ぼくは桟橋の前で一晩中、ずっと待っていた。でも誰も来なかった。もう戻れる場所はない。
「ジル、嬉しいよ! だって君のことが大好きだからね!」
白い頬を赤リンゴのように染めて、ぼくの両手をぎゅっと握るララ。
泣きたくなった。初めてずっと辛かったんだってわかった。そしてこの胸の温かさは、しあわせって名前なんだって知った。
両親と故郷から逃げてきたぼくと、一緒にいてくれた奇跡のような人。ララはぼくが名前を呼んだことを、とても喜んでくれた。
灰色で、ともすれば黒で塗りつぶされたキャンバスの中で生きていた。どういうわけか、光なんて見えなくて。盲目で歩んできたような気さえしていた。それが一転した。目に見えるものが照らし出されて、さまざまな色が息を吹き返してぼくの前にあふれた。その中心にはララがいる。
「ララ、ぼくも……ぼくもきみのことがすきだよ」
恋と呼ぶには深すぎて、愛と呼ぶには激しかった。そのくせ、凪いだ海のように穏やかで、かと思えば苦しくて。ララがほほえめばぼくは火にだって飛び込める。筆をもつこの指だって捧げることができる。
けれど、ララはそんなことは望まない。だからぼくは描き続けることを選んだ。美しい絵を、優美な曲線を、世界を照らすような光を。それはすべてララだ。理想郷に住むぼくの女神だって言ったら笑うだろうな。
ララを通して、ぼくはようやく世界を見ることができる。
だれよりもきみが大切だ。なによりも。




